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「エッホエッホ」


「聞こえても、絶対に外に出ちゃいけねぇよ」


そう忠告した村人の顔は、ひどく強張っていた。


僕は山間の小さな村の民宿に泊まり、村人たちの話を聞いていた。

この村には、「エッホエッホ」 という不気味な掛け声にまつわる噂があった。


それは決まって夜遅く、村の外れの山道から聞こえてくるという。

遠くからゆっくりと響いてきては、村のすぐそばを通り抜け、そしてまた山の奥へ消えていく。


掛け声は一定のリズムを刻み、まるで何かを担ぎながら歩いているような、重い息遣い が混ざるのだという。


しかし、そこに人の姿はない。

あるのは、ただその声だけ——。



「“運び屋” さね」


皺だらけの手で湯呑みを持ちながら、宿の女将がぽつりと呟いた。


「……運び屋?」


「“エッホエッホ” って声が聞こえたら、それが村を通っているってことさ」


「でも、それって誰が……?」


「さぁね」


女将はまるで、「そんなことを聞くな」 というように目を細めた。


「ただ、昔からこの村じゃ、“運び屋” が通る日は誰も外に出ないって決まってるんだよ」


「なぜ?」


「——運ばれちまうからさ」



“運ばれる”。


その言葉に、僕は不穏な響きを感じた。


「それって、何を? どこへ?」


「……さぁね」


女将はまた曖昧に笑い、口を閉ざした。


同席していた村の老人たちも、誰一人として詳しい話をしようとはしない。

ただ、「聞こえても外に出るな」「見てはいけない」ということだけを、しつこく言い聞かせてくる。


その異様な慎重さが、かえって僕の興味を掻き立てた。


本当に、ただの迷信なら、ここまで怯える必要はないはずだ。


「……なるほど」


僕は軽く肩をすくめながら、懐からスマホを取り出した。


「まぁ、もし聞こえたら、ちょっと録音してみようかな」


その瞬間、座敷の空気が凍りついたように感じた。


「——そんなことは、絶対にしちゃいけねぇ」


さっきまで寡黙だった老人の一人が、低い声で言った。


「“運び屋” は、自分の声を聞かれるのを嫌がる」


「……?」


「録音なんかしてみろ。お前が”運ばれる”ぞ」


その言葉の重みが、冗談ではないことを物語っていた。



それでも、僕はその夜、“その声” を確かめることにした。


夜が更けると、村は驚くほど静かになった。


標高の高いこの山間の集落では、日が沈むと人の気配が一気に消える。

街灯も少なく、細い道には月明かりがぼんやりと影を落としているだけだ。


宿の布団に入るつもりではいたが、僕はまだ眠れなかった。

頭の中にこびりついているのは、村人たちの言葉。


——「“運び屋” が通る日は、誰も外に出ない」


——「聞こえても、絶対に外に出るな」


その警告はまるで、迷信ではなく、本当に”何か”を恐れているようだった。


“運ばれる”とは何なのか? それを確かめなければならない。



時間は深夜一時を過ぎていた。


民宿の部屋の障子を少しだけ開け、外の様子を窺う。

誰もいない。


僕は静かに廊下を歩き、宿の玄関をそっと開けた。


夜の空気は冷たく、肌を刺すようだった。

遠くの山の方から、わずかに風が吹き下りてくる。


耳を澄ます。


……まだ何も聞こえない。



スマホの録音アプリを起動させたまま、宿の前の細い道へと足を踏み出す。


しんとした空気の中、川の流れる音だけが微かに聞こえる。

村の家々は皆、戸を固く閉じ、どの家の窓も暗い。


ふと、どこか遠くの方で、動物の鳴き声がした。


鹿か、あるいは山犬か。


——その時だった。


「エッホエッホ……エッホエッホ……」


不意に、どこか遠くから掛け声が聞こえてきた。


それは、かすかに、しかしはっきりとしたリズムで響いてくる。


「エッホエッホ……エッホエッホ……」


一定の間隔を保ちながら、何かを運ぶときのような重い息遣いが混じっている。


最初は遠くの山の方から。


だが、次第に——こちらへ近づいてきている。



思わずスマホを握る手に力が入る。


「……本当に、いるのか?」


音はゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。


なのに、道には誰の姿もない。


民宿の前の道は、月明かりに照らされている。

人が歩いていれば、影ができるはずだ。


だが、そこには何もない。


それでも、掛け声だけは、はっきりと聞こえる。


「エッホエッホ……エッホエッホ……」


……いや、影がないのではなく——


「……影”だけ”がある?」


瞬間、背筋がぞくりとした。



道の先を見つめる。


そこには——何かの影だけがあった。


月明かりの下、ゆらりと揺れる影。

しかし、そこに”影を落とす”はずの人物はいない。


影だけが、ゆっくりと、こちらへ向かっている。


しかも、一つではない。


複数の影 が、重い足取りで近づいてくる。


影は何かを担いでいる。

その上には、“担がれたもの”の影がある。


だが、それは——人の形ではなかった。


長すぎる手足。

歪んだ輪郭。

顔があるのかさえ、わからない。


僕は息を飲んだ。


掛け声は変わらず、一定のリズムで続いている。


「エッホエッホ……エッホエッホ……」


……見てはいけない。


頭のどこかで、そう理解していた。


なのに、足が動かない。


影たちは、確実にこちらへ向かってくる。


そして、僕の目の前を通り過ぎようとした時——。


一つの影が、ふと、止まった。



……気づかれた。


その確信と共に、全身が硬直する。


影が、ゆっくりと向きを変えた。


こちらを、見ている。


いや、目があるのかはわからない。


それでも、僕の方を向いたのは、“わかった”。


「……エッホ……」


掛け声が、不自然に止まる。


耳鳴りがした。


次の瞬間——


影が、こちらへ向かってきた。


影が、こちらへ向かってくる。


足音はない。


ただ、ゆっくりと、しかし確実に、影だけが僕の方へ近づいてくる。


月明かりに照らされた道の上、見えないはずの何かが、影だけを落として。



僕の心臓が、異常な速さで脈打つ。


逃げろ。


このままでは”運ばれる”。


その言葉が、村人たちの忠告と共に頭の中で反響する。


だが、体が動かない。


「……エッホ」


影が、また一歩近づいた。


その瞬間、全身に鳥肌が立った。


——ここにいてはいけない。



咄嗟に足を踏み出し、宿のある方角へと駆け出した。


息を切らしながら全力で走る。


振り返らない。

振り返ってはいけない。


……なのに。


背後から、確かに聞こえる。


「エッホ……エッホ……エッホ……」


さっきまで一定のリズムを刻んでいた声が、今はまるで、僕の動きに合わせて加速しているようだった。



道の先に、宿の明かりが見えた。


もう少し。


もう少しで——


「……?」


違和感。


宿の前にあったはずの提灯が、ない。

建物の形も、どこか違う気がする。


辺りを見回す。


……村のはずれに出ている?


だが、おかしい。

こんな道は走っていないはずだ。


——道が変わっている。



「……っ!」


咄嗟にスマホを取り出し、地図を開こうとする。


画面が暗転した。


バッテリーはまだあるはずなのに、電源が落ちている。


ピチャ……ピチャ……


何かの音が、すぐ近くで聞こえた。


水音?



暗闇の中、ぼんやりとしたものが見えた。


それは、まるで”誰かの背中”のようなもの。


だが、その形が……おかしい。


背中はひどく長く、腕は異様に細い。


何より——


首が、ない。


——担がれているのは、人ではない。



「エッホ……」


真横で、声がした。


瞬間、頭が真っ白になった。


僕はもう一度全力で走り出した。


しかし、どこを走っても、同じ道に戻ってしまう。


村のはずれをぐるぐると回らされている。


背後で、影たちはゆっくりと歩いている。


「……エッホエッホ」


その声が、次第にすぐ後ろへと迫ってくる。



息が詰まりそうになる。


頭がぼんやりとしてきた。


ここで捕まったらどうなる?


“運ばれる”とはどういう意味だ?


そんなことを考えている余裕はないのに、意識が遠のいていく。


視界が歪み、世界がねじれるような感覚に陥る。


もう、どこを走っているのかもわからない。


「エッホ……エッホ……」


影のリズムが、次第に耳の奥で渦を巻く。


もう、逃げられない——。


そう思った瞬間——



——僕の意識は、途切れた。



——冷たい感触が、肌に触れていた。


目を開けると、ぼんやりとした薄明かりの中に、木々の影が揺れている。


僕は、地面に倒れていた。



頭が重い。

体の節々が妙に痛む。


ゆっくりと起き上がり、辺りを見渡した。


——ここは、どこだ?


明らかに、村の中ではない。


森の奥。

岩が点在する、静まり返った場所。

木々の隙間から、夜明け前の薄紫色の空が覗いていた。


体を起こすと、背中に何かがぶつかった。


……それは、古びた**ほこら**だった。



木の柱が腐りかけ、屋根には苔が生えている。


長らく手入れされていないことが一目でわかるその祠は、奇妙なほど静かだった。

まるで、何かを閉じ込めるために存在しているかのような、不自然な沈黙。


——どうして、こんな場所に?


昨夜、逃げていたはずだ。

それなのに、ここまで来た記憶がない。


一瞬、喉が乾いたような感覚に襲われた。


僕は、“運ばれた”のか?



ふと、祠の扉が半開きになっていることに気づいた。


その奥——暗闇の向こうに、何かがある。


……見てはいけない。


そう感じたのに、体が勝手に動いた。


戸を少しだけ押し開ける。



その瞬間、視界に**無数の”手形”**が映った。


祠の内側の壁一面に、大小さまざまな手の跡。

べったりと押し付けられたような、異様な数。


中には、人間のものとは思えないほど長い指のものもあった。


誰がつけた?

いつ?

何のために?


考えがまとまらないまま、僕はふと足元を見る。


そこに、一枚の木札が落ちていた。


拾い上げ、表面の文字を読む。


「エッホエッホ」


一瞬、鼓動が止まる。


ぞっとして手を離した瞬間——。


——スマホが震えた。



慌ててポケットから取り出し、画面を確認する。


……電源が入っている?


たしか、昨夜は勝手に落ちていたはずだ。


不審に思いながら、画面を見ると、録音アプリが開いていた。


しかも、録音ファイルが一つ増えている。


震える指で、再生ボタンを押した。



「エッホエッホ……エッホエッホ……」


夜の闇に響く、あの掛け声。


「エッホ……エッホ……」


段々と声が小さくなる。


次第に遠ざかっていく。


もう終わるかと思ったその時——。


「……エッ……ホ……」


そして、ノイズが混じり、無音。


録音は、そこで途切れていた。



僕は、しばらく動けなかった。


録音を止めた記憶はない。


そもそも、あの場で録音ボタンを押した覚えすらない。


それなのに、確かに、“あの声”が記録されている。


僕はそれ以上、何も考えたくなかった。


スマホをポケットに押し込み、急いでこの場所を後にした。



翌朝、村に戻った僕を見た宿の女将は、驚いたような顔をした。


「……あんた、どこにいたんだい?」


「どこって……村の外れにいたはずなんですが……」


「違うね。あんた、今朝までまる一日、どこにもいなかったよ」



言葉の意味がすぐには理解できなかった。


「いや……ちょっと変なところで寝ちまっただけで……」


「そうじゃないよ。一ノ瀬さん、昨日の夜から今日の朝まで、誰もあんたを見てないんだよ」


僕の背中に冷たいものが走る。


スマホの時計を見る。


午前7時。


……おかしい。


たしかに朝方には意識を取り戻した。

祠の前で目を覚ました時は、まだ薄暗かったはずだ。


それなのに、一日経っている?



「……この村に来た人間でね、“運び屋” に遭ったやつは、皆いなくなった」


女将が静かに言う。


「運ばれるっていうのは、あの世に連れて行かれるってことさ」


言い切るその声が、どこか遠くで響いているように感じた。


「ただ、あんたは戻ってきたんだね……珍しいこともあるもんだ」



宿の部屋に戻り、僕はもう一度スマホの録音ファイルを再生してみた。


昨夜、祠の前で確認したときと同じように、“エッホエッホ” の掛け声が録音されている。


しかし、一つ違っていた。


最後のノイズが終わった後、ほんの一瞬だけ——


「また……こようね」


そんな声が入っていた。


……自分の声で。



鳥肌が立つ。


震える手で、すぐにファイルを削除しようとする。


——その時だった。


画面が、真っ黒になった。



僕はしばらく動けなかった。


……本当に、僕は戻ってきたのか?


いや、そもそも、今の僕は”本当に”僕なのか?


わからない。


ただ一つだけ、確かなことがある。


それは、あの掛け声がまだ耳の奥にこびりついて離れないということだ。



そして今夜。


部屋の窓の外から、微かに聞こえる気がする。


「エッホエッホ……エッホエッホ……」


【終】

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