「夜の骨董屋」その2
夜の街を歩いていると、ふと目に入った。
「夜の骨董屋」だ。
この店が、どこにあるのかを説明するのは難しい。
訪れるたびに微妙に場所が違う。
ただ、僕にとってそれは不審なことではない。
何度も通ううちに「そういうもの」として受け入れるようになった。
今日もまた、違う場所に現れた店の前に立つ。
路地裏の奥、古びた建物の木製の扉が、ひっそりとそこにあった。
人の気配はない。
それでも、僕は扉を押した。
カラン、と鈴の音が鳴る。
奥から、店主・御蔭真琴の声が聞こえた。
「来ましたね」
◇
店内は相変わらず薄暗かった。
まるで時間が止まっているように静まり返っている。
壁際には、異国の皿や壺、和骨董の硯や仏具が並べられている。
天井からは色褪せた提灯がぶら下がり、その淡い灯りだけが空間を照らしていた。
その明かりの下、店主がカウンターの向こうに座っている。
落ち着いた仕草で湯呑みを傾け、何もない空間を見つめていた。
「……まだ気になっていますね?」
問いかけるような、確信しているような声音だった。
◇
「ええ」
僕は、素直に認めた。
この店で見た黒い革手袋。
触れた瞬間に、誰かの記憶が流れ込んできた。
あれが何だったのか。
僕の中には、説明のつかない違和感が残っていた。
◇
御蔭真琴は、微かに微笑んだ。
「知ることは、得ることです」
「……失うことでもあるかもしれませんが」
彼はそう言いながら、視線を店の奥へと向けた。
◇
僕も、その先を見た。
奥の棚。
そこに、黒い革手袋はまだあった。
◇
僕はゆっくりと歩み寄る。
光の少ない店内では、棚の影がぼんやりと伸びていた。
手袋は、その影の中に沈むように鎮座している。
◇
指先を伸ばし、触れる。
◇
――冷たい。
◇
ただの革製品とは思えない、異様な冷たさだった。
まるで体温を吸い取られるような感触。
皮の感触はしっとりとしていて、どこか不快だった。
◇
次の瞬間、視界が歪む。
◇
◇
気がつくと、僕は見知らぬ空間に立っていた。
◇
廊下。
古びた木の床。
白い障子が並ぶ和風の屋敷。
僕は、誰かの視点に入り込んでいた。
◇
足元を見下ろすと、僕の手には、あの黒い革手袋がはめられていた。
◇
目の前には、一枚の扉。
◇
静寂の中で、ノックの音が響いた。
◇
「かえして」
◇
女の声。
静かに、しかし確かに響く。
◇
僕――いや、この手袋の持ち主は、息を呑んだ。
◇
手袋をはめた手が震えている。
◇
躊躇いながら、扉に手をかけた。
◇
ゆっくりと開く。
◇
◇
だが――
◇
そこには、誰もいなかった。
◇
◇
だが、次の瞬間、
◇
壁に映る影だけが、こちらを向いた。
◇
「かえして」
◇
◇
僕は、息を呑んだ。
◇
そして、世界が反転するように揺らぎ、視界が暗転した。
◇
◇
気がつくと、僕は元の店内に立っていた。
◇
◇
◇
冷たい汗が背中を伝う。
◇
◇
「……なるほど」
◇
店主が、何かを確かめるように呟いた。
◇
「手袋の持ち主は、何かを奪った。そして、それを取り返しに来た存在がいた……」
◇
「顔のない女……?」
◇
◇
僕は、ふと考えた。
◇
このままでは、何も分からない。
◇
「店主、ひとつ頼みがあります」
◇
「なんでしょう?」
◇
「この店の写真を撮らせてもらえませんか?」
◇
◇
御蔭真琴は、静かに微笑んだ。
「……ご自由にどうぞ」
◇
◇
僕は、こういう時の為に持ち歩いているポロライドカメラを取り出し、店内の写真を撮った。
◇
そして――
◇
そこに飛び込んだ。
◇
◇
――世界が裏返る。
◇
気づくと、僕は、夜の骨董屋の中にいた。
しかし――
ここは、「今の店」ではない。
空気が違う。
いつもの店とほぼ同じ配置のはずなのに、どこかが決定的に異なる。
◇
照明は今よりも明るい。
しかし、白熱灯の温かみはなく、ぼんやりと黄ばんだ光が空間を照らしている。
壁の棚に並ぶ骨董品は、見覚えのあるものばかりだった。
ただし、それらはどこか――新品に近い状態だった。
現代では擦り切れ、埃をかぶっていた古い漆器の皿が、まだ艶を保っている。
割れかけていた花瓶は、ひび一つない。
◇
それだけではない。
◇
音が、ない。
◇
いや――完全な無音ではないのだが、どこか「作られた静寂」のようなものを感じる。
僕の足音は、いつもより微かに響いた。
店の奥から、かすかな空気の振動が伝わってくるが、それが何の音なのかははっきりしない。
まるで、店全体が時間の狭間に閉じ込められている かのようなそんな空気を醸し出していた。
◇
◇
そして、そこに「彼女」がいた。
◇
カウンターの向こう側に、白髪の老婦人 が静かに座っていた。
◇
着物姿。
穏やかな微笑み。
しかし、その目だけが、異様に鋭い。
◇
彼女の存在が、この「違和感」の中心なのかもしれない。
◇
◇
僕は、店内をゆっくりと見渡した。
今の店とほとんど同じ作り。
だが――
目を凝らすと、いくつかの違いに気がつく。
◇
まず、店の入り口にかかっている鈴が違う。
今の「夜の骨董屋」では、小さな銀の鈴が入り口に吊るされている。
それが、ここでは、真鍮製の大きな鈴に変わっていた。
◇
それから、カウンターの奥に置かれた帳簿。
僕が知る店主・御蔭真琴は、紙の帳簿は使わず、記憶で取引を記録している。
だが、ここでは古びた和綴じの帳簿が開かれ、筆が添えられていた。
◇
そして――
◇
奥の棚には、「黒い革手袋」が置かれていた。
◇
まるで、そこにあるのが当然のように、ぴたりと鎮座していた。
僕は、一歩足を踏み出した。
その瞬間、老婦人がゆっくりと顔を上げる。
◇
彼女の視線が、僕を捉えると彼女は一言
「……もう、あれを渡してはいけません」
その声は、頭の内側に直接響くようだった。
普通の会話ではない。
まるで、意識の底に直接刻まれるような――
夢の中で何かを囁かれるような、不気味な感覚だった。
◇
僕は息を呑んだ。
老婦人は、ゆっくりと首を横に振った。
「……あなたが知るべきことではありません」
柔らかい口調だったが、その言葉には奇妙な断定があった。
まるで、僕がこれ以上関わるべきではないと、はっきりと告げているかのような。
◇
けれど――
そんなことを言われても、引き下がるつもりはなかった。
この手袋は何なのか。
そして、「かえして」と言っていた女は誰なのか。
◇
「この手袋の持ち主は……」
僕が言いかけた、その瞬間だった。
◇
僕は、写真の外へと引き戻された。
◇
気がつくと、僕は元の店内に立っていた。
◇
◇
ただし――
◇
◇
そこにいたはずの老婦人は、消えていた。
◇
僕は、ゆっくりと周囲を見渡した。
◇
◇
先ほどまでの過去の店内とは違う。
ここは「元いた今の」夜の骨董屋だ。
◇
それなのに――
◇
店内の空気が、まるで真空のように静まり返っていた。
◇
◇
「……戻ってきましたか。」
◇
◇
ふいに、店主・御蔭真琴の声が響いた。
◇
◇
僕は、振り向く。
◇
彼は、カウンターの奥で変わらぬ表情のまま、ゆったりと湯呑みを持ち上げていた。
まるで、僕が何をしていたのかすべて知っているような、そんな目をしていた。
◇
「……どうやら、興味を持ちすぎましたね」
「……何か、知っているんですか?」
◇
「さあ」
◇
店主は、穏やかに笑った。
◇
「知ることと、語ることは別です」
◇
その言葉が、妙に引っかかった。
◇
◇
僕は、ふと、ポケットに手を突っ込んだ。
◇
そこにあるはずの「写真」を確かめるために。
◇
けれど――
◇
◇
――ない。
◇
◇
ポケットの中は、空っぽだった。
◇
僕は、わずかに息を呑む。
◇
そのときだった。
◇
◇
――コツ、コツ。
◇
◇
扉の向こうから、足音が響いた。
◇
◇
一定のリズムで、ゆっくりと近づいてくる。
◇
◇
僕は、息を詰めた。
◇
◇
「……」
◇
◇
何かが、店の前まで来ている。
◇
◇
扉の向こう側に、気配が立ち込める。
◇
◇
そして――
◇
ドアノブが、ゆっくりと回った。
◇
◇
まるで、「かえして」と言っていた何者かが、ここまで追ってきたかのように――。
◇
◇
◇
(完)




