「最後の夢」
夢は、死とよく似ている。
目を閉じて、意識が遠ざかっていく感覚。
自分がどこにいるのか、何者なのか、なぜここにいるのか——
それらの問いは、ただ曖昧なまま、柔らかく溶けていく。
夢の中では、世界に理屈がない。
空は部屋の中にあって、時間は逆に流れ、知らないはずの他人が当たり前のようにそこにいる。
にもかかわらず、人はその非論理を疑わない。
むしろ安心してさえいる。
死もきっと、似たようなものなのだろう。
静かで、暗くて、痛みも意味も希薄になっていく。
ただ一つ違うのは、夢は、誰かに伝えることができるという点だ。
目覚めた者の口から、夢は語られ、記録され、共有される。
それがどれほど不確かであろうと、
「確かに、そんな夢を見た」という一点だけは、嘘にならない。
だからこそ、奇妙なことだと思う。
死んだはずの人間が見ていた夢を、
まだ生きている誰かが、まったく同じかたちで追体験している。
それは本当に夢なのか。
それとも、死の断片が世界のどこかに残っていて、再生されているだけなのか。
僕が体験したのは、そんな“最後の夢”だった。
夢が、終わる瞬間ではなく——
終わったあとにも、まだ続いていた夢の話だ。
◇
日曜の昼下がり、珈琲の香りがようやく部屋に馴染み始めたころだった。
スマートフォンが震え、画面には見覚えのある名前が表示された。
「久しぶり、一ノ瀬くん。……まだ変なものばかり追いかけてるのか?」
声の主は、大学時代の友人で、今は総合病院に勤務している精神科医の春名だった。
「いきなりで悪いんだけど、ちょっと奇妙な話があるんだ」
彼の話はこうだ。
同じ病棟で入院していた3人の患者が、全く同じ夢を見ていたという。
全員が数日間の昏睡状態から目覚めた直後に、その夢について語り始めた。
「夢の内容は、全員一致してた。
場所は、静かな劇場みたいな空間。誰もいない客席。
でも、舞台の上には一人だけ男が立ってるって言うんだよ。
そいつが、語りかけてくるらしい。延々と」
一ノ瀬は、コーヒーを一口啜った。
こういう話は時々ある。夢は記憶の組み合わせで、偶然の一致が起きることもある。
だが、次の一言で背筋が冷えた。
「全員、その男の名前を“はっきり”覚えてた。
……一ノ瀬一二三。君の名前だったんだよ」
◇
春名の紹介で、僕は病院の一室に通された。
そこには、昏睡状態から回復したばかりの三人が、静かに座っていた。
年齢も性別もまちまちだ。
事故で頭部を強打した男子大学生、脳梗塞を起こした初老の女性、そして投薬過多で倒れた中年の男。
面識は一切ない。
それでも、三人の証言は驚くほど一致していた。
——舞台。
——静寂。
——無人の劇場のような場所。
「明かりがすごく強くて、客席が暗いんです。
誰もいないはずなのに、誰かが見てるような気がして……」
と、女性が呟く。
「でも、その中に一人だけ、舞台に立ってる男がいて。
スーツを着てて、眼鏡かけてて……あなたみたいな感じで……」
と、大学生が僕を見て言った。
「その人、何か喋ってましたか?」
三人は顔を見合わせ、同時に頷いた。
「ええ。ずっと話してた。よくわからない話ばかりだったけど……」
「言葉が、頭に直接入ってくる感じだったな。声じゃなくて、思考みたいな……」
「でも、最後だけ、はっきり聞こえたんです」
全員が繰り返すように言った。
「——まだ終わってない。最後の夢は、これからだ。」
僕は一瞬、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
その言葉に、聞き覚えがあるような気がしたのだ。
けれど、それがどこでだったか、どうしても思い出せない。
◇
その晩、僕は妙に眠れなかった。
頭の奥に、劇場のような静けさがこびりついていた。
午前3時すぎ、ようやくまどろんだと思った瞬間——
意識のどこかが、カチリと音を立てて別の空間に切り替わった。
そこは、夢だった。
だが、普段の夢とは何かが違う。
空気が重い。色彩がない。温度も匂いもない。
ただ、舞台があった。
暗い客席と、強すぎる照明。
僕は——舞台の上に立っていた。
スーツを着て、無表情で、客席を見下ろしている。
何かを話しているのがわかる。だが、声は聞こえない。
音がないのに、言葉だけが頭の中に届く。
「この物語はまだ終わっていない。
終わったと思った瞬間からが、“最後の夢”なんだ」
その瞬間、自分が何をしているのか、はっきり理解した。
僕は、誰かの夢の中で“語り部”になっていた。
観客は暗くて見えない。だが、いる。確実に、そこにいる。
そして、彼らは——死にかけている。
この劇場は、死の淵で繰り返される最後の夢。
その案内人として、僕がそこに立っている。
——目が覚めたとき、喉が焼けるように乾いていた。
ベッドの脇のノートに、震える手で書き殴る。
「“最後の夢は、これからだ”
……僕が言った。確かに、僕だった。」
◇
あの夢は、どこから始まったのか。
何が、誰が、それを見ていたのか。
調査を進めるうちに、春名から一通のメールが届いた。
添付されていたのは、病棟の看護記録の断片。
そこには、患者たちが昏睡状態に入る3日前に死亡した青年の記録が残されていた。
名前は北園壮馬。
交通事故による頭部損傷で、1週間昏睡状態のまま死亡。
春名によれば、彼の病室と、例の患者たちは同じ階に入院していたという。
「面白いのはな、壮馬が死ぬ直前、モニターに異常な脳波が記録された。
昏睡中とは思えないレベルの、激しい活動。
まるで……何かを必死に“伝えようとしていた”みたいだった」
僕は壮馬の両親に連絡を取り、遺品を見せてもらえることになった。
その中に、黒いノートがあった。
びっしりと書き込まれた文字は、すべて夢の記録だった。
最後のページには、こう記されていた。
「毎晩、同じ夢を見ている。劇場。客席。誰もいない。
だけど、いつも“あの人”が語ってくれる。
一ノ瀬一二三。彼の声が、僕を安心させてくれる」
「もし僕がいなくなっても、誰かがこの夢を見てくれますように。
最後の夢が、ちゃんと届きますように。」
この夢は、北園壮馬という一人の死者の“祈り”だった。
そして僕は、その祈りの中にいた。
彼が見た“最後の夢”の案内人として、誰かに語りかける役割を与えられていた。
◇
あれ以来、夜が深まるほどに現実が遠のいていく感覚があった。
眠ってもいないのに、ふと気がつくと——
僕は舞台の上に立っている。
誰もいない客席。
強すぎるライト。
まるで、見る側と見られる側が逆転したような空間。
僕は語っている。
夢の中で出会った誰かの記憶を、優しく、淡々と、語り続けている。
声にはならない。けれど、その思考は誰かの心に届いていく。
「大丈夫だよ。
君の夢は、終わっていない。
最後の夢は、これからだ」
観客席の一番奥に、ふと気配がある。
薄く光る目。こちらをじっと見ている誰か。
顔はわからない。けれど、どこか懐かしい気がした。
目が覚めたとき、手には何もなかった。
だが、胸の奥に、誰かの最期の風景が静かに残っていた。
◇
僕は誰かの夢の中にいた。
それが誰の夢だったのか、もう思い出せない。
けれど、確かにそこに感情があった。風景があった。
死の間際、人は夢を見るという。
世界と自分をつなぐ、最後の物語。
その物語が語られ続ける限り——
その人は、まだ終わっていない。
【終】




