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「愛のかたまり」

人は、時として”何か”に強く執着する。


それは愛かもしれないし、未練かもしれない。

あるいは、もっと根源的な、本能に近い感情かもしれない。


だが、執着は時に形を変え、“違う何か”になっていくことがある。

それは、本人が気づかないうちに、静かに、確実に変質していく。


もしもある日、自分が愛しているものが”変わっていた”としても。

あなたはそれに、気づけるだろうか?




夕暮れの公園。

取材帰りに通りかかった僕は、ベンチに腰を下ろし、少し休んでいた。


子どもたちが遊ぶ声が遠くに聞こえ、大人たちは散歩をしたり、犬を連れて歩いていたりする。

平和な光景。


そんな中で、妙に目を引く夫婦がいた。



二人は穏やかな笑顔でベビーカーを押している。

年齢は30代半ばくらい。

奥さんの方がベビーカーの中を覗き込み、何かを優しく語りかけていた。


……それ自体は、特に珍しい光景ではない。

問題は、“中身”だった。



——ベビーカーに乗っていたのは、直径60cmほどの岩だった。



一瞬、見間違いかと思った。

しかし、夫婦の様子は本当に”我が子をあやしている”かのようだった。


「お腹すいたの?」


「よしよし、今すぐおうちに帰ろうね。」


奥さんは岩を撫でながら、母親が子どもをあやすような声をかける。

夫もそれを微笑ましく見守っていた。


——彼らは、岩を赤ん坊として扱っている。



違和感が強すぎて、目が離せなかった。

気づけば、僕は夫婦のすぐ近くまで歩いていた。



「……すみません。」


思わず声をかけてしまった。


声をかけた僕に、夫婦は穏やかに微笑んだ。


「はい、何か?」


違和感があった。

彼らは僕に対して全く警戒していない。


僕の視線がベビーカーの中にある”岩”に向かっていることに気づいているはずなのに、まるでそれが当然のものであるかのように、自然に振る舞っていた。



「……その子、お元気ですか?」


無難な質問を投げる。


「ええ、元気ですよ。」


妻が嬉しそうに微笑む。

彼女の手は、そっと岩を撫でている。



「この子は本当に手がかからないんです。」


夫も穏やかな口調で続ける。


「夜泣きもしないし、風邪もひかない。とても親孝行な子です。」


「でも、寂しがり屋だから、こうして毎日散歩に連れてくるんですよ。」


二人は岩を見つめながら、まるで実際に赤ん坊がそこにいるかのように話す。



それは、“異常な光景”だった。


だが、彼らの様子はあまりにも自然で、まるで僕の方が”常識を疑われている”ような気分になる。



「……立派に育ってますね。」


僕はそう返し、もう一度ベビーカーを見た。


岩はスイカほどの大きさで、丸みを帯びた形をしている。

表面はざらついており、普通の石のように見えた。


しかし、ふと気になった。


——この岩、最初からこんな形だったのか?


それとも、「彼らの手で形作られてきたもの」なのか?



夫婦の様子を観察する。

妻は岩を愛おしげに撫で続けている。


爪先が、表面を優しくなぞる。


——まるで、“磨く”ように。


「ねえ……お腹すいたの?」


妻が小声で語りかける。


僕は、喉がひりつくような感覚を覚えた。


岩は、何も言わない。


当然だ。

それはただの少し大きいだけの石なのだから。


——なのに、僕の耳には”微かな赤ん坊の泣き声”が聞こえた気がした。



「おやおや、ご機嫌ななめ?」


夫が岩を撫でる。

妻が優しくあやす。


二人は何の疑問も抱かないまま、そこに”いるはずのもの”を可愛がり続ける。


……彼らには何が見えているんだ?



僕は、じっとその岩を見つめた。


表面のざらつき。

わずかにくぼんだ窪み。


——人間の顔の輪郭に、少しずつ似てきている気がした。



公園を後にし、僕は近くの喫茶店でひと息ついていた。

妙な疲れを感じた。


夫婦の言動は狂気じみているはずなのに、彼らの表情や態度には”狂気”の影がまるでなかった。

むしろ、純粋な親の愛情にさえ見えた。


それが、余計に気味が悪かった。



「……あの夫婦のことかい?」


カウンター越しに、年配のマスターが声をかけてきた。


「知ってるんですか?」


「ああ、もう何年も前から見かけるよ。毎日のようにあのベビーカーを押して散歩してる。」


「……子どもじゃなく、“岩”を乗せて?」


「そうさ。」

どうやら岩に見えているのは正常な様だ。

マスターはカップを拭きながら続ける。


「最初はただの石だったらしい。でもな、最近気づいたんだ。」


僕は背筋が強張る。


「気づいたって、何を?」

なんとなく予想はついていた。

きっとそう。

僕が感じた違和感は確信に変わる。


マスターは、少しだけ声を潜めて言った。


「……あの岩、形が変わってるんじゃないかってさ。」



「……形?」


「昔はもっとゴツゴツした、ただの石ころだったはずだ。

 それが今じゃ、妙に丸みを帯びてきてる。」


マスターは慎重に言葉を選びながら続ける。


「ほら、赤ん坊ってのは、日に日に成長するだろう?」


「……つまり、岩が”成長している”と?」


「さあな。ただ……不思議なことに、夫婦は”何も変わってない”って言うんだよ。」



妙な感覚だった。


彼らは”子ども”を可愛がっている。

しかし、その”子ども”は石だ。


——それなら、ただの妄想や錯覚にすぎないはず。


でも、もしその岩が”少しずつ変化している”としたら?。


それが彼らの”愛情”によるものなのだとしたら。


——“愛のかたまり”は、何を指している?



僕は、再びあの夫婦に会うべきだと感じた。


翌日、僕はもう一度あの夫婦を探した。


公園へ行くと、案の定、昨日と同じ場所で二人はベビーカーを押していた。

まるで時間が止まったかのように、昨日とまったく同じ光景。


だが、違うことがひとつあった。



昨日よりも、岩の形が”丸みを帯びている”気がした。



夫婦は相変わらず穏やかで、嬉しそうに岩をあやしている。

昨日と同じように撫で、声をかけ、微笑んでいた。


僕は自然を装って近づき、再び話しかける。


「こんにちは。お子さん、今日も元気そうですね。」



「ええ、元気いっぱいですよ。」


妻がにっこりと微笑む。


「最近ね、お顔がはっきりしてきたんです。」



背筋が冷たくなった。


「……お顔が?」


「そうなんです。」


妻はベビーカーの中の岩を撫でながら、心から嬉しそうに言う。


「赤ちゃんって、生まれたばかりのころはお顔がぼんやりしてるでしょう?」


「でもね、最近はちゃんと”こっちを見て”くれるようになったんです。」



夫も優しく岩を撫でながら頷く。


「私たちのことが、ちゃんとわかるみたいでね。反応もしてくれるんですよ。」



……彼らは、何を”見て”いる?


ベビーカーの中の岩を、もう一度よく見る。


……表面のざらつきは、確かに滑らかになっていた。

不規則な凹凸が消え、“なめらかな形”になりつつある。


——だが、それは”自然の風化”とは思えなかった。



「……この子は、ずっと変わらずにここにいるんですよね?」


僕は、あえて確かめるように聞いた。


妻は不思議そうに首を傾げる。


「もちろんです。この子は、生まれたときからずっとこのままですよ。」



違和感が頂点に達した。


彼らは、岩の形が変化していることに”気づいていない”。

それどころか、“最初からこうだった”と信じて疑っていない。


——では、彼らが”変わった”と思っているのは何なのか?



ふと、風が吹いた。


その瞬間——「ふふっ」と、小さな笑い声が聞こえた気がした。



耳を澄ます。

間違いない。間違いなく空耳ではない。

——それは“ベビーカーの中から、聞こえた”。



「……あらあら、ご機嫌なのね。」


妻が嬉しそうに言う。


「本当に、可愛らしい声。」



“岩”のはずだ。


“ただの石”のはずだ。



しかし、その笑い声は確かに——


“赤ん坊のもの”だった。


僕は、目を凝らしてベビーカーの中を覗き込んだ。


岩は、昨日よりもさらに”なめらか”になっている気がした。

丸みが増し、表面の凹凸が削れている。


——それだけではない。



“うっすらとした目のような窪み”が、そこにあった。




心臓が強く跳ねた。


本当に”顔”になりつつある?

それとも、ただの光の加減か?



「よしよし。」


妻が岩を撫でながら、優しく語りかける。


「今度は自分で歩きでこようね。」



——歩き?




「最近ね、この子、少しずつ動くの。」


妻はうっとりとした表情で言った。


「寝かせておくと、少しずつ向きが変わるのよ。きっと”自分の力で”動こうとしてるんだわ。」



夫も微笑みながら頷く。


「僕たちの言葉も、もう分かってるみたいでね。ちゃんと目を合わせるんですよ。」



僕は無意識のうちに後ずさった。



“何かが生まれようとしている”。

“何かが、夫婦の愛に応えようとしている”。


それは——“本当に”彼らの子供なのか?



「あなたも、抱っこしてみますか?」


妻がにっこりと微笑む。



僕は答えなかった。


ただ、静かに頭を振り、ゆっくりとその場を離れた。




——あの岩が、もうすぐ”歩ける”ようになる。



——そのとき、それは”何”になっているのか。



……それを知りたくなかった。



公園を出た後も、遠くから夫婦の楽しげな声が聞こえた。


「愛のかたまりだねぇ。」


「ええ、本当に。」



——彼らにとって、それは確かに”我が子”だったのだろう。


【終】

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