「エッホエッホ」
「聞こえても、絶対に外に出ちゃいけねぇよ」
そう忠告した村人の顔は、ひどく強張っていた。
僕は山間の小さな村の民宿に泊まり、村人たちの話を聞いていた。
この村には、「エッホエッホ」 という不気味な掛け声にまつわる噂があった。
それは決まって夜遅く、村の外れの山道から聞こえてくるという。
遠くからゆっくりと響いてきては、村のすぐそばを通り抜け、そしてまた山の奥へ消えていく。
掛け声は一定のリズムを刻み、まるで何かを担ぎながら歩いているような、重い息遣い が混ざるのだという。
しかし、そこに人の姿はない。
あるのは、ただその声だけ——。
◇
「“運び屋” さね」
皺だらけの手で湯呑みを持ちながら、宿の女将がぽつりと呟いた。
「……運び屋?」
「“エッホエッホ” って声が聞こえたら、それが村を通っているってことさ」
「でも、それって誰が……?」
「さぁね」
女将はまるで、「そんなことを聞くな」 というように目を細めた。
「ただ、昔からこの村じゃ、“運び屋” が通る日は誰も外に出ないって決まってるんだよ」
「なぜ?」
「——運ばれちまうからさ」
◇
“運ばれる”。
その言葉に、僕は不穏な響きを感じた。
「それって、何を? どこへ?」
「……さぁね」
女将はまた曖昧に笑い、口を閉ざした。
同席していた村の老人たちも、誰一人として詳しい話をしようとはしない。
ただ、「聞こえても外に出るな」「見てはいけない」ということだけを、しつこく言い聞かせてくる。
その異様な慎重さが、かえって僕の興味を掻き立てた。
本当に、ただの迷信なら、ここまで怯える必要はないはずだ。
「……なるほど」
僕は軽く肩をすくめながら、懐からスマホを取り出した。
「まぁ、もし聞こえたら、ちょっと録音してみようかな」
その瞬間、座敷の空気が凍りついたように感じた。
「——そんなことは、絶対にしちゃいけねぇ」
さっきまで寡黙だった老人の一人が、低い声で言った。
「“運び屋” は、自分の声を聞かれるのを嫌がる」
「……?」
「録音なんかしてみろ。お前が”運ばれる”ぞ」
その言葉の重みが、冗談ではないことを物語っていた。
◇
それでも、僕はその夜、“その声” を確かめることにした。
夜が更けると、村は驚くほど静かになった。
標高の高いこの山間の集落では、日が沈むと人の気配が一気に消える。
街灯も少なく、細い道には月明かりがぼんやりと影を落としているだけだ。
宿の布団に入るつもりではいたが、僕はまだ眠れなかった。
頭の中にこびりついているのは、村人たちの言葉。
——「“運び屋” が通る日は、誰も外に出ない」
——「聞こえても、絶対に外に出るな」
その警告はまるで、迷信ではなく、本当に”何か”を恐れているようだった。
“運ばれる”とは何なのか? それを確かめなければならない。
◇
時間は深夜一時を過ぎていた。
民宿の部屋の障子を少しだけ開け、外の様子を窺う。
誰もいない。
僕は静かに廊下を歩き、宿の玄関をそっと開けた。
夜の空気は冷たく、肌を刺すようだった。
遠くの山の方から、わずかに風が吹き下りてくる。
耳を澄ます。
……まだ何も聞こえない。
◇
スマホの録音アプリを起動させたまま、宿の前の細い道へと足を踏み出す。
しんとした空気の中、川の流れる音だけが微かに聞こえる。
村の家々は皆、戸を固く閉じ、どの家の窓も暗い。
ふと、どこか遠くの方で、動物の鳴き声がした。
鹿か、あるいは山犬か。
——その時だった。
「エッホエッホ……エッホエッホ……」
不意に、どこか遠くから掛け声が聞こえてきた。
それは、かすかに、しかしはっきりとしたリズムで響いてくる。
「エッホエッホ……エッホエッホ……」
一定の間隔を保ちながら、何かを運ぶときのような重い息遣いが混じっている。
最初は遠くの山の方から。
だが、次第に——こちらへ近づいてきている。
◇
思わずスマホを握る手に力が入る。
「……本当に、いるのか?」
音はゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
なのに、道には誰の姿もない。
民宿の前の道は、月明かりに照らされている。
人が歩いていれば、影ができるはずだ。
だが、そこには何もない。
それでも、掛け声だけは、はっきりと聞こえる。
「エッホエッホ……エッホエッホ……」
……いや、影がないのではなく——
「……影”だけ”がある?」
瞬間、背筋がぞくりとした。
◇
道の先を見つめる。
そこには——何かの影だけがあった。
月明かりの下、ゆらりと揺れる影。
しかし、そこに”影を落とす”はずの人物はいない。
影だけが、ゆっくりと、こちらへ向かっている。
しかも、一つではない。
複数の影 が、重い足取りで近づいてくる。
影は何かを担いでいる。
その上には、“担がれたもの”の影がある。
だが、それは——人の形ではなかった。
長すぎる手足。
歪んだ輪郭。
顔があるのかさえ、わからない。
僕は息を飲んだ。
掛け声は変わらず、一定のリズムで続いている。
「エッホエッホ……エッホエッホ……」
……見てはいけない。
頭のどこかで、そう理解していた。
なのに、足が動かない。
影たちは、確実にこちらへ向かってくる。
そして、僕の目の前を通り過ぎようとした時——。
一つの影が、ふと、止まった。
◇
……気づかれた。
その確信と共に、全身が硬直する。
影が、ゆっくりと向きを変えた。
こちらを、見ている。
いや、目があるのかはわからない。
それでも、僕の方を向いたのは、“わかった”。
「……エッホ……」
掛け声が、不自然に止まる。
耳鳴りがした。
次の瞬間——
影が、こちらへ向かってきた。
影が、こちらへ向かってくる。
足音はない。
ただ、ゆっくりと、しかし確実に、影だけが僕の方へ近づいてくる。
月明かりに照らされた道の上、見えないはずの何かが、影だけを落として。
◇
僕の心臓が、異常な速さで脈打つ。
逃げろ。
このままでは”運ばれる”。
その言葉が、村人たちの忠告と共に頭の中で反響する。
だが、体が動かない。
「……エッホ」
影が、また一歩近づいた。
その瞬間、全身に鳥肌が立った。
——ここにいてはいけない。
◇
咄嗟に足を踏み出し、宿のある方角へと駆け出した。
息を切らしながら全力で走る。
振り返らない。
振り返ってはいけない。
……なのに。
背後から、確かに聞こえる。
「エッホ……エッホ……エッホ……」
さっきまで一定のリズムを刻んでいた声が、今はまるで、僕の動きに合わせて加速しているようだった。
◇
道の先に、宿の明かりが見えた。
もう少し。
もう少しで——
「……?」
違和感。
宿の前にあったはずの提灯が、ない。
建物の形も、どこか違う気がする。
辺りを見回す。
……村のはずれに出ている?
だが、おかしい。
こんな道は走っていないはずだ。
——道が変わっている。
◇
「……っ!」
咄嗟にスマホを取り出し、地図を開こうとする。
画面が暗転した。
バッテリーはまだあるはずなのに、電源が落ちている。
ピチャ……ピチャ……
何かの音が、すぐ近くで聞こえた。
水音?
◇
暗闇の中、ぼんやりとしたものが見えた。
それは、まるで”誰かの背中”のようなもの。
だが、その形が……おかしい。
背中はひどく長く、腕は異様に細い。
何より——
首が、ない。
——担がれているのは、人ではない。
◇
「エッホ……」
真横で、声がした。
瞬間、頭が真っ白になった。
僕はもう一度全力で走り出した。
しかし、どこを走っても、同じ道に戻ってしまう。
村のはずれをぐるぐると回らされている。
背後で、影たちはゆっくりと歩いている。
「……エッホエッホ」
その声が、次第にすぐ後ろへと迫ってくる。
◇
息が詰まりそうになる。
頭がぼんやりとしてきた。
ここで捕まったらどうなる?
“運ばれる”とはどういう意味だ?
そんなことを考えている余裕はないのに、意識が遠のいていく。
視界が歪み、世界がねじれるような感覚に陥る。
もう、どこを走っているのかもわからない。
「エッホ……エッホ……」
影のリズムが、次第に耳の奥で渦を巻く。
もう、逃げられない——。
そう思った瞬間——
◇
——僕の意識は、途切れた。
◇
——冷たい感触が、肌に触れていた。
目を開けると、ぼんやりとした薄明かりの中に、木々の影が揺れている。
僕は、地面に倒れていた。
◇
頭が重い。
体の節々が妙に痛む。
ゆっくりと起き上がり、辺りを見渡した。
——ここは、どこだ?
明らかに、村の中ではない。
森の奥。
岩が点在する、静まり返った場所。
木々の隙間から、夜明け前の薄紫色の空が覗いていた。
体を起こすと、背中に何かがぶつかった。
……それは、古びた**祠**だった。
◇
木の柱が腐りかけ、屋根には苔が生えている。
長らく手入れされていないことが一目でわかるその祠は、奇妙なほど静かだった。
まるで、何かを閉じ込めるために存在しているかのような、不自然な沈黙。
——どうして、こんな場所に?
昨夜、逃げていたはずだ。
それなのに、ここまで来た記憶がない。
一瞬、喉が乾いたような感覚に襲われた。
僕は、“運ばれた”のか?
◇
ふと、祠の扉が半開きになっていることに気づいた。
その奥——暗闇の向こうに、何かがある。
……見てはいけない。
そう感じたのに、体が勝手に動いた。
戸を少しだけ押し開ける。
◇
その瞬間、視界に**無数の”手形”**が映った。
祠の内側の壁一面に、大小さまざまな手の跡。
べったりと押し付けられたような、異様な数。
中には、人間のものとは思えないほど長い指のものもあった。
誰がつけた?
いつ?
何のために?
考えがまとまらないまま、僕はふと足元を見る。
そこに、一枚の木札が落ちていた。
拾い上げ、表面の文字を読む。
「エッホエッホ」
一瞬、鼓動が止まる。
ぞっとして手を離した瞬間——。
——スマホが震えた。
◇
慌ててポケットから取り出し、画面を確認する。
……電源が入っている?
たしか、昨夜は勝手に落ちていたはずだ。
不審に思いながら、画面を見ると、録音アプリが開いていた。
しかも、録音ファイルが一つ増えている。
震える指で、再生ボタンを押した。
◇
「エッホエッホ……エッホエッホ……」
夜の闇に響く、あの掛け声。
「エッホ……エッホ……」
段々と声が小さくなる。
次第に遠ざかっていく。
もう終わるかと思ったその時——。
「……エッ……ホ……」
そして、ノイズが混じり、無音。
録音は、そこで途切れていた。
◇
僕は、しばらく動けなかった。
録音を止めた記憶はない。
そもそも、あの場で録音ボタンを押した覚えすらない。
それなのに、確かに、“あの声”が記録されている。
僕はそれ以上、何も考えたくなかった。
スマホをポケットに押し込み、急いでこの場所を後にした。
◇
翌朝、村に戻った僕を見た宿の女将は、驚いたような顔をした。
「……あんた、どこにいたんだい?」
「どこって……村の外れにいたはずなんですが……」
「違うね。あんた、今朝までまる一日、どこにもいなかったよ」
◇
言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「いや……ちょっと変なところで寝ちまっただけで……」
「そうじゃないよ。一ノ瀬さん、昨日の夜から今日の朝まで、誰もあんたを見てないんだよ」
僕の背中に冷たいものが走る。
スマホの時計を見る。
午前7時。
……おかしい。
たしかに朝方には意識を取り戻した。
祠の前で目を覚ました時は、まだ薄暗かったはずだ。
それなのに、一日経っている?
◇
「……この村に来た人間でね、“運び屋” に遭ったやつは、皆いなくなった」
女将が静かに言う。
「運ばれるっていうのは、あの世に連れて行かれるってことさ」
言い切るその声が、どこか遠くで響いているように感じた。
「ただ、あんたは戻ってきたんだね……珍しいこともあるもんだ」
◇
宿の部屋に戻り、僕はもう一度スマホの録音ファイルを再生してみた。
昨夜、祠の前で確認したときと同じように、“エッホエッホ” の掛け声が録音されている。
しかし、一つ違っていた。
最後のノイズが終わった後、ほんの一瞬だけ——
「また……こようね」
そんな声が入っていた。
……自分の声で。
◇
鳥肌が立つ。
震える手で、すぐにファイルを削除しようとする。
——その時だった。
画面が、真っ黒になった。
◇
僕はしばらく動けなかった。
……本当に、僕は戻ってきたのか?
いや、そもそも、今の僕は”本当に”僕なのか?
わからない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
それは、あの掛け声がまだ耳の奥にこびりついて離れないということだ。
◇
そして今夜。
部屋の窓の外から、微かに聞こえる気がする。
「エッホエッホ……エッホエッホ……」
【終】




