「夜の骨董屋」その1
この店に来る理由は、特にない。
気が向いたとき、なんとなく足を運ぶ。
ここに来れば、何か面白いものが見つかる気がする。
それが 「夜の骨董屋」 という場所だった。
◇
この店は、行くたびに微妙に場所が違う。
最初に訪れたときは、商店街の外れにあった。
次に来たときは、全く別の路地に現れていた。
地図に載っていないわけではない。
しかし、住所をメモしても、次に行くときには同じ場所にない。
それなのに、ふと歩いていると、また目の前に現れる。
◇
まるで、僕の方が 「店に呼ばれている」 ような感覚すらある。
◇
今夜もまた、知らない路地にその扉があった。
◇
細い道の先。
静かな闇に溶け込むように、古びた木造の建物がぽつんと佇んでいる。
看板はない。
だが、わずかに隙間から 温かな灯りが漏れていた。
◇
僕は、何のためらいもなく扉を押した。
◇
カラン、と鈴の音が鳴る。
◇
この音もまた、不思議だった。
いつ聞いても、耳の奥に深く響くような気がする。
◇
扉を開けた瞬間、古い紙と木の匂いが鼻をかすめた。
◇
◇
相変わらず、薄暗い店内。
◇
壁際には、びっしりと骨董品が並んでいる。
和硯や陶磁器、書物、古い時計、
西洋の燭台や彫刻、妙に鮮やかな色のガラス細工……
どこかの国から持ち込まれたもの なのだろう。
けれど、どこか 「この世のものではない」 ようにも見える。
◇
そして、棚と棚の間を縫うように配置された小さなテーブルの奥、
カウンターの向こうに、店主がいた。
◇
◇
「来ましたね」
◇
◇
御蔭真琴。
年齢も性別もわからない、不思議な人物。
男とも女ともつかない、静かな声。
淡い光の中、いつもと変わらず湯呑みを手にしていた。
◇
◇
「今日は?」
「いや、ただの暇つぶしですよ」
◇
「なるほど」
◇
店主は、それ以上何も聞かない。
この店の距離感は、いつもそうだった。
◇
僕は、棚の間をゆっくりと歩いた。
◇
すれ違う骨董品たちは、それぞれが何かの歴史を背負っているように見える。
長い年月を経て、今ここに流れ着いたものたち。
ただの古物か、それとも……。
◇
◇
ふと、視線が止まる。
◇
棚の一角。
そこに、ぽつんと 「黒い革手袋」 が置かれていた。
◇
◇
何の変哲もない、黒い革の手袋。
片方だけ。
もう片方はない。
◇
◇
「それ、気になりますか?」
店主が、穏やかな声で尋ねた。
◇
「ええ、なんとなく」
◇
「……触れてみますか?」
◇
◇
僕は一瞬迷ったが、指先でそっと革の感触を確かめた。
◇
◇
――冷たい。
◇
◇
ただの革製品のはずなのに。
◇
◇
まるで、氷のように、指先から体温を奪われる。
皮の表面はしっとりとしているが、不快な湿り気を帯びている。
まるで、人の肌に触れているような感触。
◇
そして――
◇
次の瞬間、
◇
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
◇
◇
◇
◇
◇
どこかの部屋の中。
◇
◇
木の床。
壁際には古い箪笥が並び、机の上には書きかけの手紙が置かれている。
◇
◇
そこに、「僕」はいた。
◇
◇
いや――
◇
◇
「僕ではない誰か」がいた。
◇
◇
◇
僕の手には、黒い革手袋がはめられている。
◇
◇
けれど、それは 僕の手ではない。
◇
◇
◇
目の前に、誰かがいる。
◇
◇
◇
――女。
◇
◇
髪の長い女が、こちらを見ている。
◇
◇
◇
しかし。
◇
◇
顔が、ない。
◇
◇
◇
彼女の輪郭はある。
けれど、その内部は不自然なほどに霞んでいた。
◇
まるで、何かの力で 「そこだけ削り取られた」 かのように。
◇
◇
女は、ゆっくりと口があるはずの部分を開けた。
◇
◇
「……かえして」
◇
◇
◇
その瞬間、僕の意識は 現実へと引き戻された。
◇
◇
◇
◇
「……ッ」
◇
◇
気がつくと、僕は手袋を握りしめていた。
◇
◇
手のひらに、冷たい汗が滲んでいる。
◇
◇
「何か見えましたか?」
◇
◇
店主が、ゆったりとした口調で問いかける。
◇
◇
「……わからない」
◇
◇
僕はゆっくりと手袋を棚に戻した。
◇
◇
店主はどこか楽しげに頷いた。
◇
「やはり、貴方は合っていますね」
◇
「合ってる……?」
◇
「いえ、独り言です」
◇
◇
僕は、ふっと息を整えた。
◇
◇
それでも、手袋の冷たさは、まだ指先に残っていた。
◇
◇
僕は手袋を見下ろした。
たかが革製品。
だが、確かに「何か」が刻まれていた。
◇
店主は、ふっと微笑んだ。
「買いますか?」
◇
僕は息を整えながら、静かに首を振った。
「遠慮しておきます」
「……賢明ですね」
◇
僕は深く息を吐き、店の扉を開けた。
外の空気を吸い込む。
◇
夜の街は静かだった。
◇
振り返ると、店主がこちらを見ていた。
「……お気をつけて」
「ええ、また」
◇
僕は、いまさっき経験した異様な体験を反芻しながら足を踏み出した。
◇
しかし――
数歩進んで、ふと気づく。
背後を振り返る。
◇
そこには、もう店の扉はなかった。
◇
まるで最初から、その場所には何もなかったかのように。
◇
◇
(その1・完)




