「泥の客人」
「泥まみれの人間が訪ねてきたら、決して家にあげてはいけない」
そういう話を、僕はある男から聞いた。
男は、古い家に住んでいる。
その家は代々続くもので、彼の祖父の代から変わらず、ずっとそこにあるという。
田舎の、何の変哲もない家だ。
ただ、一つだけ、変わった言い伝えがあった。
◇
「泥の客人が来たら、絶対に家の中に入れるな」
男は幼い頃から、祖母にそう言われて育ったらしい。
◇
子どもの頃は、その意味がよくわからなかった。
何かの迷信か、あるいは単なる昔話のようなものかと思っていた。
そもそも、「泥の客人」 という言葉自体、妙な響きだった。
「どういうこと?」と尋ねても、祖母は決まってこう言った。
「あれは、人間じゃない」
◇
それが何を意味するのか、男は深く考えたことがなかった。
だが――
◇
ある年の冬、男はその「泥の客人」と対面することになった。
◇
◇
◇
その夜は、雪が降る寒い晩だった。
男は一人で留守番をしていた。
祖母はすでに亡くなっていて、両親は町に用事で出かけていた。
外は静かで、雪の降る音だけが微かに聞こえる。
◇
そんな夜に――
コン、コン。
玄関の扉が叩かれた。
◇
男は、不思議に思った。
こんな夜更けに誰かが訪ねてくることは滅多にない。
ましてや、この寒さだ。
◇
男は玄関に向かい、慎重に扉を開けた。
◇
――そこには、泥まみれの男 が立っていた。
◇
◇
男は、言葉を失った。
◇
来客の姿は、明らかに異常だった。
顔も手も服も、すべてが泥で覆われていた。
◇
しかし、それ以上におかしかったのは――
泥が 乾いていなかった ことだった。
◇
どろり、とした泥が、男の体から滴っていた。
◇
それは雨ではなかった。
服が濡れているのではなく、
まるで 身体そのものが泥でできている かのように、
ずるりと黒い泥が、絶えず流れ落ちている。
◇
◇
「すみません、寒くて……」
泥の男が、かすれた声で言った。
◇
「少しだけ、中に入れてもらえませんか?」
◇
◇
男は、すぐに思い出した。
祖母の言葉。
「泥の客人が来たら、絶対に家の中に入れるな」
◇
◇
男は、恐る恐る答えた。
「……申し訳ないですが、今日は……」
◇
泥の男は、何も言わなかった。
ただ、じっと男を見つめていた。
◇
目が合った瞬間――
男の背筋が、凍りついた。
◇
その目には、光がなかった。
白目と黒目の境界が曖昧で、まるで濁った水の中を覗き込んでいるようだった。
◇
泥の男は、ゆっくりと口を開いた。
「……わかりました」
◇
それだけ言って、泥の男は静かに背を向けた。
◇
しかし、その足跡を見て、男は再び息を呑んだ。
――泥が、一切残っていなかった。
◇
床は乾いたままだった。
◇
◇
◇
泥の男が去った後、男はしばらく玄関の前で立ち尽くしていた。
◇
翌朝、父にその話をすると、彼は険しい顔をした。
◇
そして、こう言った。
「よく、家に入れなかったな」
◇
◇
◇
「もし入れていたら、朝になっても、お前はここにいなかったぞ」
◇
◇
◇
それ以来、男は「泥の客人」のことを深く考えないようにした。
◇
だが――
その冬以来、町のあちこちで 奇妙な失踪事件 が起こり始めた。
◇
夜中に家を訪ねてきた誰かを、家に入れた者がいたのだろうか。
それとも、もっと別の何かが関係しているのか。
◇
男は、もう確かめようとは思わなかった。
◇
ただ、祖母の言葉だけは、今も鮮明に覚えているという。
◇
「泥の客人が来たら、決して家にあげてはいけない」
◇
それは、単なる迷信ではなかったのかもしれない。
◇
◇
◇
◇
あの泥の男はどこから来たのか。
あの泥の男は何故泥だらけなのか。
あの泥の男は何の為に家を訪ねるのか。
この話を聞いたとき、僕は「いくつかの可能性」を考えた。
◇
この世には掘り返してはいけない場所が存在する。
以前訪れた町で僕は実際にそれを体験していた。
――掘り返してはいけない何かがある土地。
――埋められた何か。土の中に埋め、葬られた概念。
ーー土の中に抑えつけられている者。
「泥の客人」はもしかしたらそういう類と関係があるのかもしれない。
◇
あるいは、「誰かの姿を借りている」可能性もある。
元々は、普通の人間だったが、何かの力で「泥」になったのかもしれない。
そして、それを知らずに家に入れてしまった者は……。
◇
「朝になっても、そこにはいない」
◇
そういうことなのかもしれない。
◇
……まぁ、どちらにせよ。
僕がこの話を聞いたのは、もう何年も前のことだ。
◇
あれから、その町では「泥の客人」を見たという話は聞かなくなった らしい。
◇
だが。
◇
本当に、もう現れないのだろうか。
◇
それとも――
◇
僕がこうして話している間も、どこかの家の前で、
「誰か」が扉を叩いているのかもしれない。
◇
◇
(完)




