「愛のかたまり」
人は、時として”何か”に強く執着する。
それは愛かもしれないし、未練かもしれない。
あるいは、もっと根源的な、本能に近い感情かもしれない。
だが、執着は時に形を変え、“違う何か”になっていくことがある。
それは、本人が気づかないうちに、静かに、確実に変質していく。
もしもある日、自分が愛しているものが”変わっていた”としても。
あなたはそれに、気づけるだろうか?
◇
夕暮れの公園。
取材帰りに通りかかった僕は、ベンチに腰を下ろし、少し休んでいた。
子どもたちが遊ぶ声が遠くに聞こえ、大人たちは散歩をしたり、犬を連れて歩いていたりする。
平和な光景。
そんな中で、妙に目を引く夫婦がいた。
◇
二人は穏やかな笑顔でベビーカーを押している。
年齢は30代半ばくらい。
奥さんの方がベビーカーの中を覗き込み、何かを優しく語りかけていた。
……それ自体は、特に珍しい光景ではない。
問題は、“中身”だった。
◇
——ベビーカーに乗っていたのは、直径60cmほどの岩だった。
◇
一瞬、見間違いかと思った。
しかし、夫婦の様子は本当に”我が子をあやしている”かのようだった。
「お腹すいたの?」
「よしよし、今すぐおうちに帰ろうね。」
奥さんは岩を撫でながら、母親が子どもをあやすような声をかける。
夫もそれを微笑ましく見守っていた。
——彼らは、岩を赤ん坊として扱っている。
◇
違和感が強すぎて、目が離せなかった。
気づけば、僕は夫婦のすぐ近くまで歩いていた。
◇
「……すみません。」
思わず声をかけてしまった。
声をかけた僕に、夫婦は穏やかに微笑んだ。
「はい、何か?」
違和感があった。
彼らは僕に対して全く警戒していない。
僕の視線がベビーカーの中にある”岩”に向かっていることに気づいているはずなのに、まるでそれが当然のものであるかのように、自然に振る舞っていた。
◇
「……その子、お元気ですか?」
無難な質問を投げる。
「ええ、元気ですよ。」
妻が嬉しそうに微笑む。
彼女の手は、そっと岩を撫でている。
◇
「この子は本当に手がかからないんです。」
夫も穏やかな口調で続ける。
「夜泣きもしないし、風邪もひかない。とても親孝行な子です。」
「でも、寂しがり屋だから、こうして毎日散歩に連れてくるんですよ。」
二人は岩を見つめながら、まるで実際に赤ん坊がそこにいるかのように話す。
◇
それは、“異常な光景”だった。
だが、彼らの様子はあまりにも自然で、まるで僕の方が”常識を疑われている”ような気分になる。
◇
「……立派に育ってますね。」
僕はそう返し、もう一度ベビーカーを見た。
岩はスイカほどの大きさで、丸みを帯びた形をしている。
表面はざらついており、普通の石のように見えた。
しかし、ふと気になった。
——この岩、最初からこんな形だったのか?
それとも、「彼らの手で形作られてきたもの」なのか?
◇
夫婦の様子を観察する。
妻は岩を愛おしげに撫で続けている。
爪先が、表面を優しくなぞる。
——まるで、“磨く”ように。
「ねえ……お腹すいたの?」
妻が小声で語りかける。
僕は、喉がひりつくような感覚を覚えた。
岩は、何も言わない。
当然だ。
それはただの少し大きいだけの石なのだから。
——なのに、僕の耳には”微かな赤ん坊の泣き声”が聞こえた気がした。
◇
「おやおや、ご機嫌ななめ?」
夫が岩を撫でる。
妻が優しくあやす。
二人は何の疑問も抱かないまま、そこに”いるはずのもの”を可愛がり続ける。
……彼らには何が見えているんだ?
◇
僕は、じっとその岩を見つめた。
表面のざらつき。
わずかにくぼんだ窪み。
——人間の顔の輪郭に、少しずつ似てきている気がした。
◇
公園を後にし、僕は近くの喫茶店でひと息ついていた。
妙な疲れを感じた。
夫婦の言動は狂気じみているはずなのに、彼らの表情や態度には”狂気”の影がまるでなかった。
むしろ、純粋な親の愛情にさえ見えた。
それが、余計に気味が悪かった。
◇
「……あの夫婦のことかい?」
カウンター越しに、年配のマスターが声をかけてきた。
「知ってるんですか?」
「ああ、もう何年も前から見かけるよ。毎日のようにあのベビーカーを押して散歩してる。」
「……子どもじゃなく、“岩”を乗せて?」
「そうさ。」
どうやら岩に見えているのは正常な様だ。
マスターはカップを拭きながら続ける。
「最初はただの石だったらしい。でもな、最近気づいたんだ。」
僕は背筋が強張る。
「気づいたって、何を?」
なんとなく予想はついていた。
きっとそう。
僕が感じた違和感は確信に変わる。
マスターは、少しだけ声を潜めて言った。
「……あの岩、形が変わってるんじゃないかってさ。」
◇
「……形?」
「昔はもっとゴツゴツした、ただの石ころだったはずだ。
それが今じゃ、妙に丸みを帯びてきてる。」
マスターは慎重に言葉を選びながら続ける。
「ほら、赤ん坊ってのは、日に日に成長するだろう?」
「……つまり、岩が”成長している”と?」
「さあな。ただ……不思議なことに、夫婦は”何も変わってない”って言うんだよ。」
◇
妙な感覚だった。
彼らは”子ども”を可愛がっている。
しかし、その”子ども”は石だ。
——それなら、ただの妄想や錯覚にすぎないはず。
でも、もしその岩が”少しずつ変化している”としたら?。
それが彼らの”愛情”によるものなのだとしたら。
——“愛のかたまり”は、何を指している?
◇
僕は、再びあの夫婦に会うべきだと感じた。
翌日、僕はもう一度あの夫婦を探した。
公園へ行くと、案の定、昨日と同じ場所で二人はベビーカーを押していた。
まるで時間が止まったかのように、昨日とまったく同じ光景。
だが、違うことがひとつあった。
◇
昨日よりも、岩の形が”丸みを帯びている”気がした。
◇
夫婦は相変わらず穏やかで、嬉しそうに岩をあやしている。
昨日と同じように撫で、声をかけ、微笑んでいた。
僕は自然を装って近づき、再び話しかける。
「こんにちは。お子さん、今日も元気そうですね。」
◇
「ええ、元気いっぱいですよ。」
妻がにっこりと微笑む。
「最近ね、お顔がはっきりしてきたんです。」
◇
背筋が冷たくなった。
「……お顔が?」
「そうなんです。」
妻はベビーカーの中の岩を撫でながら、心から嬉しそうに言う。
「赤ちゃんって、生まれたばかりのころはお顔がぼんやりしてるでしょう?」
「でもね、最近はちゃんと”こっちを見て”くれるようになったんです。」
◇
夫も優しく岩を撫でながら頷く。
「私たちのことが、ちゃんとわかるみたいでね。反応もしてくれるんですよ。」
◇
……彼らは、何を”見て”いる?
ベビーカーの中の岩を、もう一度よく見る。
……表面のざらつきは、確かに滑らかになっていた。
不規則な凹凸が消え、“なめらかな形”になりつつある。
——だが、それは”自然の風化”とは思えなかった。
◇
「……この子は、ずっと変わらずにここにいるんですよね?」
僕は、あえて確かめるように聞いた。
妻は不思議そうに首を傾げる。
「もちろんです。この子は、生まれたときからずっとこのままですよ。」
◇
違和感が頂点に達した。
彼らは、岩の形が変化していることに”気づいていない”。
それどころか、“最初からこうだった”と信じて疑っていない。
——では、彼らが”変わった”と思っているのは何なのか?
◇
ふと、風が吹いた。
その瞬間——「ふふっ」と、小さな笑い声が聞こえた気がした。
◇
耳を澄ます。
間違いない。間違いなく空耳ではない。
——それは“ベビーカーの中から、聞こえた”。
◇
「……あらあら、ご機嫌なのね。」
妻が嬉しそうに言う。
「本当に、可愛らしい声。」
“岩”のはずだ。
“ただの石”のはずだ。
しかし、その笑い声は確かに——
“赤ん坊のもの”だった。
僕は、目を凝らしてベビーカーの中を覗き込んだ。
岩は、昨日よりもさらに”なめらか”になっている気がした。
丸みが増し、表面の凹凸が削れている。
——それだけではない。
◇
“うっすらとした目のような窪み”が、そこにあった。
◇
◇
心臓が強く跳ねた。
本当に”顔”になりつつある?
それとも、ただの光の加減か?
◇
「よしよし。」
妻が岩を撫でながら、優しく語りかける。
「今度は自分で歩きでこようね。」
——歩き?
「最近ね、この子、少しずつ動くの。」
妻はうっとりとした表情で言った。
「寝かせておくと、少しずつ向きが変わるのよ。きっと”自分の力で”動こうとしてるんだわ。」
◇
夫も微笑みながら頷く。
「僕たちの言葉も、もう分かってるみたいでね。ちゃんと目を合わせるんですよ。」
◇
僕は無意識のうちに後ずさった。
◇
“何かが生まれようとしている”。
“何かが、夫婦の愛に応えようとしている”。
それは——“本当に”彼らの子供なのか?
◇
「あなたも、抱っこしてみますか?」
妻がにっこりと微笑む。
◇
僕は答えなかった。
ただ、静かに頭を振り、ゆっくりとその場を離れた。
◇
◇
——あの岩が、もうすぐ”歩ける”ようになる。
◇
——そのとき、それは”何”になっているのか。
◇
……それを知りたくなかった。
◇
公園を出た後も、遠くから夫婦の楽しげな声が聞こえた。
「愛のかたまりだねぇ。」
「ええ、本当に。」
◇
——彼らにとって、それは確かに”我が子”だったのだろう。
【終】




