「名前を知ってはいけない」
「この村には、決して口にしてはいけない名前がある」
そう言ったのは、村の外れに住む老人だった。
この取材のためにわざわざ足を運んだのは、 「名前を知ったら、戻ってこられなくなる」 という奇妙な噂を確かめるためだった。
僕は全国各地の怪異を取材しているライターだが、これほど抽象的で、それでいて興味をそそられる話は久しぶりだった。
「それは、誰の名前ですか?」
老人は答えなかった。
ただ、 「知ること自体が危険だ」 とだけ告げた。
「名前を知ることで、そいつはお前を”認識”するようになる」
◇
僕は村の中心へと向かった。
この村は山間にひっそりと佇む、古びた集落だった。
人口は百人ほど。今では過疎が進み、住民のほとんどが高齢者だった。
何人かに話を聞いたが、誰も 「名前に関する話」 をしようとはしなかった。
「それは……言ってはいけないんです」
「そんなことを聞いていると、目をつけられますよ」
「余所者なら、すぐに帰った方がいい」
どの家でも、同じような反応が返ってきた。
しかし、ある老婆が 「あんたがしつこく聞くなら、ここへ行くといい」 と一軒の家を教えてくれた。
◇
紹介された家は、村の奥にあった。
古びた木造の一軒家。
呼び鈴を押すと、扉が少しだけ開き、男がこちらを覗いた。
「……取材?」
「ええ。村の名前に関する話を……」
男は僕の顔をしばらく見つめた後、静かに中へ招き入れた。
◇
室内は、異様なほど整頓されていた。
壁にはいくつもの 古びた戸籍の紙 が貼られている。
しかし、どれも 肝心の「名前の部分」だけが黒く塗りつぶされていた。
「ここに、“知ってはいけない名前”があった」
男はそう言った。
「昔、この村には一人の男がいた。彼は、村人の名前を”奪う”ことができた」
「名前を奪う?」
「そう。名前を奪われた者は、やがて”消える”んだ」
僕は背筋が冷たくなった。
「では……その男の名前は?」
男は、戸籍の紙を一枚指差した。
そこには、黒々と塗りつぶされた一文字があった。
僕は、息を呑んだ。
それは――
◇
その瞬間、家の窓が コンコン と叩かれた。
「……!」
男は静かに顔を伏せ、僕に囁いた。
「……もう遅い」
「今、名前を見たな」
僕は、無意識に “名前”を口にしようとした。
「だめだ」
男が、低く言った。
「それを言ったら、“そいつ”に気づかれる」
僕は口を閉じた。
しかし、窓の外で――
何かがこちらを見ていた。
◇
トン……トン……
扉がノックされる音がする。
「おい、一ノ瀬」
――僕の名前を呼ぶ声がした。
「……」
「開けろよ。いるの、わかってるんだ」
僕は凍りついた。
それは 僕の声だった。
扉の向こうから “僕自身”の声で僕を呼ぶ者 がいた。
男は、僕の腕を引いた。
「ここから出るんだ」
「でも……」
「もう”お前の名前”が知られた」
◇
男は、部屋の奥の襖を開けた。
そこには 何も書かれていない戸籍の紙 が並んでいた。
「ここにお前の名前を書け」
「……?」
「名前を”忘れる”んだ」
僕は、一瞬ためらったが、ペンを取り、自分の名前を書き始めた。
だが――
書いている途中で、自分の名前が思い出せなくなった。
◇
翌朝、僕は村の外れで目を覚ました。
村へ戻ろうとしたが、どこを探しても あの村はなかった。
「……?」
そして、ふとポケットの中のメモを見た。
そこには 「名前を知ってはいけない」 という文字だけが残されていた。
◇
それから、奇妙なことが起こった。
僕の名前を呼ぶ人がいなくなった。
出版社の担当は、僕の名前を思い出せないようだった。
身分証を見ても、違和感がある。
まるで――
僕の名前が、この世から消え始めているようだった。
◇
夜、僕は自分の声を録音した。
「僕の名前は、一ノ瀬一二三だ」
そして、再生する。
しかし、再生された音声は――
「僕の名前は、■■■■■だ」
音声が消されていた。
「……」
僕は、名前を失う日が近いのかもしれない。
あるいは――
「もうとっくに、名前なんてなかったのかもしれない」
僕は、そう思いながら静かに録音を止めた。
(完)




