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「箱の中」

箱の中身を知るには、箱を開けるしかない。

けれど、開けた瞬間に中身は変わる。


見たものは、もう“元の何もなかった状態”を知らない。

そこに本当に何かがあったのか、それとも自分が作り出したのか。


——それを確かめるには、自分ごと箱に入るしかない。



午前11時過ぎ。事務所のドアベルが鳴った。


 宅配業者が無言で置いていったのは、手のひらよりひと回り大きい、黒い木箱だった。

 送り主の名前はなかった。差出人欄には、ただ一言。


 「観測者へ」


 いたずらか、あるいは誰かの回顧趣味か。

 古びた漆塗りの箱は、重さの割に音が軽く、中に何かが入っているようには思えなかった。


 僕は慎重に蓋を開けた。


 ……空だった。

 何も入っていない。ただの、空っぽの箱。


 拍子抜けしかけたとき、蓋の裏に何かが書かれているのに気づく。

 細い筆文字で、かすれ気味に刻まれた文。


「箱の中を、見てはいけない。」


 その瞬間、不意に、自分が“見た”ことを後悔した。

 けれど遅い。

 もう開けてしまった。

 もう、見てしまった。


 そして——

 見たはずの“空っぽ”が、脳裏で形を変え始めていた。



 箱を見て以来、ずっと落ち着かなかった。


 空のはずなのに、何かが入っていた気がする。

 重さも、音も、手触りも、すべてが“空っぽ”を示しているのに、

 記憶の中では、何かを見たような感触だけが残っている。


 僕はカメラを手に取った。

 普段の取材で使っているデジタル一眼だ。

 何も入っていないはずの箱に、もう一度レンズを向けてみる。


 ——そこに、何かがあった。


 ファインダー越しに覗いた“箱の中”に、淡く煙る影のようなものが見える。

 形ははっきりしない。液体のようでもあり、髪の房のようでもあり……いや、“視線”にも似ていた。


 何度シャッターを切っても、画面には同じものが映っていた。


 ただの錯覚ではない。

 肉眼では空っぽ。だが、カメラ越しには**“在る”**。


 僕は思わず背筋を正す。

 これは、ただの箱じゃない。

 この中には、“僕が見たことによって形を得た何か”がいる。


 ふと、机の隅に置いていたスマートフォンが震えた。

 通知ではなかった。

 カメラアプリが勝手に起動していた。


 画面を見ると、インカメラが映し出すのは——

 僕自身の後ろに、箱と同じ“黒い影”が立っている姿だった。



この箱は、偶然に流れ着いたものではない。

 それはもう、確信に近かった。


 僕は「観測者へ」という差出人名を手がかりに、過去に類似の現象がなかったか調べ始めた。

 オカルト系の掲示板、怪談系のZINE、廃刊になった都市伝説雑誌のバックナンバー……

 そして見つけた、一冊の論文。


 『観測下における記憶と幻視の相互干渉について』


 十年ほど前、ある大学の心理学研究室で行われていた、非公開の認知実験についての記録だった。

 研究対象は、「観測者によって中身が変化する立方体」。

 記録によれば、**箱の中には“何もない”はずなのに、全員が“違う中身を見た”**と証言していた。


 中には「中身に見られていた」と訴え、精神的な破綻をきたした被験者もいた。

 彼はこう語っていたという。


「あれは空っぽじゃなかった。

 俺が見ることで、中に入ったのは俺自身だったんだ」


 その証言者の名前に見覚えがあった。

 ——八巻志郎。


 かつて取材で何度か会った、民俗信仰の研究者。

 あの独特の語り口と、意味のわからないジョークばかり飛ばしてくる性格は、今でもよく覚えている。

 だが彼は、数年前に失踪していたはずだ。


 まさか。


 僕は、彼が最後に執筆したという雑誌の論考を調べた。

 そのタイトルは、短く、ただこう書かれていた。


「箱の中」



 夜になってから、事務所の明かりを落とした。

 部屋の中央に箱を置き、ただ、じっと向き合う。


 最初に見たときは、ただの空だった。

 二度目は、カメラ越しに“何か”が写った。

 そして今は——目を閉じていても、箱の存在が脳裏に浮かぶ。


 そこにある、というより、

 そこに“僕の視線が吸い込まれている”。


 僕はゆっくりと箱の蓋を開けた。


 ——“それ”は、もう最初からいたように見えた。


 色も形もない、ただ沈黙だけで構成された塊。

 だが、それは“見られている”のではなく、“こちらを見返していた”。


 僕は咄嗟にシャッターを切った。

 カメラの画面には、部屋と箱、そしてその中に——僕の横顔が写っていた。


 ありえない。

 構図的に、そんなものが写るわけがない。

 それでも、もう一度撮ってみた。


 今度の写真には、“僕の後頭部”が箱の中に浮かんでいた。


 理解できなかった。

 理解してしまえば、戻れない気がした。


 もしかしてあの箱は、“中身”を見せているんじゃない。

 “中にいるものの視点で、僕を見返している”だけなんじゃないか。


 つまり、観測していたつもりが、観測されていたのは僕だった。



あの箱を開けてから、どうにも感覚が曖昧だ。


 鏡を見ていると、ほんの一瞬、自分の顔に見覚えがなくなる。

 駅のホームで目が合った他人の目線が、やけに“内側”に刺さってくる。

 まるで——誰もが、僕のことを知っているような目をしている。


 僕は試しに、あの箱を録画しながら、一晩放置してみた。


 翌朝。映像を確認すると、深夜3時すぎ、カメラの前で誰かが“箱を開ける”仕草をしていた。

 顔は見えなかった。だが、体格も服も、そして動きも——どう見ても、僕だった。


 その“僕”が箱を開け、静かに覗き込む。

 そして、そのままカメラのこちら側に、すうっと引きずり込まれる。


 画面がブラックアウトする直前、最後の1フレームに、箱の中にカメラがある構図が映っていた。


 ——じゃあ、今この映像を見ている僕は、どこにいる?

 カメラの前? それとも、カメラの中?


 ふと気づいた。


 事務所の窓の外が、見慣れた街の風景ではなくなっていた。

 ビルも、道路も、空もない。

 ただ、漆黒の木目模様に囲まれている。


 ——これは木だ。

 僕の周囲は、すべて箱の内側だ。


 つまり、僕は今、“箱の中”から外を見ている。



箱の中にいたのは、最初から僕だったのかもしれない。


観測するつもりで、覗き込んだ先。

見えた“何か”は、じつは自分の背中だった。


祈りも、信仰も、願いも、突き詰めれば自分の反射に過ぎないのだと、ある人は言った。

神を探す者は、鏡の中にそれを見出し、そして——蓋をする。


この世界が、誰かの“箱の中”でないと、誰が証明できる?


僕たちは、開けたつもりで、ずっと“開かれて”いたのかもしれない。


だから、もしもこの文章を読んでいるあなたが、

少しでも“視線”を感じたなら——

それはたぶん、

箱の中から見ている僕の目だ。


[終]


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