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「泥の客人」

「泥まみれの人間が訪ねてきたら、決して家にあげてはいけない」


そういう話を、僕はある男から聞いた。


男は、古い家に住んでいる。

その家は代々続くもので、彼の祖父の代から変わらず、ずっとそこにあるという。

田舎の、何の変哲もない家だ。


ただ、一つだけ、変わった言い伝えがあった。



「泥の客人が来たら、絶対に家の中に入れるな」


男は幼い頃から、祖母にそう言われて育ったらしい。



子どもの頃は、その意味がよくわからなかった。

何かの迷信か、あるいは単なる昔話のようなものかと思っていた。

そもそも、「泥の客人」 という言葉自体、妙な響きだった。


「どういうこと?」と尋ねても、祖母は決まってこう言った。


「あれは、人間じゃない」



それが何を意味するのか、男は深く考えたことがなかった。


だが――



ある年の冬、男はその「泥の客人」と対面することになった。





その夜は、雪が降る寒い晩だった。


男は一人で留守番をしていた。

祖母はすでに亡くなっていて、両親は町に用事で出かけていた。


外は静かで、雪の降る音だけが微かに聞こえる。



そんな夜に――


コン、コン。


玄関の扉が叩かれた。



男は、不思議に思った。


こんな夜更けに誰かが訪ねてくることは滅多にない。

ましてや、この寒さだ。



男は玄関に向かい、慎重に扉を開けた。



――そこには、泥まみれの男 が立っていた。




男は、言葉を失った。



来客の姿は、明らかに異常だった。

顔も手も服も、すべてが泥で覆われていた。



しかし、それ以上におかしかったのは――


泥が 乾いていなかった ことだった。



どろり、とした泥が、男の体から滴っていた。



それは雨ではなかった。


服が濡れているのではなく、

まるで 身体そのものが泥でできている かのように、

ずるりと黒い泥が、絶えず流れ落ちている。




「すみません、寒くて……」


泥の男が、かすれた声で言った。



「少しだけ、中に入れてもらえませんか?」




男は、すぐに思い出した。


祖母の言葉。


「泥の客人が来たら、絶対に家の中に入れるな」




男は、恐る恐る答えた。


「……申し訳ないですが、今日は……」



泥の男は、何も言わなかった。


ただ、じっと男を見つめていた。



目が合った瞬間――


男の背筋が、凍りついた。



その目には、光がなかった。

白目と黒目の境界が曖昧で、まるで濁った水の中を覗き込んでいるようだった。



泥の男は、ゆっくりと口を開いた。


「……わかりました」



それだけ言って、泥の男は静かに背を向けた。



しかし、その足跡を見て、男は再び息を呑んだ。


――泥が、一切残っていなかった。



床は乾いたままだった。





泥の男が去った後、男はしばらく玄関の前で立ち尽くしていた。



翌朝、父にその話をすると、彼は険しい顔をした。



そして、こう言った。


「よく、家に入れなかったな」





「もし入れていたら、朝になっても、お前はここにいなかったぞ」





それ以来、男は「泥の客人」のことを深く考えないようにした。



だが――


その冬以来、町のあちこちで 奇妙な失踪事件 が起こり始めた。



夜中に家を訪ねてきた誰かを、家に入れた者がいたのだろうか。


それとも、もっと別の何かが関係しているのか。



男は、もう確かめようとは思わなかった。



ただ、祖母の言葉だけは、今も鮮明に覚えているという。



「泥の客人が来たら、決して家にあげてはいけない」



それは、単なる迷信ではなかったのかもしれない。






あの泥の男はどこから来たのか。


あの泥の男は何故泥だらけなのか。


あの泥の男は何の為に家を訪ねるのか。


この話を聞いたとき、僕は「いくつかの可能性」を考えた。



この世には掘り返してはいけない場所が存在する。

以前訪れた町で僕は実際にそれを体験していた。


――掘り返してはいけない何かがある土地。

――埋められた何か。土の中に埋め、葬られた概念。

ーー土の中に抑えつけられている者。


「泥の客人」はもしかしたらそういう類と関係があるのかもしれない。



あるいは、「誰かの姿を借りている」可能性もある。


元々は、普通の人間だったが、何かの力で「泥」になったのかもしれない。



そして、それを知らずに家に入れてしまった者は……。



「朝になっても、そこにはいない」



そういうことなのかもしれない。



……まぁ、どちらにせよ。


僕がこの話を聞いたのは、もう何年も前のことだ。



あれから、その町では「泥の客人」を見たという話は聞かなくなった らしい。



だが。



本当に、もう現れないのだろうか。



それとも――



僕がこうして話している間も、どこかの家の前で、


「誰か」が扉を叩いているのかもしれない。




(完)

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