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無名碑


名前がないものは、存在しないとされる。

だが、本当にそうだろうか。


名前がないからこそ、誰でもないまま、どこにでもいられる。

それは“存在しない”のではなく、存在し続けているということだ。


けれど、ひとたび名前を与えられれば——

それは消える。

名前という輪郭に縛られ、時間に絡め取られてしまうからだ。



ポストに紛れ込んでいた茶封筒は、宛名も差出人もなかった。


 中に入っていたのは、一枚のモノクロ写真だった。

 どこかの墓地だろうか。

 雑草に埋もれた石碑が一基、ぽつんと立っている。

 けれど、その石碑には何も刻まれていなかった。

 名前も、日付も、祈りの言葉すらもない——完全な空白。


 裏面には、震えるような文字でこう書かれていた。


「名前が消えた。助けてくれ。

 ……僕は、誰だった?」


 差出人は記されていない。

 けれど、僕は見覚えがあった。


 草野亮太。

 数年前に一度だけ取材したフリーカメラマンだ。

 古い神社仏閣を巡っては、奇妙な現象を撮るのを趣味にしていた。


 草野の名前を検索してみたが、SNSもブログも更新が止まっていた。

 最後の投稿は三ヶ月前——「これから消えるものを撮りに行く」という一文だけだった。


 ——名前が消えた。

 その言葉が胸に引っかかった。


 墓碑の写り込んだ背景を解析してみると、かろうじて山の稜線と特徴的な祠が写っている。

 それが、地図に載っていない村の存在を教えてくれた。


 その村は、地図のどこにも載っていなかった。


 国道沿いの山道を外れ、舗装もされていない獣道を進むこと三時間。

 僕はようやく、草野亮太が撮影したあの祠に辿り着いた。

 その奥に、ぽつりぽつりと古びた家が並ぶ、集落のようなものがあった。


 ——人の気配は、あった。

 けれど、まるで世界から切り離されたような静けさが辺りを包んでいた。


「こんにちは」

 僕が声をかけると、一人の老婆がこちらを振り向いた。

 皺だらけの顔に、無表情のまま——だが、どこか安心したような目をしていた。


「草野亮太さんという方を探しています。ここに来たはずなのですが——」


 老婆は少しだけ首を傾け、こう答えた。


「……あの人、か?」


 指さした先には、確かに誰かの家があった。

 けれど、老婆は名前を呼ばなかった。


 その後、何人かの村人と会話を試みたが、誰もが「あの人」「あの方」「あそこの」といった曖昧な言葉ばかりを使う。

 まるで——名前を口にすることを避けているかのように。


 やがて僕は、村のはずれに佇む石碑へと案内された。

 それは、草野亮太が撮影したものと同じだった。


 近づくにつれて、胸の奥がざわつき始めた。

 その石碑の前に立った瞬間、自分の口から、すらりと出てくるはずの**“一ノ瀬一二三”**という名前が——

 喉元で引っかかった。



取材ノートを開き、自分の名前を書こうとした。

 だが、ペン先が一文字目で止まった。

 “一”の形が、うまく思い出せない。


 何度か深呼吸をして、改めて書き出す。

 ——ようやく、“一ノ瀬一二三”と書けた。

 けれど、その文字は、どこか自分のものではないような感覚が残った。


 村人に尋ねても、やはり誰も自分の名を呼ばない。

 あの老婆は、僕のことを「あんた」としか呼ばなかった。


「その石碑は……何なのですか?」


 老婆はしばらく考えるように間を置き、ぽつりと呟いた。


「忘れるためのものだよ。」


「忘れる?」


「名前を刻んで、生き延びる。名前を刻まなければ、忘れられて消える。

 誰もいなくならないように、時々、誰かの名前を刻むのさ。」


 それが、**“無名碑”**と呼ばれている石碑の正体だった。


 村では、名前を呼び合わない。

 代わりに、墓碑に名前を刻むことで、お互いの存在を確かめている。


「そうしなければ、誰が誰だったか、すぐに曖昧になるからね」


 老婆はそう言って、遠くを眺めた。

 視線の先には、消えかけた墓碑の影がいくつもあった。

 輪郭だけが残り、名前も形も失った“存在の痕跡”。


 僕はそっとノートを閉じた。

 名前を書いたはずのページの文字が、少しだけ薄くなっている気がした。



 夕暮れが近づくにつれて、世界がすりガラス越しにぼやけていくような感覚が強くなっていた。


 道を引き返そうとしても、さっき通ったはずの分かれ道が見つからない。

 村の家々も、輪郭が曖昧になり、まるで夢の中の建物のようにふらついている。


 僕は再び、無名碑の前に立った。


 今度ははっきりとわかる。

 石碑の表面がわずかに濡れているように見えた。

 まるで、そこに刻まれていたはずの名前が、じわじわと溶け出していったかのように。


 その傍らに、名札をつけたリュックサックが置かれていた。

 草野亮太——その名が、かろうじて読めた。

 けれど、バッグの持ち主はもういない。

 名札がなければ、そこに誰がいたのか、もう誰にも思い出せなかっただろう。


 そのとき、頭の中に、まるで遠くから響くような声が聞こえた。


「刻めば、戻る……」


 ふとノートを開いた。

 自分の名前を書いたページの文字は、今やほとんど読めない。

 墨が滲んだようにぼやけている。


 このままでは、僕も“誰でもない何か”になる。


 ページの端には、細い線で、誰かの名前が走り書きされていた。

 草野亮太。

 おそらく彼自身が、自分の名を刻み直そうとしたのだ。

 けれど、他人の名前を使わずに、元の自分を留めることはできなかったのだろう。


 ——誰かの名前を刻めば、自分を保てる。

 でもそれは、その誰かを“代わりに消す”ということだ。


 今、僕の目の前には、ペンがある。

 石碑の表面には、名前を刻むための空白がある。

 そして——記憶の中には、まだはっきりと誰かの名前が、いくつか、残っている。



 翌朝、僕は村を離れた。

 どうやって戻ってきたのか、正確な記憶はない。

 けれど、気づいたときには事務所のソファに座っていて、靴の裏にはあの村の泥がこびりついていた。


 取材ノートを開くと、日付の横にあるべき名前が、薄い影のように滲んでいた。

 “僕”の署名。

 確かにそこに書いたはずなのに、今はほとんど判読できない。


 自分の声で名前を言ってみる。

 喉の奥がざらつく。

 “イチノセ……”の音が、紙に吸われて消えていくようだった。


 机の上には、あの村で拾った草野亮太のリュックが置いてある。

 名札はもう外してある。

 名を呼ばなければ、その人は“いた”ことにならない。


 ——僕は、その名を石碑に刻んだのか。

 それとも、刻まなかったのか。


 ……思い出せない。


 ただ、ひとつだけはっきりしている。

 あの村には、記録されなかった死があり、

 この世界には、誰にも知られずに失われた名前たちがいる。




名前があるということは、輪郭を与えられるということだ。

だが、輪郭を持つものは、いずれ境界から崩れていく。


忘れられたものは、やがて自由になる。

それでも人は、忘れられないために、名前を刻む。


——誰かの名前を踏み台にしてでも、消えたくないと思ってしまう。


だから、僕の名前が消えかけているのも、きっと当然の報いなのだろう。



【終】

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