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「名前を知ってはいけない」

「この村には、決して口にしてはいけない名前がある」


そう言ったのは、村の外れに住む老人だった。

この取材のためにわざわざ足を運んだのは、 「名前を知ったら、戻ってこられなくなる」 という奇妙な噂を確かめるためだった。


僕は全国各地の怪異を取材しているライターだが、これほど抽象的で、それでいて興味をそそられる話は久しぶりだった。


「それは、誰の名前ですか?」


老人は答えなかった。


ただ、 「知ること自体が危険だ」 とだけ告げた。


「名前を知ることで、そいつはお前を”認識”するようになる」



僕は村の中心へと向かった。


この村は山間にひっそりと佇む、古びた集落だった。

人口は百人ほど。今では過疎が進み、住民のほとんどが高齢者だった。


何人かに話を聞いたが、誰も 「名前に関する話」 をしようとはしなかった。


「それは……言ってはいけないんです」


「そんなことを聞いていると、目をつけられますよ」


「余所者なら、すぐに帰った方がいい」


どの家でも、同じような反応が返ってきた。


しかし、ある老婆が 「あんたがしつこく聞くなら、ここへ行くといい」 と一軒の家を教えてくれた。



紹介された家は、村の奥にあった。

古びた木造の一軒家。


呼び鈴を押すと、扉が少しだけ開き、男がこちらを覗いた。


「……取材?」


「ええ。村の名前に関する話を……」


男は僕の顔をしばらく見つめた後、静かに中へ招き入れた。



室内は、異様なほど整頓されていた。


壁にはいくつもの 古びた戸籍の紙 が貼られている。

しかし、どれも 肝心の「名前の部分」だけが黒く塗りつぶされていた。


「ここに、“知ってはいけない名前”があった」


男はそう言った。


「昔、この村には一人の男がいた。彼は、村人の名前を”奪う”ことができた」


「名前を奪う?」


「そう。名前を奪われた者は、やがて”消える”んだ」


僕は背筋が冷たくなった。


「では……その男の名前は?」


男は、戸籍の紙を一枚指差した。


そこには、黒々と塗りつぶされた一文字があった。


僕は、息を呑んだ。


それは――



その瞬間、家の窓が コンコン と叩かれた。


「……!」


男は静かに顔を伏せ、僕に囁いた。


「……もう遅い」


「今、名前を見たな」


僕は、無意識に “名前”を口にしようとした。


「だめだ」


男が、低く言った。


「それを言ったら、“そいつ”に気づかれる」


僕は口を閉じた。


しかし、窓の外で――


何かがこちらを見ていた。



トン……トン……


扉がノックされる音がする。


「おい、一ノ瀬」


――僕の名前を呼ぶ声がした。


「……」


「開けろよ。いるの、わかってるんだ」


僕は凍りついた。


それは 僕の声だった。


扉の向こうから “僕自身”の声で僕を呼ぶ者 がいた。


男は、僕の腕を引いた。


「ここから出るんだ」


「でも……」


「もう”お前の名前”が知られた」



男は、部屋の奥の襖を開けた。


そこには 何も書かれていない戸籍の紙 が並んでいた。


「ここにお前の名前を書け」


「……?」


「名前を”忘れる”んだ」


僕は、一瞬ためらったが、ペンを取り、自分の名前を書き始めた。


だが――


書いている途中で、自分の名前が思い出せなくなった。



翌朝、僕は村の外れで目を覚ました。


村へ戻ろうとしたが、どこを探しても あの村はなかった。


「……?」


そして、ふとポケットの中のメモを見た。


そこには 「名前を知ってはいけない」 という文字だけが残されていた。



それから、奇妙なことが起こった。


僕の名前を呼ぶ人がいなくなった。


出版社の担当は、僕の名前を思い出せないようだった。

身分証を見ても、違和感がある。


まるで――


僕の名前が、この世から消え始めているようだった。



夜、僕は自分の声を録音した。


「僕の名前は、一ノ瀬一二三だ」


そして、再生する。


しかし、再生された音声は――


「僕の名前は、■■■■■だ」


音声が消されていた。


「……」


僕は、名前を失う日が近いのかもしれない。


あるいは――


「もうとっくに、名前なんてなかったのかもしれない」


僕は、そう思いながら静かに録音を止めた。


(完)


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