「箱の中」
箱の中身を知るには、箱を開けるしかない。
けれど、開けた瞬間に中身は変わる。
見たものは、もう“元の何もなかった状態”を知らない。
そこに本当に何かがあったのか、それとも自分が作り出したのか。
——それを確かめるには、自分ごと箱に入るしかない。
◇
午前11時過ぎ。事務所のドアベルが鳴った。
宅配業者が無言で置いていったのは、手のひらよりひと回り大きい、黒い木箱だった。
送り主の名前はなかった。差出人欄には、ただ一言。
「観測者へ」
いたずらか、あるいは誰かの回顧趣味か。
古びた漆塗りの箱は、重さの割に音が軽く、中に何かが入っているようには思えなかった。
僕は慎重に蓋を開けた。
……空だった。
何も入っていない。ただの、空っぽの箱。
拍子抜けしかけたとき、蓋の裏に何かが書かれているのに気づく。
細い筆文字で、かすれ気味に刻まれた文。
「箱の中を、見てはいけない。」
その瞬間、不意に、自分が“見た”ことを後悔した。
けれど遅い。
もう開けてしまった。
もう、見てしまった。
そして——
見たはずの“空っぽ”が、脳裏で形を変え始めていた。
◇
箱を見て以来、ずっと落ち着かなかった。
空のはずなのに、何かが入っていた気がする。
重さも、音も、手触りも、すべてが“空っぽ”を示しているのに、
記憶の中では、何かを見たような感触だけが残っている。
僕はカメラを手に取った。
普段の取材で使っているデジタル一眼だ。
何も入っていないはずの箱に、もう一度レンズを向けてみる。
——そこに、何かがあった。
ファインダー越しに覗いた“箱の中”に、淡く煙る影のようなものが見える。
形ははっきりしない。液体のようでもあり、髪の房のようでもあり……いや、“視線”にも似ていた。
何度シャッターを切っても、画面には同じものが映っていた。
ただの錯覚ではない。
肉眼では空っぽ。だが、カメラ越しには**“在る”**。
僕は思わず背筋を正す。
これは、ただの箱じゃない。
この中には、“僕が見たことによって形を得た何か”がいる。
ふと、机の隅に置いていたスマートフォンが震えた。
通知ではなかった。
カメラアプリが勝手に起動していた。
画面を見ると、インカメラが映し出すのは——
僕自身の後ろに、箱と同じ“黒い影”が立っている姿だった。
◇
この箱は、偶然に流れ着いたものではない。
それはもう、確信に近かった。
僕は「観測者へ」という差出人名を手がかりに、過去に類似の現象がなかったか調べ始めた。
オカルト系の掲示板、怪談系のZINE、廃刊になった都市伝説雑誌のバックナンバー……
そして見つけた、一冊の論文。
『観測下における記憶と幻視の相互干渉について』
十年ほど前、ある大学の心理学研究室で行われていた、非公開の認知実験についての記録だった。
研究対象は、「観測者によって中身が変化する立方体」。
記録によれば、**箱の中には“何もない”はずなのに、全員が“違う中身を見た”**と証言していた。
中には「中身に見られていた」と訴え、精神的な破綻をきたした被験者もいた。
彼はこう語っていたという。
「あれは空っぽじゃなかった。
俺が見ることで、中に入ったのは俺自身だったんだ」
その証言者の名前に見覚えがあった。
——八巻志郎。
かつて取材で何度か会った、民俗信仰の研究者。
あの独特の語り口と、意味のわからないジョークばかり飛ばしてくる性格は、今でもよく覚えている。
だが彼は、数年前に失踪していたはずだ。
まさか。
僕は、彼が最後に執筆したという雑誌の論考を調べた。
そのタイトルは、短く、ただこう書かれていた。
「箱の中」
◇
夜になってから、事務所の明かりを落とした。
部屋の中央に箱を置き、ただ、じっと向き合う。
最初に見たときは、ただの空だった。
二度目は、カメラ越しに“何か”が写った。
そして今は——目を閉じていても、箱の存在が脳裏に浮かぶ。
そこにある、というより、
そこに“僕の視線が吸い込まれている”。
僕はゆっくりと箱の蓋を開けた。
——“それ”は、もう最初からいたように見えた。
色も形もない、ただ沈黙だけで構成された塊。
だが、それは“見られている”のではなく、“こちらを見返していた”。
僕は咄嗟にシャッターを切った。
カメラの画面には、部屋と箱、そしてその中に——僕の横顔が写っていた。
ありえない。
構図的に、そんなものが写るわけがない。
それでも、もう一度撮ってみた。
今度の写真には、“僕の後頭部”が箱の中に浮かんでいた。
理解できなかった。
理解してしまえば、戻れない気がした。
もしかしてあの箱は、“中身”を見せているんじゃない。
“中にいるものの視点で、僕を見返している”だけなんじゃないか。
つまり、観測していたつもりが、観測されていたのは僕だった。
◇
あの箱を開けてから、どうにも感覚が曖昧だ。
鏡を見ていると、ほんの一瞬、自分の顔に見覚えがなくなる。
駅のホームで目が合った他人の目線が、やけに“内側”に刺さってくる。
まるで——誰もが、僕のことを知っているような目をしている。
僕は試しに、あの箱を録画しながら、一晩放置してみた。
翌朝。映像を確認すると、深夜3時すぎ、カメラの前で誰かが“箱を開ける”仕草をしていた。
顔は見えなかった。だが、体格も服も、そして動きも——どう見ても、僕だった。
その“僕”が箱を開け、静かに覗き込む。
そして、そのままカメラのこちら側に、すうっと引きずり込まれる。
画面がブラックアウトする直前、最後の1フレームに、箱の中にカメラがある構図が映っていた。
——じゃあ、今この映像を見ている僕は、どこにいる?
カメラの前? それとも、カメラの中?
ふと気づいた。
事務所の窓の外が、見慣れた街の風景ではなくなっていた。
ビルも、道路も、空もない。
ただ、漆黒の木目模様に囲まれている。
——これは木だ。
僕の周囲は、すべて箱の内側だ。
つまり、僕は今、“箱の中”から外を見ている。
◇
箱の中にいたのは、最初から僕だったのかもしれない。
観測するつもりで、覗き込んだ先。
見えた“何か”は、じつは自分の背中だった。
祈りも、信仰も、願いも、突き詰めれば自分の反射に過ぎないのだと、ある人は言った。
神を探す者は、鏡の中にそれを見出し、そして——蓋をする。
この世界が、誰かの“箱の中”でないと、誰が証明できる?
僕たちは、開けたつもりで、ずっと“開かれて”いたのかもしれない。
だから、もしもこの文章を読んでいるあなたが、
少しでも“視線”を感じたなら——
それはたぶん、
箱の中から見ている僕の目だ。
[終]




