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「夜尿のすヽめ」

——世の中には、理屈じゃ説明できないことがある。


祖母がそう言っていたのを今でもよく覚えている。


「科学だの医学だの、今の時代は何でも理屈で片付けようとするけどね。そういうのが通じないことってのは、昔からずっとあるもんさ」


僕が物心ついた頃から、祖母はそうした話を何の躊躇もなく口にしていた。


占い師であり、霊媒師でもある彼女は、時に超常的な現象を語ることがあったが、どれも神秘的なものではなく、どこか 淡々とした現実の話 のように聞こえた。


「“見えないもの” がいるかどうかなんてのは、結局”信じるかどうか”の話さ。だけどね、一ノ瀬家の人間は、そういうものに昔から”気に入られやすい”んだよ」


気に入られる、という言葉が気にかかった。


それはつまり、良いものも悪いものも含めて、“何か” が僕たちを選んで寄ってくるということだろうか。


祖母は続ける。


「大丈夫さ。ちゃんとお礼をすれば、だいたいのものは悪さをしないよ」


子供の頃の僕は、“悪さをしない” という言葉にホッとしながらも、それが本当に安心できる言葉なのか、少しだけ疑問に思ったことを覚えている。


何かがそこにいる前提で話しているのだから。


そして、大人になった今、僕は思い知ることになった。


この世の理屈では説明できないものが、確かに存在するということを。


それは、どこかの奇妙な村の伝承でもなければ、都市伝説のような話でもない。


僕のすぐ身近で、静かに、しかし確実に起こるものだった。


朝、目が覚めた瞬間、僕は妙な違和感を覚えた。


体が重い。いや、正確には”下半身だけが妙に冷たい”。


一瞬、寝汗でもかいたのかと思ったが、違う。


足を少し動かすと、布団が湿っている感触が伝わってくる。


僕は恐る恐る布団をめくった。


「……嘘だろ」


シーツが、不自然なまでに濡れていた。


まるで、子供の頃の記憶が悪い冗談のように蘇る。


おねしょだ。



シャワーを浴びながら、僕は考えた。


大の大人が、おねしょ?


昨夜は別に、酒を飲みすぎたわけでもない。

寝る前に特別な薬を飲んだわけでもない。


何より、こんなことは子供の頃以来、一度もなかったはずだ。


「まあ……疲れてたのかもしれないな」


そう自分に言い聞かせながら、濡れたシーツを洗濯機に放り込む。


考えても仕方がない。


たまたま、一度だけのことだろう。



だが、翌朝——またやってしまった。


目が覚めた瞬間、嫌な予感がした。


「……まさか」


ゆっくりと布団をめくる。


また濡れている。


しかも、昨日より広範囲だった。


「なんで……?」


昨夜はおねしょを警戒して、寝る前の水分摂取を控えた。

夜中に目を覚ましてトイレに行こうとすら考えていた。


それなのに、結果はこれだ。


昨日の時点では「たまたまだろう」と思えたが、二日連続となると話が違う。


子供ならともかく、いい年をした大人が続けておねしょをするなんて、普通ではない。


不安が頭をよぎる。


——何か、病気なのか?



三日目の朝、僕は完全に確信した。


これは、異常だ。


寝る前にほとんど水を飲まず、トイレに行ってから寝ても、結果は変わらなかった。


これはもう「たまたま」では済まされない。


布団を見つめながら、嫌な感覚が全身を駆け巡る。


何かが……おかしい。


このままでは、夜に眠ることすら怖くなってしまう。



僕は意を決して、病院へ行くことにした。


まずは泌尿器科を受診する。


医者は淡々と診察を進め、エコー検査や尿検査を一通り済ませる。


結果は——


「異常なし」


「特に腎臓や膀胱に問題はありませんね」


医者はカルテをめくりながら言った。


「疲労やストレスが原因で、一時的にそういう症状が出ることもあります。特に夜間の睡眠が浅いと……」


「でも、僕は普通に眠れていますし……」


「では、念のため、精神科の診察も受けてみますか?」



精神科でも診察を受けたが、そこでも 「特に問題は見られない」 という結果だった。


「過去に何かトラウマ的な出来事がありましたか?」


「いえ、特には……」


「おねしょが続く場合、ストレスや潜在的な心理的要因が絡んでいることが多いのですが、あなたの場合、原因となる要素が見当たりませんね」


僕は内心、ますます不安になった。


何の病気でもないのに、原因不明の症状が続く。


そんなことがあるのか?


帰り道、診察結果を思い返しながら考え込む。


医学的に異常がないなら、これは 体の問題ではない。


でも、じゃあこれは 何なんだ?



結局、その夜も、僕はまたやってしまった。


暗闇の中、シーツの湿った感触を指先で確かめながら、ただ呆然とする。


これはもう、単なる体調不良でもストレスでもない。


何かがおかしい。


——いや、最初から 「何か」がおかしいのではないか?


寝ている間のことだ。

僕には何もわからない。


けれど、もし 僕が眠っている間に、“何か”が起こっているのだとしたら——?


このまま放っておくのは危険かもしれない。


相談できる人は……?


ふと、ある人物の顔が頭に浮かんだ。


祖母・一ノ瀬千歳。


幼い頃から 何か奇妙なことが起こると、祖母に相談すれば大抵のことは解決した。


あまり頼りたくはなかったが、こうなれば仕方ない。


僕は意を決して、祖母のもとを訪ねることにした。




祖母の家を訪れるのは久しぶりだった。


最後に会ったのは半年ほど前だったか。

基本的に僕の方から連絡を取ることはほとんどなく、たいてい祖母が気まぐれに電話をかけてきて、適当な世間話をするのが恒例だった。


だが、今回は自分の方から頼ることになった。


正直、少し気が引ける。


幼い頃から、祖母には何度も助けられてきた。

だが、“助けてもらった” という言い方が正しいのかどうか、今でもよくわからない。


祖母は、普通の人間ではないのかもしれない。


僕がそう思うようになったのは、物心がつくかつかないかの頃からだった。



祖母・一ノ瀬千歳。


齢八十五を超えているはずだが、その立ち振る舞いに衰えはほとんど見られない。


白髪は艶やかで、着物を纏った姿はどこか気品すら漂わせている。

だが、目の奥には鋭さがあり、彼女がただの老人ではないことを物語っていた。


祖母は昔から 「占い師」や「霊媒師」 という肩書きを使っていたが、本人はよくこう言っていた。


「私はペテン師だよ」


「この世の中、信じた者が勝つんだ」


「“本物” なんてものは滅多にいないよ」


一見すると、迷信を食い物にする詐欺師のようにも聞こえる。


だが、祖母が “まったくの偽物” かというと、そうとも言い切れない。


実際、彼女の元を訪れる者たちの中には、本当に”何か”に取り憑かれたような人々がいた。

そして、祖母はそういった人間を、まるで何かを”視ている”かのように言い当て、解決してしまうのだ。


僕も、子供の頃に何度か奇妙な体験をしたことがある。


だからこそ、今回の “おねしょ” についても、祖母なら何かわかるかもしれない。



古びた木造の家。


玄関の引き戸を開けると、懐かしい線香の香りが漂ってきた。


祖母の家は昔からこの香りがする。

それが何の線香なのかはわからないが、寺や仏壇のそれとは少し違う、独特の香りだった。


「……久しぶりだね」


奥の座敷から、祖母の声が聞こえた。


僕がまだ名乗る前から、僕が来たことを察している。


「お前が自分から来るなんて、よっぽど困ってるんだろう?」


その言葉に、僕は苦笑しながら襖を開けた。



祖母は床の間の前に座っていた。


相変わらず、背筋はぴんと伸びている。

皺の刻まれた手元には湯呑みがあり、どうやらお茶を飲んでいたらしい。


「まぁ、座りな」


僕は勧められるまま、畳の上に座った。


「……実は、少し相談があって」


「おやおや」


祖母は小さく笑った。


「相談なんて、らしくないじゃないか。どうした? 借金でもしたのかい?」


「違うよ」


「女がらみ?」


「違うって」


「なら病気か」


僕は一瞬言葉に詰まった。


祖母の目がすっと細まる。


「やっぱりね」


「……病気かどうかはわからないんだ」


「話してごらん」



僕は、ここ数日の異変を詳しく説明した。


最初はたまたまかと思ったこと。

だが、何日も続き、病院に行っても異常が見つからなかったこと。

精神的なストレスとも思えないのに、おねしょが止まらないこと。


祖母は黙って話を聞いていたが、最後まで聞き終わると、ふっとため息をついた。


「……なるほどねぇ」


「何かわかるのか?」


「あぁ、わかるよ」


祖母は何の迷いもなく、すっぱりと言い切った。


そして——


「お前さんのところに、猫が寝に来てるんだよ」


「……は?」


思わず聞き返す。


祖母はまるで当たり前のことのように言った。


「お前さんの布団、気に入られたんだろうさ」



僕は一瞬、言葉が出なかった。


祖母が時々突拍子もないことを言うのは知っているが、今回は特に意味がわからない。


「ちょっと待てよ。猫って……どういうことだ?」


「文字通りの意味さ」


「いや、うちに猫なんていないけど」


「お前さんには見えないだけだよ」


祖母は湯呑みを置いて、僕をまっすぐに見た。


「お前がしてるのは、おねしょじゃない」


「は?」


「猫だね」


僕はますますわけがわからなくなった。


祖母は楽しそうに微笑みながら、湯呑みの縁を指でなぞる。


「猫ってのはね、気に入った場所があると、そこを”自分のもの”だと思うんだよ」


「……」


「で、そいつはお前の布団を気に入った」


「……いや、そいつって誰だよ」


「だから、猫だよ」


「……でも、俺には見えないんだけど」


「そりゃあね。この世のものじゃないから」


さらりとそう言われ、僕は思わず背筋を伸ばした。



祖母はどこか愉快そうに笑った。


「そいつに悪気はないさ。ただ、“居心地がいい場所” にいたいだけの話だよ」


「……だからって、俺が毎晩おねしょする理由にはならないだろ」


「お前はそいつと一緒に寝てるんだよ。身体の感覚がそっちに引っ張られてる」


「……冗談だろ?」


「だったら試してみな」


祖母は小さな皿を手に取り、指でとんとんと叩いた。


「猫の餌と水の器を枕元に置いてみな」


「……それで?」


「そしたら、おねしょは止まるよ」



祖母の言葉を信じるべきかどうか、僕は迷った。


だが、これまでの経験上、祖母がこう言う時は大体間違っていない。


半信半疑のまま、僕は家に帰ることにした。



自宅に戻った僕は、早速、祖母の言葉を思い返した。


「猫の餌と水の器を枕元に置いてみな」


本当にそんなことでおねしょが止まるのか?


いや、そもそも僕が経験しているのは、おねしょと呼ぶべきなのか?


祖母の話が本当ならば、僕は 「何か見えないものと一緒に寝ていた」 ことになる。


それが事実なら、考えたくないほどに気味が悪い。



それでも、やるしかない。


もはや医学では解決できない以上、祖母の言葉に頼るしかなかった。


僕は適当な小皿を二つ取り出し、一つには水を、もう一つには スーパーで買った猫用のカリカリ を入れた。


一人暮らしの部屋に、突然できた “見えない猫のための食事スペース”。


普通なら笑い話のような光景だったが、この時ばかりは笑う余裕がなかった。


「……本当に、これでいいのか?」


枕元に並べた皿を眺めながら、半信半疑のまま布団に入る。


「そしたら、おねしょは止まるよ」


祖母の言葉を思い返しながら、僕は目を閉じた。



夜。


うっすらとした眠気の中で、ふと意識が浮上する瞬間があった。


静かな部屋の中、時計の秒針の音だけが聞こえる。


その時——


カリ……カリ……


何かを噛むような、小さな音がした。


ピチャ、ピチャ……


それに続いて、水を舐めるような音。


僕は目を開けようとしたが、妙に体が重かった。


それは金縛りというほどのものではなく、ただ、無理に動きたくないという感覚だった。


僕のすぐ横、枕元の方から、僅かな気配を感じる。


——猫、なのか?


何も見えないはずの猫が、今、そこで食事をしている?


一瞬、恐怖が全身を駆け巡った。


しかし、妙なことに、不思議と安心感もあった。


「ただ食べているだけだ」


そう思うと、意識が再び沈み始める。


そのまま、僕は眠りに落ちた。



朝。


目が覚めた僕は、まず布団の感触を確かめた。


……濡れていない。


「……マジかよ」


まるで狐につままれたような気分だった。


半信半疑のまま布団を抜け出し、枕元の小皿に目を向ける。


カリカリの減りが少しだけ変わっている気がする。


水の表面には、うっすらと波紋の跡が残っていた。


昨夜、あれは確かに聞こえた。

カリカリを噛む音、水を飲む音——。


だが、実際にこの皿を使った “何か” がいたという確証はない。


僕は喉を鳴らしながら、深く息をついた。


「……本当に、いたのか?」


——その瞬間、ふと寒気が走った。


僕は何かを忘れているような気がした。


昨夜、眠りに落ちる直前——。


僕の枕元には、確かに 「何か」がいた。


だが、それは 本当に猫だったのか?



結局、その晩も試してみたが、やはり おねしょは止まったままだった。


もう何日も続いていた異変が、まるで何事もなかったかのように終わってしまった。


「……祖母の言った通りか」


もはや、この状況をどう解釈すればいいのかわからなかった。



夕方になり、僕は祖母に電話をかけた。


「……もしもし」


「どうだい、おねしょは止まったかい?」


祖母の第一声がそれだった。


まるで、すべてを見透かしているような口調。


「……止まったよ」


「ほらね、言った通りだろう?」


僕はため息をついた。


「本当に、ただの猫だったのか?」


祖母は一瞬、黙った。


そして、ゆっくりと答える。


「……そいつが”何”だったのか、気になるかい?」


「……」


正直、知りたくもあり、知りたくもなかった。


「別に、悪さをするものじゃないさ。ただ”気に入った”だけだよ」


「でも、なんで俺の布団なんだ?」


「お前の寝床が、そいつにとって一番居心地がよかったんだろうね」


祖母は淡々とした口調で言う。


「猫ってのは、そういうものだよ」


そう言われると、それ以上何も言えなかった。



「もし、そいつがまた戻ってきたら……」


祖母は少し間を置いて、こう続けた。


「今度は、魚の骨でも置いてやりな」


「……魚の骨?」


「そしたら、もっと長くいるかもしれない」


「……」


冗談なのか、本気なのかわからない。


「ま、気にしなくてもいいさ。今度は、夢の中で会えるかもしれないね」


祖母はそう言って、電話を切った。



部屋の隅に置いた皿を、僕はもう一度見た。


カリカリの減り具合。

水に残るわずかな波紋。


そして——


昨夜、確かにあった”気配”。


僕は、皿を片付けることなく、ただしばらく眺めていた。




祖母との電話を切った後も、僕はしばらくぼんやりとしていた。


部屋の隅に置いた小皿を眺めながら、何とも言えない気分になっていた。


——結局、“アレ”は何だったんだ?



おねしょは完全に止まった。


それは事実だ。


祖母の言う通り、餌と水を用意しただけで解決した。


医学的な診断では何の異常もなかったのに、だ。


しかし、問題はそこじゃない。


僕はこの数日間、見えない何か と一緒に寝ていたのか?


それは 本当に猫だったのか?


——いや、それ以前に、“何かがいた” という事実が、どうしようもなく気味が悪かった。



ふと、小皿のカリカリを見つめる。


昨夜の時点では、確かに減っていた。

そして今も……やはり、少しだけ量が減っている気がする。


「……気のせいか?」


僕は指先で一粒つまみ、じっと観察した。


特に変わった様子はない。


まぁ、そもそも僕は猫の餌なんて詳しくないから、変化があったとしても気づける自信はないが。


僕は軽く息を吐き、そのまま皿を片付けようとした。


その瞬間——


「……ありがとう」


誰かが、そう言った気がした。



背筋に冷たいものが走った。


僕は一瞬、部屋の中を見渡した。


もちろん、誰もいない。


——空耳か?


だが、妙に鮮明だった。


耳鳴りのような雑音の中で、ほんのかすかな声が、確かに聞こえた気がする。


男か女かもわからない。


だが、それは確かに 感謝の言葉だった。


「……はは、まさかな」


僕は自分を落ち着かせるように、微かに笑った。



結局、その晩からもおねしょは再発することはなかった。


もう皿を置く必要もないのかもしれない。


だが、僕は片付けることなく、そのままにしておくことにした。


祖母の言葉が、頭の片隅に残っていたからだ。


「そしたら、もっと長くいるかもしれない」


その”そいつ”が何だったのかは、わからないままだ。


ただ——


もしまた”そいつ”が来ることがあるなら。


その時は、夢の中で会うことになるのかもしれない。


【終】


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