「夜尿のすヽめ」
——世の中には、理屈じゃ説明できないことがある。
祖母がそう言っていたのを今でもよく覚えている。
「科学だの医学だの、今の時代は何でも理屈で片付けようとするけどね。そういうのが通じないことってのは、昔からずっとあるもんさ」
僕が物心ついた頃から、祖母はそうした話を何の躊躇もなく口にしていた。
占い師であり、霊媒師でもある彼女は、時に超常的な現象を語ることがあったが、どれも神秘的なものではなく、どこか 淡々とした現実の話 のように聞こえた。
「“見えないもの” がいるかどうかなんてのは、結局”信じるかどうか”の話さ。だけどね、一ノ瀬家の人間は、そういうものに昔から”気に入られやすい”んだよ」
気に入られる、という言葉が気にかかった。
それはつまり、良いものも悪いものも含めて、“何か” が僕たちを選んで寄ってくるということだろうか。
祖母は続ける。
「大丈夫さ。ちゃんとお礼をすれば、だいたいのものは悪さをしないよ」
子供の頃の僕は、“悪さをしない” という言葉にホッとしながらも、それが本当に安心できる言葉なのか、少しだけ疑問に思ったことを覚えている。
何かがそこにいる前提で話しているのだから。
そして、大人になった今、僕は思い知ることになった。
この世の理屈では説明できないものが、確かに存在するということを。
それは、どこかの奇妙な村の伝承でもなければ、都市伝説のような話でもない。
僕のすぐ身近で、静かに、しかし確実に起こるものだった。
◇
朝、目が覚めた瞬間、僕は妙な違和感を覚えた。
体が重い。いや、正確には”下半身だけが妙に冷たい”。
一瞬、寝汗でもかいたのかと思ったが、違う。
足を少し動かすと、布団が湿っている感触が伝わってくる。
僕は恐る恐る布団をめくった。
「……嘘だろ」
シーツが、不自然なまでに濡れていた。
まるで、子供の頃の記憶が悪い冗談のように蘇る。
おねしょだ。
◇
シャワーを浴びながら、僕は考えた。
大の大人が、おねしょ?
昨夜は別に、酒を飲みすぎたわけでもない。
寝る前に特別な薬を飲んだわけでもない。
何より、こんなことは子供の頃以来、一度もなかったはずだ。
「まあ……疲れてたのかもしれないな」
そう自分に言い聞かせながら、濡れたシーツを洗濯機に放り込む。
考えても仕方がない。
たまたま、一度だけのことだろう。
◇
だが、翌朝——またやってしまった。
目が覚めた瞬間、嫌な予感がした。
「……まさか」
ゆっくりと布団をめくる。
また濡れている。
しかも、昨日より広範囲だった。
「なんで……?」
昨夜はおねしょを警戒して、寝る前の水分摂取を控えた。
夜中に目を覚ましてトイレに行こうとすら考えていた。
それなのに、結果はこれだ。
昨日の時点では「たまたまだろう」と思えたが、二日連続となると話が違う。
子供ならともかく、いい年をした大人が続けておねしょをするなんて、普通ではない。
不安が頭をよぎる。
——何か、病気なのか?
◇
三日目の朝、僕は完全に確信した。
これは、異常だ。
寝る前にほとんど水を飲まず、トイレに行ってから寝ても、結果は変わらなかった。
これはもう「たまたま」では済まされない。
布団を見つめながら、嫌な感覚が全身を駆け巡る。
何かが……おかしい。
このままでは、夜に眠ることすら怖くなってしまう。
◇
僕は意を決して、病院へ行くことにした。
まずは泌尿器科を受診する。
医者は淡々と診察を進め、エコー検査や尿検査を一通り済ませる。
結果は——
「異常なし」
「特に腎臓や膀胱に問題はありませんね」
医者はカルテをめくりながら言った。
「疲労やストレスが原因で、一時的にそういう症状が出ることもあります。特に夜間の睡眠が浅いと……」
「でも、僕は普通に眠れていますし……」
「では、念のため、精神科の診察も受けてみますか?」
◇
精神科でも診察を受けたが、そこでも 「特に問題は見られない」 という結果だった。
「過去に何かトラウマ的な出来事がありましたか?」
「いえ、特には……」
「おねしょが続く場合、ストレスや潜在的な心理的要因が絡んでいることが多いのですが、あなたの場合、原因となる要素が見当たりませんね」
僕は内心、ますます不安になった。
何の病気でもないのに、原因不明の症状が続く。
そんなことがあるのか?
帰り道、診察結果を思い返しながら考え込む。
医学的に異常がないなら、これは 体の問題ではない。
でも、じゃあこれは 何なんだ?
◇
結局、その夜も、僕はまたやってしまった。
暗闇の中、シーツの湿った感触を指先で確かめながら、ただ呆然とする。
これはもう、単なる体調不良でもストレスでもない。
何かがおかしい。
——いや、最初から 「何か」がおかしいのではないか?
寝ている間のことだ。
僕には何もわからない。
けれど、もし 僕が眠っている間に、“何か”が起こっているのだとしたら——?
このまま放っておくのは危険かもしれない。
相談できる人は……?
ふと、ある人物の顔が頭に浮かんだ。
祖母・一ノ瀬千歳。
幼い頃から 何か奇妙なことが起こると、祖母に相談すれば大抵のことは解決した。
あまり頼りたくはなかったが、こうなれば仕方ない。
僕は意を決して、祖母のもとを訪ねることにした。
◇
祖母の家を訪れるのは久しぶりだった。
最後に会ったのは半年ほど前だったか。
基本的に僕の方から連絡を取ることはほとんどなく、たいてい祖母が気まぐれに電話をかけてきて、適当な世間話をするのが恒例だった。
だが、今回は自分の方から頼ることになった。
正直、少し気が引ける。
幼い頃から、祖母には何度も助けられてきた。
だが、“助けてもらった” という言い方が正しいのかどうか、今でもよくわからない。
祖母は、普通の人間ではないのかもしれない。
僕がそう思うようになったのは、物心がつくかつかないかの頃からだった。
◇
祖母・一ノ瀬千歳。
齢八十五を超えているはずだが、その立ち振る舞いに衰えはほとんど見られない。
白髪は艶やかで、着物を纏った姿はどこか気品すら漂わせている。
だが、目の奥には鋭さがあり、彼女がただの老人ではないことを物語っていた。
祖母は昔から 「占い師」や「霊媒師」 という肩書きを使っていたが、本人はよくこう言っていた。
「私はペテン師だよ」
「この世の中、信じた者が勝つんだ」
「“本物” なんてものは滅多にいないよ」
一見すると、迷信を食い物にする詐欺師のようにも聞こえる。
だが、祖母が “まったくの偽物” かというと、そうとも言い切れない。
実際、彼女の元を訪れる者たちの中には、本当に”何か”に取り憑かれたような人々がいた。
そして、祖母はそういった人間を、まるで何かを”視ている”かのように言い当て、解決してしまうのだ。
僕も、子供の頃に何度か奇妙な体験をしたことがある。
だからこそ、今回の “おねしょ” についても、祖母なら何かわかるかもしれない。
◇
古びた木造の家。
玄関の引き戸を開けると、懐かしい線香の香りが漂ってきた。
祖母の家は昔からこの香りがする。
それが何の線香なのかはわからないが、寺や仏壇のそれとは少し違う、独特の香りだった。
「……久しぶりだね」
奥の座敷から、祖母の声が聞こえた。
僕がまだ名乗る前から、僕が来たことを察している。
「お前が自分から来るなんて、よっぽど困ってるんだろう?」
その言葉に、僕は苦笑しながら襖を開けた。
◇
祖母は床の間の前に座っていた。
相変わらず、背筋はぴんと伸びている。
皺の刻まれた手元には湯呑みがあり、どうやらお茶を飲んでいたらしい。
「まぁ、座りな」
僕は勧められるまま、畳の上に座った。
「……実は、少し相談があって」
「おやおや」
祖母は小さく笑った。
「相談なんて、らしくないじゃないか。どうした? 借金でもしたのかい?」
「違うよ」
「女がらみ?」
「違うって」
「なら病気か」
僕は一瞬言葉に詰まった。
祖母の目がすっと細まる。
「やっぱりね」
「……病気かどうかはわからないんだ」
「話してごらん」
◇
僕は、ここ数日の異変を詳しく説明した。
最初はたまたまかと思ったこと。
だが、何日も続き、病院に行っても異常が見つからなかったこと。
精神的なストレスとも思えないのに、おねしょが止まらないこと。
祖母は黙って話を聞いていたが、最後まで聞き終わると、ふっとため息をついた。
「……なるほどねぇ」
「何かわかるのか?」
「あぁ、わかるよ」
祖母は何の迷いもなく、すっぱりと言い切った。
そして——
「お前さんのところに、猫が寝に来てるんだよ」
「……は?」
思わず聞き返す。
祖母はまるで当たり前のことのように言った。
「お前さんの布団、気に入られたんだろうさ」
◇
僕は一瞬、言葉が出なかった。
祖母が時々突拍子もないことを言うのは知っているが、今回は特に意味がわからない。
「ちょっと待てよ。猫って……どういうことだ?」
「文字通りの意味さ」
「いや、うちに猫なんていないけど」
「お前さんには見えないだけだよ」
祖母は湯呑みを置いて、僕をまっすぐに見た。
「お前がしてるのは、おねしょじゃない」
「は?」
「猫だね」
僕はますますわけがわからなくなった。
祖母は楽しそうに微笑みながら、湯呑みの縁を指でなぞる。
「猫ってのはね、気に入った場所があると、そこを”自分のもの”だと思うんだよ」
「……」
「で、そいつはお前の布団を気に入った」
「……いや、そいつって誰だよ」
「だから、猫だよ」
「……でも、俺には見えないんだけど」
「そりゃあね。この世のものじゃないから」
さらりとそう言われ、僕は思わず背筋を伸ばした。
◇
祖母はどこか愉快そうに笑った。
「そいつに悪気はないさ。ただ、“居心地がいい場所” にいたいだけの話だよ」
「……だからって、俺が毎晩おねしょする理由にはならないだろ」
「お前はそいつと一緒に寝てるんだよ。身体の感覚がそっちに引っ張られてる」
「……冗談だろ?」
「だったら試してみな」
祖母は小さな皿を手に取り、指でとんとんと叩いた。
「猫の餌と水の器を枕元に置いてみな」
「……それで?」
「そしたら、おねしょは止まるよ」
◇
祖母の言葉を信じるべきかどうか、僕は迷った。
だが、これまでの経験上、祖母がこう言う時は大体間違っていない。
半信半疑のまま、僕は家に帰ることにした。
◇
自宅に戻った僕は、早速、祖母の言葉を思い返した。
「猫の餌と水の器を枕元に置いてみな」
本当にそんなことでおねしょが止まるのか?
いや、そもそも僕が経験しているのは、おねしょと呼ぶべきなのか?
祖母の話が本当ならば、僕は 「何か見えないものと一緒に寝ていた」 ことになる。
それが事実なら、考えたくないほどに気味が悪い。
◇
それでも、やるしかない。
もはや医学では解決できない以上、祖母の言葉に頼るしかなかった。
僕は適当な小皿を二つ取り出し、一つには水を、もう一つには スーパーで買った猫用のカリカリ を入れた。
一人暮らしの部屋に、突然できた “見えない猫のための食事スペース”。
普通なら笑い話のような光景だったが、この時ばかりは笑う余裕がなかった。
「……本当に、これでいいのか?」
枕元に並べた皿を眺めながら、半信半疑のまま布団に入る。
「そしたら、おねしょは止まるよ」
祖母の言葉を思い返しながら、僕は目を閉じた。
◇
夜。
うっすらとした眠気の中で、ふと意識が浮上する瞬間があった。
静かな部屋の中、時計の秒針の音だけが聞こえる。
その時——
カリ……カリ……
何かを噛むような、小さな音がした。
ピチャ、ピチャ……
それに続いて、水を舐めるような音。
僕は目を開けようとしたが、妙に体が重かった。
それは金縛りというほどのものではなく、ただ、無理に動きたくないという感覚だった。
僕のすぐ横、枕元の方から、僅かな気配を感じる。
——猫、なのか?
何も見えないはずの猫が、今、そこで食事をしている?
一瞬、恐怖が全身を駆け巡った。
しかし、妙なことに、不思議と安心感もあった。
「ただ食べているだけだ」
そう思うと、意識が再び沈み始める。
そのまま、僕は眠りに落ちた。
◇
朝。
目が覚めた僕は、まず布団の感触を確かめた。
……濡れていない。
「……マジかよ」
まるで狐につままれたような気分だった。
半信半疑のまま布団を抜け出し、枕元の小皿に目を向ける。
カリカリの減りが少しだけ変わっている気がする。
水の表面には、うっすらと波紋の跡が残っていた。
昨夜、あれは確かに聞こえた。
カリカリを噛む音、水を飲む音——。
だが、実際にこの皿を使った “何か” がいたという確証はない。
僕は喉を鳴らしながら、深く息をついた。
「……本当に、いたのか?」
——その瞬間、ふと寒気が走った。
僕は何かを忘れているような気がした。
昨夜、眠りに落ちる直前——。
僕の枕元には、確かに 「何か」がいた。
だが、それは 本当に猫だったのか?
◇
結局、その晩も試してみたが、やはり おねしょは止まったままだった。
もう何日も続いていた異変が、まるで何事もなかったかのように終わってしまった。
「……祖母の言った通りか」
もはや、この状況をどう解釈すればいいのかわからなかった。
◇
夕方になり、僕は祖母に電話をかけた。
「……もしもし」
「どうだい、おねしょは止まったかい?」
祖母の第一声がそれだった。
まるで、すべてを見透かしているような口調。
「……止まったよ」
「ほらね、言った通りだろう?」
僕はため息をついた。
「本当に、ただの猫だったのか?」
祖母は一瞬、黙った。
そして、ゆっくりと答える。
「……そいつが”何”だったのか、気になるかい?」
「……」
正直、知りたくもあり、知りたくもなかった。
「別に、悪さをするものじゃないさ。ただ”気に入った”だけだよ」
「でも、なんで俺の布団なんだ?」
「お前の寝床が、そいつにとって一番居心地がよかったんだろうね」
祖母は淡々とした口調で言う。
「猫ってのは、そういうものだよ」
そう言われると、それ以上何も言えなかった。
◇
「もし、そいつがまた戻ってきたら……」
祖母は少し間を置いて、こう続けた。
「今度は、魚の骨でも置いてやりな」
「……魚の骨?」
「そしたら、もっと長くいるかもしれない」
「……」
冗談なのか、本気なのかわからない。
「ま、気にしなくてもいいさ。今度は、夢の中で会えるかもしれないね」
祖母はそう言って、電話を切った。
◇
部屋の隅に置いた皿を、僕はもう一度見た。
カリカリの減り具合。
水に残るわずかな波紋。
そして——
昨夜、確かにあった”気配”。
僕は、皿を片付けることなく、ただしばらく眺めていた。
◇
祖母との電話を切った後も、僕はしばらくぼんやりとしていた。
部屋の隅に置いた小皿を眺めながら、何とも言えない気分になっていた。
——結局、“アレ”は何だったんだ?
◇
おねしょは完全に止まった。
それは事実だ。
祖母の言う通り、餌と水を用意しただけで解決した。
医学的な診断では何の異常もなかったのに、だ。
しかし、問題はそこじゃない。
僕はこの数日間、見えない何か と一緒に寝ていたのか?
それは 本当に猫だったのか?
——いや、それ以前に、“何かがいた” という事実が、どうしようもなく気味が悪かった。
◇
ふと、小皿のカリカリを見つめる。
昨夜の時点では、確かに減っていた。
そして今も……やはり、少しだけ量が減っている気がする。
「……気のせいか?」
僕は指先で一粒つまみ、じっと観察した。
特に変わった様子はない。
まぁ、そもそも僕は猫の餌なんて詳しくないから、変化があったとしても気づける自信はないが。
僕は軽く息を吐き、そのまま皿を片付けようとした。
その瞬間——
「……ありがとう」
誰かが、そう言った気がした。
◇
背筋に冷たいものが走った。
僕は一瞬、部屋の中を見渡した。
もちろん、誰もいない。
——空耳か?
だが、妙に鮮明だった。
耳鳴りのような雑音の中で、ほんのかすかな声が、確かに聞こえた気がする。
男か女かもわからない。
だが、それは確かに 感謝の言葉だった。
「……はは、まさかな」
僕は自分を落ち着かせるように、微かに笑った。
◇
結局、その晩からもおねしょは再発することはなかった。
もう皿を置く必要もないのかもしれない。
だが、僕は片付けることなく、そのままにしておくことにした。
祖母の言葉が、頭の片隅に残っていたからだ。
「そしたら、もっと長くいるかもしれない」
その”そいつ”が何だったのかは、わからないままだ。
ただ——
もしまた”そいつ”が来ることがあるなら。
その時は、夢の中で会うことになるのかもしれない。
【終】




