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「おつまみ」

料理の味というのは、記憶に残るものだ。

 特に美味いものほど、鮮明に思い出せる。

 幼い頃に食べた母親の手料理、旅先で偶然見つけた名もなき食堂の一品、仕事帰りにふらりと入った店で出会った絶品のつまみ——。


 食べた瞬間、味や香りだけでなく、そのときの情景や空気までもが鮮やかに蘇ることがある。

 人の記憶は曖昧で頼りないものだが、舌の記憶は意外なほど正確だ。


 だが——ごく稀に、“食べたはずなのに、思い出せない料理”というものがある。

 どんな味だったのか、何で作られていたのか、どんな見た目だったのか。

 それが頭の中からふっと抜け落ちる。


 気づいたときには、まるで最初からそんな料理など存在しなかったかのように。

 ただ、不思議なことに——


 「それが美味かった」という記憶だけは、妙にはっきりと残っているのだ。


 この話は、そんな”消えた料理”についての話である。

 僕が確かに食べたはずの料理、しかし、誰もその存在を覚えていない。

 それどころか、その料理が本当にあったのかどうかすら、疑わしくなってくるような体験——。


 「おつまみ」の話をしよう。



 その日、仕事を終えた僕は、いつものように馴染みの居酒屋へと足を運んだ。

 店の名前は**「のれん」**。

 特に有名なわけでもなく、地元の常連客で賑わう、ごく普通の飲み屋だ。

 店の入り口には、くたびれた暖簾がかかっている。

 店内はカウンターと小さな座敷席があるだけのこぢんまりとした造りで、客の話し声と焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。


 カウンターの端に腰を下ろすと、店主の親父さんがいつものように軽く顎を上げて迎えてくれた。


 「いらっしゃい。一ノ瀬さん、いつもの?」


 「いや、今日は何かおすすめある?」


 僕がそう尋ねると、親父さんは手を拭きながらニヤリと笑った。


 「ちょうどいいところに来たな。今日の”特別”を出してやるよ」


 そう言って、親父さんは厨房の奥へと消えていった。

 “特別”と言うと、この店ではたまに親父さんが気まぐれで作る、メニューには載っていない一品のことを指す。

 この”特別”はいつも味が良い。

 僕は、さして期待もせずにビールを一口飲んだ。



 数分後、親父さんがカウンター越しに小鉢を差し出した。


 「ほらよ。今日の特別だ」


 小鉢の中には、淡い色合いの魚の南蛮漬けのようなものが盛られていた。

 香りは爽やかで、酢の効いた甘酸っぱい風味が鼻をくすぐる。


 「これは……?」


 「まぁ食ってみな。気に入ると思うぜ」


 僕は箸を取り、まずは一口。

 瞬間、口の中にじんわりと広がる旨味と、どこか懐かしい感覚がした。


 ——これは、うまい。


 表面はほんのりと炙られ、香ばしい香りがある。

 だが、魚の種類がわからない。

 白身魚のようでいて、舌触りは妙に滑らかだ。

 味付けも絶妙で、酸味と甘味のバランスが心地よい。


 「……うまいな、これ。何の魚?」


 僕が尋ねると、親父さんは首を傾げた。


 「ああ、なんだったか。魚屋にちゃんと聞いときゃよかったなあ……」


 「不思議なもんでな。あん時は覚えたと思うんだが、まるで思い出せねぇ」


 親父さんは、苦笑いを浮かべた。

 冗談めかしているが、その表情はどこか微妙だった。


 「まあ、細けぇことはいいじゃねえか。うまいか?」


 「ああ、文句なしにうまい」


 僕はビールをもう一口飲み、再び箸を伸ばす。

 不思議な味だったが、酒との相性が抜群だった。


 このとき僕は、この料理が”何かおかしいもの”だとは思いもしなかった。



 「また来たときも頼むよ」


 そう言い残して、僕は「のれん」を後にした。

 その時までは、この料理が消えるとは思ってもいなかった——。



 数日後、俺は再び「のれん」に足を運んだ。

 あの魚の南蛮漬けのようなつまみが妙に忘れがたい。

 味の余韻が舌の記憶にこびりついている。

 もう一度食べたいと思ったのは、単なる好奇心ではなかった。


 カウンターに座ると、親父さんがちらりと俺を見て、いつものように笑う。


 「いらっしゃい。今日は何にする?」


 「この前の”特別”をもう一度頼みたいんだけど」


 そう言った瞬間、親父さんの表情が曖昧に揺れた。


 「……特別?」


 「ああ、ほら、魚の南蛮漬けみたいなやつ。炙られてて、ちょっと甘酸っぱいやつ」


 親父さんはしばらく考え込む素振りを見せた後、ゆっくりと首を振った。


 「悪いな、一ノ瀬さん。うちにそんなメニューはねぇよ」


 俺は一瞬、聞き間違えたのかと思った。


 「いや、でも……この前食べたんだぞ? 親父さんが”特別”って言って出してくれたじゃないか」


 「そんなの出したか?」


 親父さんは怪訝そうな顔で首を傾げた。

 本気で思い出せないといった様子だった。


 「……ほら、僕、二回くらいおかわりしたと思うんだけど…」


 「いや、一ノ瀬さんが食ってたのは普通の焼き魚と冷奴じゃなかったか?」


 何を言っているのか理解できなかった。


 確かに食べた。

 あの味を覚えている。

 皿の上に乗っていた魚、香り、噛んだときの舌触り、口の中に広がる酸味と甘味のバランス。


 間違いなく、あの日、ここで食べたはずだ。


 「……冗談だろ?」


 僕は笑いながら問いかけたが、親父さんの顔は冗談を言っているようには見えなかった。



 気味が悪くなり、僕は周りにいた常連客に尋ねた。


 「あの日、僕の隣に座ってましたよね?あの魚のつまみ、食べたの覚えてませんか?」


 だが、誰もが怪訝な顔をして首を振る。


 「いや、お前普通に冷奴つついてただけだったぞ」


 「酒は進んでたみたいだけどな」


 ——いや、そんなはずはない。


 僕はそれ以上追求するのをやめ、黙ってビールを飲んだ。

 違和感だけがじわじわと広がる。


 僕は確かに食べた。

 あの味を覚えている。

 けれど、それを覚えているのは僕だけだった。



 その夜、帰宅してからも気になって仕方がなかった。

 僕は何かの勘違いをしていたのか?

 酒に酔っていただけなのか?


 納得がいかず、スマホの写真フォルダを確認した。

 その日、僕は飲みの席で何枚か写真を撮っていたはずだ。


 しかし——


 そこに「料理の写真」は一枚もなかった。


 むしろ、その日の写真は不自然なほど少なかった。

 何度か撮った記憶があるのに、なぜか”肝心の場面”が抜け落ちている。


 「……変だな」


 手がかりを求めてスクロールするが、どこにも”あの料理”の痕跡はない。

 まるで——最初から存在しなかったかのように。



 僕はしばらくスマホを見つめた後、ふと笑ってしまった。


 「まさか、そんなことがあるわけがない」


 食べたはずの料理が消える?

 誰も覚えていない?

 そんなことがあるはずがない。


 ——だが、ひとつだけ確信していることがある。


 あの料理は、間違いなくうまかった。



 翌日、どうしてもあの料理のことが気になり、再び「のれん」に足を運んだ。

 今度は、もっと具体的に証拠を探してみるつもりだった。


 カウンターに座ると、親父さんがいつものように「いらっしゃい」と声をかけてくる。

 その何気ないやりとりに、昨夜の違和感がますます際立つ。


 「親父さん、やっぱり思い出せないか?」


 「何を?」


 「この前の”特別”のつまみだよ。魚の南蛮漬けみたいなやつ」


 親父さんはきょとんとした顔をして首を振る。


 「悪いな、一ノ瀬さん。何度言われても思い出せねぇんだ」


 俺はため息をつく。


 「じゃあさ、その日、店にいた客の中で誰かその料理を食べたって覚えてるやつはいないか?」


 親父さんはしばらく考え込んだ後、カウンターの隅に座っていた常連の男に声をかけた。


 「なあ、お前さん、この前一ノ瀬さんが魚のつまみを食ってたの覚えてるか?」


 男は酒を片手に眉をひそめる。


 「魚のつまみ? ……そんなもん食ってたか?」


 「いや、お前もいたんだよ。その日、俺の隣に座ってたろ? 一緒に飲んでたはずだ」


 男は首を振る。


 「悪いが、そんなの見た覚えがねえな。お前、焼き魚は食ってたけど、それだけだったぞ」


 僕は無言でビールを一口飲む。

 何かがおかしい。


 僕だけが**「確かに食べた」という記憶を持っているのに、それを証明できるものが何一つない。**

 写真もない。

 目撃者もいない。

 証拠は、俺の記憶の中だけにある。



 「つまり、記憶が勝手に作られたとか……僕が見てたのは幻だったとか……」


 親父さんはしばらく俺をじっと見た後、ふっと笑った。


 「それなら、それでいいんじゃねぇの?」


 「は?」


 「実際にあったかどうかは関係ねぇよ。お前が”食べた”と思ってるなら、それが事実だろ?」


 なんとも雑な理屈だが、妙に腑に落ちる言葉だった。


 だが、僕はただの記憶違いとは思えなかった。


 このままでは、“あの料理”が本当に消えてしまう気がする。



 その晩、僕はさらに調査を進めた。

 もし、あの料理が本当に存在したのなら、どこかに似たレシピがあるはずだ。


 手始めに、古い料理本を漁ってみる。

 ネットで検索し、地元の郷土料理を調べる。

 だが、それらしい料理は一向に見つからない。


 それどころか、“あの味”の手がかりすら掴めない。


 そうして夜も更けた頃、僕はふととある古いレシピ本のページをめくった。


 そこに、こう書かれていた。


 「この料理は、食べた者の記憶に残らない」


 僕は目を疑った。


 まるで、僕が探している料理のことを言い当てているかのような記述。


 ページの端には、古い手書きの注釈があった。


 ——“とある地域に伝わる伝承料理”

 ——“記憶の中でしか味わえない料理”

 ——“食べた者が存在を語ると、味の記憶が消える”


 何だこれは。


 これが”あの料理”の正体なのか?



 僕は本を閉じ、しばらく天井を見上げて考えた。


 もしかすると、今こうしている間にも、僕の記憶から”あの味”は消えつつあるのかもしれない。


 今はまだ、舌が覚えている。

 しかし、あと数日経ったら——。


 僕も、あの料理を忘れてしまうのだろうか?



 翌朝、目が覚めると、違和感があった。


 ——何かを忘れている。

 そう思った瞬間、昨夜のことが蘇る。


 「あの料理は、食べた者の記憶に残らない」


 あのレシピ本に書かれていた一文。

 今の僕は、まだ覚えている。


 ……が、ふと気づいた。


 “味の細かい部分が思い出せない”。


 確かに美味かったはずなのに、“どんな味だったか”の輪郭がぼやけている。

 甘酸っぱかった。

 魚の風味があった。

 だが、肝心の食感や旨味のニュアンスが、昨日よりもさらに曖昧になっていた。


 「このままだと、本当に忘れてしまうかもしれない」


 焦りにも似た感覚が胸を満たしていく。

 僕はベッドから飛び起き、もう一度「のれん」に行くことを決めた。



 日が沈む頃僕は店の暖簾をくぐった。

 まだ開店したばかりの時間で、店内には客はいない。


 カウンターの奥で仕込みをしていた親父さんが、ちらりと僕を見る。


 「おう、一ノ瀬さん。ずいぶんと早いな」


僕は真っ直ぐに親父さんの前に座った。


 「もう一度聞く。あの料理、本当に覚えていないのか?」


 親父さんは軽く苦笑しながら、頭を掻いた。


 「何度言わせるんだよ。一ノ瀬さんの食い違いだって」


 「いや、違う」


 僕は昨夜のレシピ本の話をした。

 「食べた者の記憶に残らない料理」が存在すること。

 もし、あの料理がまさにそれだったとしたら——


 「僕は、もうすぐあの味を完全に忘れる」


 そう言い切ると、親父さんは箸を置き、しばらく黙った。



 「……なあ、一ノ瀬さん」


 やがて、親父さんが静かに口を開いた。


 「お前さんの言ってることが本当だったら、なんで俺は今、お前の話を聞いて”そんな料理を作った気がしてきた”んだろうな」


 「……え?」


 親父さんは腕を組み、考えるようにうつむいた。


 「最初はまったく覚えてなかったんだ。でも、お前が何度も言うから、なんとなく”そうだった気がする”ような気がしてきた……」


 **「思い出しかけている」**。


 それはつまり——“記憶の消失が完全ではない” ということなのだろうか。



 僕は恐る恐る聞いた。


 「……その、思い出しかけてる”味”って、どんな味だ?」


 親父さんはしばらく黙り、困ったように笑った。


 「さぁな……思い出しかけた途端、スッと消えちまったよ」


 背筋が寒くなった。


 この料理の正体は、一体何なんなのだろうか。



 考え込む僕に、親父さんが酒を注ぎながら言った。


 「ま、そんなにこだわることじゃねぇよ。一ノ瀬さん、あの料理、美味かったんだろ?」


 「……まあ」


 「なら、それでいいじゃねぇか」


 確かに、理屈で考えればそうかもしれない。

 俺は料理研究家でもないし、食に関するミステリーを暴くのが仕事じゃない。

 ただ、一つだけ言えるのは——


 「僕は確かに、あの料理を食べた」


 それだけだった。



 僕はしばらく、酒をちびちびと飲みながら考えていた。

 あの料理は何だったのか。

 記憶に残らない料理なんて、現実にあるはずがない。


 なのに、僕は確かに食べた。

 そして、親父さんも今、思い出しかけている。


 もし、あの料理が**「忘れ去られることが前提のもの」**だったのだとしたら——

 僕がこうしてこだわり続けることで、その”性質”が崩れかけているのではないだろうか。


 だとしたら、僕は何かをしてしまったのか。



 「なあ親父さん」


 俺はグラスを置き、もう一度尋ねる。


 「本当に、あの料理を作った記憶はないのか?」


 親父さんはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと答えた。


 「……あのさ、一ノ瀬さん」


 「なんだ?」


 「俺、本当に”作った覚え”はねぇんだよ」


 「でもな——」


 親父さんは、厨房の奥をちらりと見て、

 少しだけ冗談めかした口調で言った。


 「なんでか知らねぇけどさ、“次に作るとしたら、どんな材料を使うか”ってのが、なんとなく頭に浮かぶんだよ」


 僕は息をのんだ。


 ——それは、“記憶が蘇った”のか?

 ——それとも、“また生まれようとしている”のか?



 しばらくの沈黙のあと、親父さんがふっと笑う。


 「まあ、忘れちまうような料理なんだ。気にすんなよ」


 「……そうかもな」


 僕はゆっくりとグラスを傾け、残りの酒を飲み干した。

 親父さんの言葉が、どこか他人事とは思えなかった。


 このまま帰れば、そのうちこの料理のことも、探し回ったことも、どうでもよくなるのかもしれない。

 もしかすると、僕もいつか、“食べたことさえ忘れる”のかもしれない。


 だが、一つだけ確信していることがある。



 ——あの料理は、間違いなくうまかった。



 店を出て、冷たい夜風に当たる。

 ふと、舌先にほんのわずかに残る”甘酸っぱさ”を感じた。


 「……結局、何だったんだろうな」


 独り言のように呟く。

 だが、もう答えを求める気はなかった。


 料理は、味わったその瞬間がすべてだ。

 思い出せなくても、記憶が曖昧でも、僕の舌は確かに”美味い”と感じた。


 なら、それでいい。



 煙草に火をつけ、一口吸う。

 そして、なぜか笑ってしまった。


 ——さて、この味は、いつまで覚えていられるだろうか。


【終】

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