「人魚の肉」
「この村にはね、人魚の肉を食べた女がいるんだよ」
海沿いの小さな村で、そんな噂を耳にした。
「人魚の肉?」
「そうさ。食べると不老不死になるって話だ」
カウンター越しに話す居酒屋の主人は、半ば冗談のように笑っていたが、
隣で飲んでいた老人がポツリと呟いた。
「……笑い話じゃないよ。あの女は、もう百年以上生きてるんだからな」
その言葉に、僕は興味を持った。
1
その村には、「人魚の肉を食べた女」が住んでいるという。
彼女の名前は八重。
年の頃は三十代半ばに見えるが、村の誰もが「彼女は昔から変わらない」と言う。
それどころか、村の記録には百年前にも”八重”という名の女がいたと残されていた。
「彼女が何者か、知りたいのなら直接会ってみるといい」
そう言われ、僕は八重の家を訪れた。
2
八重の家は、海沿いの小さな古民家だった。
扉を叩くと、ゆっくりと開かれ、中から彼女が現れた。
——美しい女だった。
肌は白く、長い黒髪が潮風に揺れる。
何より、不思議なほど若々しかった。
「あなた、よそ者ね?」
落ち着いた声だった。
「あなたが”人魚の肉を食べた”という話を聞いてきました」
そう言うと、彼女はクスリと笑った。
「随分と古い話を、まだ信じているのね」
「……本当のところは?」
「どうかしら?」
そう言って彼女は僕を家の中へ招き入れた。
3
室内は潮の香りがした。
食卓には、用意されたばかりの料理が並んでいた。
煮魚、海藻の酢の物、炊き込みご飯——そして、焼かれた白身の魚。
「食べる?」
「いや、お気持ちだけ頂いておきます」
「遠慮しなくていいのに」
八重は髪をかきあげフォークを手に取り、白身の切り身を口に運んだ。
その仕草を見ていると、不意に彼女の腕の内側に浮かぶ模様が目に入った。
青黒い斑点——まるで、魚の鱗のような模様だった。
「……その腕…」
「これ?」
八重は腕を眺め、微笑んだ。
「たまにこうなるの。でも、時間が経てば消えるわ」
「それは”病気”か何かということ…ですか?」
「……そうかもしれないわね」
彼女は意味ありげに笑いながら、再び白身を口に運んだ。
「あなたも食べてみる?」
僕は少しだけ躊躇った。
この肉は、本当に”ただの魚”なのか?
「これは……何の魚なんでしょう?」
「さあ、何かしら?」
彼女は楽しそうに目を細めた。
4
彼女を取材する前に会った村の老人との話を思い出していた。
老人は言葉を選んでいるかの様にゆっくりと話していた。
「……あの女が”不老不死”になったのは、本当に人魚の肉を食べたからかもしれん」
「何故そう思われるのですか?」
「わしが子供の頃から、あの女の姿は変わらんかった」
老人のあの女という表現にはどこか居心地が悪いような口にもしたくないという様な耳触りの良くないニュアンスが含まれている様に感じた。
「昔の村の記録に、“八重”という名の女が残っていたとも聞きました」
「それも本当さ」
老人は深いため息をつく。
「だがな……八重は”食べた”だけじゃないんだ」
「というと?」
「“八重の家の地下”を見てみるといい」
そう言い残し、老人は黙った。
5
地下室。
彼女の居住空間はまるでそんなものがある様には見えない建物だった。
ただの古民家といえば大方間違いではないだろう。築100年以上と言われても簡単に信じてしまうであろう古民家。
しかし、手入れが行き届いているのか朽ち始めているかといえばそうではなく、どちらかといえば年季が入ってより丈夫になっている様なそんな趣きがあった。
もし仮にこの場所に地下室なんてものがあるというのであれば、それは物騒な何かを連想させざる終えない。
「どうしたの?何か聞きたかったんじゃないの?」
彼女は全てわかっているかそれとも何の警戒もしていないのか当たり前の様に微笑んだ。
「……この家の地下を見せてほしい」
「……どうして?」
彼女の穏やかな表情は僅かに曇った。
「…何かあると聞きました。」
しばらく沈黙が続いた。
だが、やがて彼女は微笑み、静かに言った。
「……ついてきて」
彼女は家の奥へと案内し、床板を外した。
その下には、潮の匂いが漂う地下室があった。
暗がりの中に、“大きな水槽”があった。
「……何だ、これ」
水槽の中には、水に浮かぶ”何か”がいた。
白い肌、長い黒髪——それは、八重とまったく同じ姿の女だった。
ただし、下半身は魚だった。
「……これが……“本物の八重”?」
八重は静かに頷いた。
「私はね、“本物の人魚”だったのよ」
「……?」
「でも、私は”人間になりたかった”」
彼女は水槽の水面をそっと撫でた。
「だから、“私自身の肉”を食べたの」
——“人魚が人魚の肉を食べた”。
それが、この村に伝わる”人魚の肉”の真実だった。
彼女は、元々”人魚だった自分”を殺し、その肉を食べて”人間になった”。
「……その結果、私は死ねなくなったの」
「じゃあ……こっちの”八重”は?」
「私が”人間”になった代わりに……“こっち”が人魚になったのよ」
「“本物の八重”が、人魚になった……?」
八重は静かに微笑んだ。
「私が死ぬことはないの」
僕はもう一度、水槽の中の”人魚”を見た。
彼女は静かに目を開き、こちらをじっと見つめていた。
その目には——“何かを伝えたそうな意思”が宿っていた。
「さて……あなたは、この話を信じる?」
八重の問いに、僕は答えられなかった。
ただ、彼女の背後にある食卓に目をやると、そこには——
“一皿の焼き魚”が置かれていた。
【終】




