「見ている犬」
最初にその話を聞いたのは、知人のカメラマンからだった。
「変な犬がいるんですよ」
僕がコーヒーを啜っていると、彼は唐突にそう言った。
撮影の仕事で地方の住宅地を回っていたときのことらしい。
「変な犬?」
「ええ。とにかくじっと、人を見つめる犬です。どこにも繋がれていないし、野良犬でもないらしいんですが……」
「見つめる?」
「そうです。どれだけ動いても、ずっと視線を追ってくる。まばたきもしないし、吠えたり唸ったりもしない。ただ、じっと見ているだけなんです」
彼は、冗談めかしながらスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。
そこには、塀の上にちょこんと座る黒い犬が映っていた。
漆黒の毛並み、無表情な顔。
そして――まっすぐカメラを見つめる瞳。
「なあ、これ、ただの犬じゃない気がしませんか?」
◇
僕はその話に興味を持ち、実際に犬が目撃された住宅地を訪れることにした。
その町は、特に特徴のない静かな住宅街だった。
目撃談が多いのは、町の中央にある公園周辺。
住民に話を聞いてみると、確かに**「ずっと人を見つめる犬」** の存在を知っている人が多かった。
「ええ、あの犬なら知ってますよ。いつもあそこにいます」
「ああ、あの黒い犬ね。妙に落ち着いてるのよ。子供が近づいても逃げないし」
「ただ、目が合うと気味が悪いんですよね。じーっと見てくるから」
「でも、吠えたり襲ってきたりはしないんですよ。不思議な犬です」
犬は、ただ見ている。
それだけなのに、皆が異様な印象を受けている。
◇
僕は夕暮れ時、実際に公園を歩いてみた。
しばらく周囲を観察していると――いた。
黒い犬。
塀の上に座り、じっとこちらを見つめている。
視線が合った瞬間、全身が妙な感覚に包まれた。
冷ややかで、異様に深い眼差し。
まるで「何か」を見透かしているような視線。
僕は無意識にスマホを構え、シャッターを切った。
その瞬間――犬が目を細めた。
まるで、「それをしてはいけない」とでも言うように。
◇
その夜、僕は変な夢を見た。
町の夜道。
いつの間にか僕は歩いていた。
周囲は静かすぎるほど静かで、風の音すら聞こえない。
不意に、視線を感じる。
振り向くと――
そこに 黒い犬がいた。
道の端、街灯の下で、じっと僕を見つめている。
犬は何も言わず、ただそこにいる。
だが、次の瞬間――
犬の口がゆっくり開いた。
そして――
「――もう、見つかったね」
犬の口から、人の声が聞こえた。
◇
僕は跳ね起きた。
汗がにじんでいる。
妙な悪夢だった。
いや、あれは「夢」だったのか?
スマホを確認すると、昨日撮ったはずの犬の写真が消えていた。
まるで、初めから撮っていなかったかのように。
◇
翌日、僕は再び公園に向かった。
そこには、昨日と同じ場所に あの犬がいた。
僕が立ち止まると、犬はゆっくりと顔を上げる。
「じっ」
まっすぐな視線。
まるで、僕が来るのを知っていたかのような反応。
「……お前は、何を見ている?」
犬は答えない。
ただ、じっとこちらを見つめている。
まるで――
「僕の背後」を見ているように。
◇
ふと、気づいた。
犬の視線が向いているのは、僕ではなかった。
その先――僕の背後。
振り向いてはいけない。
直感が、そう警告している。
だが、僕はゆっくりと首を回した。
そこには――
何も、いない。
だが、僕は確信した。
この犬は、「見えている」 のだ。
普通の人間には見えない、何かが。
◇
その後、僕はこの町の古い記録を調べた。
すると、ある一件の記事を見つけた。
「数年前、この町で、一人の女性が失踪した」
「最後に目撃された場所は、公園の塀の近くだった」
「彼女が行方不明になった後、黒い犬が現れるようになった」
◇
黒い犬は、何かを見続けている。
それが「何」なのかは、僕には分からない。
だが――
僕は時折、妙な視線を感じるようになった。
誰もいないはずの部屋の隅、街角の曲がり角、背後の空間。
誰もいないはずなのに、そこに「何か」がいる気がする。
犬は、きっと「それ」を見ていたのだろう。
◇
◇
その後も、あの犬は公園にいるらしい。
町の人々は、ただの不思議な犬だと言う。
だが、もし――
もし、彼が「何か」を見つめているのだとしたら。
それは、いったい何なのだろうか。
そして――
なぜ、それを見続けているのだろうか。
(完)




