表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
69/103

「最後の夢」


夢は、死とよく似ている。


目を閉じて、意識が遠ざかっていく感覚。

自分がどこにいるのか、何者なのか、なぜここにいるのか——

それらの問いは、ただ曖昧なまま、柔らかく溶けていく。


夢の中では、世界に理屈がない。

空は部屋の中にあって、時間は逆に流れ、知らないはずの他人が当たり前のようにそこにいる。

にもかかわらず、人はその非論理を疑わない。

むしろ安心してさえいる。


死もきっと、似たようなものなのだろう。

静かで、暗くて、痛みも意味も希薄になっていく。


ただ一つ違うのは、夢は、誰かに伝えることができるという点だ。


目覚めた者の口から、夢は語られ、記録され、共有される。

それがどれほど不確かであろうと、

「確かに、そんな夢を見た」という一点だけは、嘘にならない。


だからこそ、奇妙なことだと思う。

死んだはずの人間が見ていた夢を、

まだ生きている誰かが、まったく同じかたちで追体験している。


それは本当に夢なのか。

それとも、死の断片が世界のどこかに残っていて、再生されているだけなのか。


僕が体験したのは、そんな“最後の夢”だった。

夢が、終わる瞬間ではなく——


終わったあとにも、まだ続いていた夢の話だ。



 日曜の昼下がり、珈琲の香りがようやく部屋に馴染み始めたころだった。

 スマートフォンが震え、画面には見覚えのある名前が表示された。


「久しぶり、一ノ瀬くん。……まだ変なものばかり追いかけてるのか?」


 声の主は、大学時代の友人で、今は総合病院に勤務している精神科医の春名だった。


「いきなりで悪いんだけど、ちょっと奇妙な話があるんだ」


 彼の話はこうだ。

 同じ病棟で入院していた3人の患者が、全く同じ夢を見ていたという。

 全員が数日間の昏睡状態から目覚めた直後に、その夢について語り始めた。


「夢の内容は、全員一致してた。

 場所は、静かな劇場みたいな空間。誰もいない客席。

 でも、舞台の上には一人だけ男が立ってるって言うんだよ。

 そいつが、語りかけてくるらしい。延々と」


 一ノ瀬は、コーヒーを一口啜った。

 こういう話は時々ある。夢は記憶の組み合わせで、偶然の一致が起きることもある。


 だが、次の一言で背筋が冷えた。


「全員、その男の名前を“はっきり”覚えてた。

 ……一ノ瀬一二三。君の名前だったんだよ」



春名の紹介で、僕は病院の一室に通された。

 そこには、昏睡状態から回復したばかりの三人が、静かに座っていた。


 年齢も性別もまちまちだ。

 事故で頭部を強打した男子大学生、脳梗塞を起こした初老の女性、そして投薬過多で倒れた中年の男。

 面識は一切ない。


 それでも、三人の証言は驚くほど一致していた。


 ——舞台。

 ——静寂。

 ——無人の劇場のような場所。


「明かりがすごく強くて、客席が暗いんです。

 誰もいないはずなのに、誰かが見てるような気がして……」


 と、女性が呟く。


「でも、その中に一人だけ、舞台に立ってる男がいて。

 スーツを着てて、眼鏡かけてて……あなたみたいな感じで……」

 と、大学生が僕を見て言った。


 「その人、何か喋ってましたか?」


 三人は顔を見合わせ、同時に頷いた。


「ええ。ずっと話してた。よくわからない話ばかりだったけど……」


 「言葉が、頭に直接入ってくる感じだったな。声じゃなくて、思考みたいな……」


 「でも、最後だけ、はっきり聞こえたんです」


 全員が繰り返すように言った。


「——まだ終わってない。最後の夢は、これからだ。」


 僕は一瞬、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 その言葉に、聞き覚えがあるような気がしたのだ。

 けれど、それがどこでだったか、どうしても思い出せない。



その晩、僕は妙に眠れなかった。

 頭の奥に、劇場のような静けさがこびりついていた。


 午前3時すぎ、ようやくまどろんだと思った瞬間——

 意識のどこかが、カチリと音を立てて別の空間に切り替わった。


 そこは、夢だった。


 だが、普段の夢とは何かが違う。

 空気が重い。色彩がない。温度も匂いもない。

 ただ、舞台があった。

 暗い客席と、強すぎる照明。


 僕は——舞台の上に立っていた。


 スーツを着て、無表情で、客席を見下ろしている。

 何かを話しているのがわかる。だが、声は聞こえない。

 音がないのに、言葉だけが頭の中に届く。


 「この物語はまだ終わっていない。

  終わったと思った瞬間からが、“最後の夢”なんだ」


 その瞬間、自分が何をしているのか、はっきり理解した。


 僕は、誰かの夢の中で“語り部”になっていた。

 観客は暗くて見えない。だが、いる。確実に、そこにいる。

 そして、彼らは——死にかけている。


 この劇場は、死の淵で繰り返される最後の夢。

 その案内人として、僕がそこに立っている。


 ——目が覚めたとき、喉が焼けるように乾いていた。


 ベッドの脇のノートに、震える手で書き殴る。


「“最後の夢は、これからだ”

 ……僕が言った。確かに、僕だった。」



あの夢は、どこから始まったのか。

 何が、誰が、それを見ていたのか。


 調査を進めるうちに、春名から一通のメールが届いた。

 添付されていたのは、病棟の看護記録の断片。

 そこには、患者たちが昏睡状態に入る3日前に死亡した青年の記録が残されていた。


 名前は北園壮馬。

 交通事故による頭部損傷で、1週間昏睡状態のまま死亡。


 春名によれば、彼の病室と、例の患者たちは同じ階に入院していたという。


「面白いのはな、壮馬が死ぬ直前、モニターに異常な脳波が記録された。

 昏睡中とは思えないレベルの、激しい活動。

 まるで……何かを必死に“伝えようとしていた”みたいだった」


 僕は壮馬の両親に連絡を取り、遺品を見せてもらえることになった。

 その中に、黒いノートがあった。

 びっしりと書き込まれた文字は、すべて夢の記録だった。


 最後のページには、こう記されていた。


「毎晩、同じ夢を見ている。劇場。客席。誰もいない。

 だけど、いつも“あの人”が語ってくれる。

 一ノ瀬一二三。彼の声が、僕を安心させてくれる」


「もし僕がいなくなっても、誰かがこの夢を見てくれますように。

 最後の夢が、ちゃんと届きますように。」


 この夢は、北園壮馬という一人の死者の“祈り”だった。


 そして僕は、その祈りの中にいた。

 彼が見た“最後の夢”の案内人として、誰かに語りかける役割を与えられていた。



 あれ以来、夜が深まるほどに現実が遠のいていく感覚があった。

 眠ってもいないのに、ふと気がつくと——

 僕は舞台の上に立っている。


 誰もいない客席。

 強すぎるライト。

 まるで、見る側と見られる側が逆転したような空間。


 僕は語っている。

 夢の中で出会った誰かの記憶を、優しく、淡々と、語り続けている。

 声にはならない。けれど、その思考は誰かの心に届いていく。


 「大丈夫だよ。

  君の夢は、終わっていない。

  最後の夢は、これからだ」


 観客席の一番奥に、ふと気配がある。

 薄く光る目。こちらをじっと見ている誰か。

 顔はわからない。けれど、どこか懐かしい気がした。


 目が覚めたとき、手には何もなかった。

 だが、胸の奥に、誰かの最期の風景が静かに残っていた。



僕は誰かの夢の中にいた。

それが誰の夢だったのか、もう思い出せない。


けれど、確かにそこに感情があった。風景があった。


死の間際、人は夢を見るという。

世界と自分をつなぐ、最後の物語。


その物語が語られ続ける限り——

その人は、まだ終わっていない。



【終】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ