「誰もいない町」
◇
——人の気配というものは、目に見えないはずなのに、確かに感じ取れるものだ。
誰もいない部屋に入ったときの静寂。
人気のない夜道を歩くときの心細さ。
ふとした瞬間に、「誰かがいた痕跡」 を感じることがある。
それは、部屋の温もりだったり、僅かに動いた椅子だったり、微かに残る香りだったり。
だが、もしもその逆——「誰もいないはずなのに、確かに”いる”気配がある」 という状況があったとしたら?
そんな町に、僕は足を踏み入れた。
◇
山間にぽつんと広がる小さな町だった。
古い商店街。
静かな住宅街。
遠くに見える、山の稜線。
いわゆる”どこにでもある地方の町”にしか見えない。
それなのに、ここには奇妙な噂があった。
◇
「昼間なのに、誰もいない時があるんですよ」
町の外れにある喫茶店で、店主がぼそりと呟いた。
「人が消えるってことですか?」
「いや、そうじゃない。でもね……町中から、誰もいなくなる時間があるんです」
僕はコーヒーを一口すすりながら、店主の言葉を反芻する。
「住人たちはどこへ?」
「さぁね。でも、気づくといなくなってるんですよ。それも町全体で、ね」
そう言いながら、店主は窓の外を見た。
◇
「生活の気配はあるのに、誰もいない町ができることがある。」
その言葉に、僕の興味は強く惹かれた。
それはつまり——町の住人たちが一斉に消える時間がある、ということか?
「どうしてそんなことが?」
「わかりませんよ。昔から、そういうものだってだけで」
「昔から?」
「ええ。でもね、不思議なことがあるんです」
店主は言葉を切り、少し考えるようにしてから言った。
「その時間に町を歩いていた人間がいるんですよ」
「つまり、町から消えない人間が?」
「……ええ」
店主の顔が少し曇る。
「でもね、不思議と……その人たちは、すぐ町を出て行ってしまうんです」
「なぜ?」
「さぁね。でも、誰も長くは住み着かない。不思議なことに」
◇
「住人たちは”消える”時間がある」
「その時間に外にいた人間は、長く町にいられない」
まるで、この町には”何かのルール”があるような印象を受けた。
◇
「で、その時間っていうのは?」
「……だいたい、昼の二時前後ですね」
喫茶店の時計を見上げる。
現在、午後一時半。
僕はコーヒーを飲み干し、店を出ることにした。
ちょうどいい。
僕は、“その時間”を確認してみることにした。
3. 異変の兆し(突然現れる住人)
静寂が支配する町の中を歩き続けた。
相変わらず、人の気配はない。
なのに、僕の足音以外のものが聞こえる気がする。
どこからか、遠くで——微かな話し声のようなものが。
◇
時計を見る。
午後四時三十分。
ふと、どこかからシャッターが上がる音がした。
「……?」
◇
目を上げると、商店街の八百屋のシャッターが開いている。
さっきまで閉まっていたはずなのに。
驚いて周囲を見回すと、いつの間にか、町のあちこちで人の姿が増えていた。
ついさっきまで完全な無人だった町に、“住人たちが戻ってきている”。
◇
店の前に立つ八百屋の店主が、店の棚を整えている。
パン屋の奥から、誰かがパンをこねる音が聞こえる。
道を自転車で通り過ぎる学生がいる。
あまりにも自然な”町の夕方”の風景がそこにあった。
◇
まるで——最初から何も異常などなかったかのように。
◇
「……っ」
思わず息を呑む。
さっきまで、この町は無人だった。
それなのに、今はまるで、そんなことがなかったことになっている。
何が起こっている?
僕が見た”無人の町”は、何だった?
◇
いてもたってもいられず、僕は近くの八百屋の前へ向かった。
「すみません、ちょっとお聞きしたいんですが……」
「はい?」
店主は穏やかに顔を上げた。
「今日の昼間、この町、誰もいませんでしたよね?」
◇
一瞬、店主の表情が固まる。
……が、すぐに笑みを浮かべた。
「何を言ってるんですか?」
「え?」
妙な違和感が、背筋を冷やす。
僕は確かに見た。
午後二時から四時半まで、町には誰一人としていなかった。
しかし、住人たちはそれを否定する。
しかも、彼らの表情には、一瞬の”戸惑い”の後に生まれた作り物のような笑顔が張り付いていた。
◇
「……あの、念のためもう一度聞きますが、本当に……」
「ええ、本当に、ずっといましたとも」
◇
それは、“嘘をつく”のではなく、“決まっている台詞を言わされている”ような口調だった。
妙な胸騒ぎを覚えながら、僕は八百屋を離れた。
町の中を歩きながら、別の住人にも聞いてみる。
——皆、同じ答えだった。
「そんなことありませんよ?」
「ええ、ずっといましたとも」
そして、それを言うときの微妙な間と、“張り付いたような笑顔”。
◇
これは……“何か”がおかしい。
そう思った瞬間だった。
チリン……
不意に、すぐ近くで風鈴のような音がした。
顔を上げると、商店街の外れにある雑貨屋の入り口で、ひとりの老婆がこちらを見ていた。
その目には、明らかに”他の住人とは違うもの”があった。
雑貨屋の前に立つ老婆は、しばらく僕を見つめていた。
その目には、他の住人たちとは違う”意志”のようなものがあった。
彼女だけが、何かを知っている——そんな気がした。
◇
僕が雑貨屋に近づくと、老婆は静かに扉を開けた。
「……少し、話をしましょうかね」
そう言うと、僕を手招きした。
◇
店の中は薄暗かった。
棚には古びた日用品や、小さな置物が雑然と並べられている。
「昼間の町のことを聞きたいんだろう?」
老婆はそう言いながら、椅子を勧めた。
◇
「……やっぱり、何かあるんですか?」
「さぁね」
老婆は煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
「確かに、この町の人間は”消える時間”がある。でも、それを気にしているのは、あんたみたいな”外の人間”だけさ」
「住人たちは……?」
「考えないようにしている。そうやって、この町で暮らしてきたんだよ」
◇
「昼間、住人に聞いたら、みんな”ずっといた”って言いました」
「そう言うように、“決まっている”からね」
老婆の言葉に、ぞくりとした寒気が走る。
決まっている。
まるで、何かに”定められている”かのように。
◇
「町の外の人間は……?」
「この町の”消えた時間”を知ったやつは、長くは住み着かないよ」
「どうして?」
老婆は言葉を濁した。
「——夜になれば、少しはわかるさ」
◇
◇
その夜、僕は宿の窓から町を見下ろした。
そして、奇妙な光景を目にすることになる。
◇
午後九時。
町の住人たちが、一斉に動き始めた。
まるで”決まりごと”であるかのように。
◇
彼らは、それぞれの家へ戻っていく。
町の店は、急に客足が途絶えたように閉まり始める。
玄関の扉が、カチリカチリと音を立てて閉ざされていく。
◇
そして、午後九時三十分。
一瞬で、町の灯りがすべて消えた。
◇
僕は、目を疑った。
まるで”電源を落とした”かのように、町全体が一斉に暗くなる。
どの家の窓からも、一切の光が漏れていない。
暗闇の中、町は完全な静寂に包まれた。
◇
試しにスマホの時計を確認する。
通信はつながっている。
電波もある。
でも、なぜかネットは開けない。
何かに”遮断”されているような感覚。
◇
その時——
カチ……カチ……
遠くで、奇妙な音がした。
◇
静まり返った町のどこかで、誰かが歩いている音がする。
◇
でも、それは”住人”ではない気がした。
のもう一つの姿・終幕
カチ……カチ……
町が闇に沈んだあと、
遠くで、誰かの足音がした。
◇
……いや、違う。
誰かではない。“何か”だ。
◇
僕は窓の隙間から外を覗き込んだ。
住人は、もう誰も外にいないはずだ。
なのに、町の中をゆっくりと”何か”が歩いている。
◇
暗闇の中、ぼんやりとしたシルエットが見えた。
それは、人の形をしているようで——どこか違う。
異様に細長い影。
足元を曖昧に引きずるような動き。
一定のリズムで歩く、その姿。
しかし、最も異常だったのは——
そいつに”顔がない”ことだった。
◇
“それ”は静かに町の中を歩いていた。
まるで、町の見回りをしているかのように。
◇
……ここで気づいた。
さっき、昼間の町を歩いていたときの違和感。
“生活の気配はあるのに、人だけがいなかった。”
あれは——“町の主導権”が入れ替わる時間だったんじゃないか?
◇
この町は、“二種類の住人”が存在する。
昼の住人と、夜の住人。
そして、彼らが”重ならないようになっている”。
◇
「……だから、住人たちは”そんなことはない”と言ったのか」
◇
彼らは知っているんだ。
自分たちが、“昼の住人”であることを。
そして、夜の住人と混ざることができないことを。
だから、彼らは**“考えない”**ようにしている。
そうしないと、“自分がどちら側なのかわからなくなる”からだ。
◇
夜の住人は、町を静かに歩いている。
何かを探しているのか?
それとも、単にそこに”いる”だけなのか?
◇
ふと、そいつがこちらを向いたような気がした。
◇
“目”はないはずなのに、
“こっちを見ている”と、確かにわかった。
◇
瞬間、全身に粟立つような寒気が走った。
見られたら、まずい。
◇
僕は反射的に、障子を閉めた。
その時——
「……そんなこと、ありませんよ?」
背後から、囁くような声がした。
◇
息が止まりそうになる。
振り向くことができない。
……この声は、昼間、町の住人たちが揃って言っていた台詞と同じだった。
◇
でも——
今は、“誰もいないはずの部屋”の中で聞こえた。
◇
そっと振り向く。
そこには——
“僕の影”が、ひとつ増えていた。
◇
——僕は、本当に”昼の住人”なのか?
◇
◇
翌朝、目を覚ますと、町はいつも通りだった。
住人たちは、昨日と変わらぬ日常を過ごしている。
昨日の夜の出来事が、まるで夢だったかのように。
◇
ただひとつ、確かな違いがあった。
町を出る前、ふと道端に目をやると、
朝の光の下で落ちている影が、どれも不自然に揺れていた。
まるで、意志を持っているかのように——。
【終】




