「ねずみの王」(前編)
「ねずみの王」
ねずみが嫌いだ。
それはもう、どうしようもないほどに。
小さい頃に齧られたことがあるせいだろうか。
それとも、あの素早く這い回る動きが本能的に受け付けないのか。
理由はともかく、僕はあいつらが苦手だ。
だからこそ、今回の取材は正直なところ、あまり気が進まなかった。
◇
「ねずみの異常発生、ですか?」
町の商店街の一角で、僕は取材相手の老人に尋ねた。
「そうさ。ここ最近、急に増えたんだよ」
そう言って、老人はタバコの煙を吐き出す。
「昼間はまだいい。でも、夜になると、どこからともなく湧いて出てくる」
「湧いて出てくる?」
「そうとしか言えんよ。前はこんなこと、なかったんだ」
老人の話では、ここ数週間、町の各地でねずみの目撃情報が急増しているらしい。
しかも、そのねずみたちは「やたらと大きい」のだという。
「普通のねずみじゃないんですか?」
「いや、それが……」
老人は、何かを言いかけて口をつぐんだ。
「とにかく、おかしいんだよ。今までにないほど、ねずみが町じゅうに増えてる。夜の道を歩いてみな、わかるから」
◇
確かに、町を歩いていると、そこかしこに 「ねずみがいた痕跡」 が残っていた。
電柱の根元には齧られた跡。
ゴミ捨て場は荒らされ、食い散らかされた残飯が散乱している。
路地裏には、黒く蠢く小さな影がいくつも見えた。
普通のねずみの繁殖周期から考えても、これは異常な増え方だ。
「……なるほど、確かに多いですね」
「ああ。でもな、問題はねずみの数だけじゃないんだよ」
◇
老人は、周囲を見回し、声を潜めた。
「ねずみの王を見たら、もう助からないって話があるんだ」
「ねずみの王?」
「昔から、この町にはな……」
そう言いかけた老人は、ふと口を噤んだ。
◇
「……いや、すまん。俺はもう行くよ」
◇
そう言って、老人は早足で去ってしまった。
◇
「ねずみの王」という言葉が妙に引っかかった。
町のどこかに、「王」と呼ばれるねずみがいるのか?
それは、単なる比喩なのか、それとも――
気になった僕は、他の住民にも話を聞いてみることにした。
◇
しかし、話を聞いた人の反応は、どれも曖昧だった。
「……聞いたことはあるけど、詳しくは知らない」
「そんな話、もう誰も気にしてないよ」
「昔の人が言ってただけだろ」
◇
「ねずみの王」の噂は、確かにこの町に存在していた。
だが、誰もその正体を知ろうとしない。
むしろ、知っている人ほど、避けるような反応を見せた。
◇
不思議なことに、こういう話はあるものだ。
「知ってはいけないこと」
「気づいたら終わり」
まるで、それを意識した瞬間から、自分も巻き込まれるかのように――。
◇
そして、もう一つ気になる話を聞いた。
「そういえば、この前、○○さんの家がね……」
その家では、特にねずみの被害がひどかったらしい。
だが、数日前に 「家の住人が突然いなくなった」 のだという。
夜逃げか? 失踪か?
警察もまだ詳しく調べていない。
だが、その家には――
「ねずみの死骸が、異常なほど積み上がっていた」 らしい。
◇
◇
僕は、その家へ向かうことにした。
町の端にある、一見何の変哲もない一軒家。
ただ、庭先は荒れ果て、郵便受けには回収されていない新聞が溜まっていた。
住人が消えてから、数日経っているはずなのに、窓や玄関はそのままだった。
まるで、ここが「存在しない家」であるかのように、誰も関与しないまま放置されている。
◇
僕は玄関に近づき、ドアノブに手をかけた。
――開いた。
◇
嫌な予感がする。
それでも、僕は中に足を踏み入れた。
◇
家の中は、奇妙なほど静かだった。
生活感はある。
だが、明らかに「何かがいた痕跡」が、そこかしこに残っている。
◇
そして、リビングの隅で――
僕はそれを見た。
◇
ねずみの死骸。
大量のねずみの死骸が、部屋の隅に山のように積み上がっていた。
◇
だが、その中に、一際異様な「何か」が混じっていた。
◇
僕は息を呑む。
ねずみの群れの中に、明らかに 「形のおかしな塊」 がある。
◇
それは、何匹ものねずみの尻尾が絡まり合い、
ひとつの異形の塊となったもの――
◇
まるで、ねずみたちが融合したような、
「ねずみの王」 そのものだった。
◇
「これは……」
部屋の隅に積み上げられた、異様なねずみの死骸の山。
そして、その中に混ざる「何か」。
僕は、ゆっくりと近づいた。
その塊は、複数のねずみが絡まり、固まりになったもののように見えた。
尻尾が何本も絡み合い、まるで一本の神経のように束ねられている。
僕は本で読んだことがある。
「ラットキング」――ねずみの集団の尻尾が絡まり、ひとつの塊になったもの。
極めて稀に、実際に発見されることもあるらしい。
しかし、それは単なる奇形にすぎない。
本来ならば、ただの生物学的な異常であり、伝説のような存在ではないはずだった。
けれど、僕の目の前にあるものは、違った。
尻尾だけでなく、身体までがつながっている。
無理に引き剥がしたわけでもないのに、ねずみたちの骨が絡まり、融合しているように見えた。
そして――
その中心部には 「人間の指」 のようなものが埋まっていた。
◇
背筋が凍る。
「これは……何なんだ」
誰かがこの塊を作ったのか?
それとも――自然に、こうなったのか?
嫌な汗が滲む。
ここに住んでいた家族は、一体どこへ消えたのか。
彼らは、ねずみの異常発生と何か関係があったのか。
僕は、慎重に塊から目を離し、部屋を見回した。
そして、床の上に散乱している「あるもの」に気づく。
それは、古びた写真だった。
◇
僕は、その写真を拾い上げた。
古い白黒写真。
撮影されたのは、少なくとも数十年前。
そこに写っていたのは、数人の男たちが、
大きな石の前にひれ伏している姿だった。
しかし、その石の前には――
「……ねずみ?」
無数のねずみが、まるで集まるように積み重なり、
中央に、異形のねずみの塊 が鎮座していた。
まるで、ねずみたちが 「王」として崇める存在 のように。
背中に冷たいものが走る。
これは、ただのねずみの異常発生ではない。
町の歴史の中に、何かしらの儀式があったのだ。
この写真の中に――僕は入れるか?
◇
少し迷ったが、僕は写真を両手で持ち、ゆっくりと目を閉じた。
意識を集中させる。
次の瞬間――
世界が、裏返った。
◇
◇
目を開けると、僕は違う場所に立っていた。
あたりは、古びた町並み。
電灯の代わりに、家々の前にはぼんやりと灯る提灯がぶら下がっている。
現代ではない。
これは、おそらく写真が撮影された当時の風景――。
そして、視線を少し前に向けると、石の前にひれ伏す人々の姿があった。
◇
彼らは、何かを口ずさみながら、
小さなねずみの死骸を手に取り、慎重に石の前に置いていた。
供え物、だろうか。
中央には、ねずみの塊。
やはり、それは「ねずみの王」だった。
しかし――
僕は、ふと気づく。
石の前にいる人々の中に、一人だけ異様な存在 がいた。
◇
それは、長い白い衣をまとった女性。
顔は見えないが、その立ち姿には、
人ではない何かのような、違和感があった。
◇
彼女は、ねずみの王に手をかざし、静かに呟いた。
「我らが王よ。受け入れられし者を」
その瞬間、ねずみの王の塊が、かすかに蠢いた。
◇
僕は、息を呑んだ。
これは、本当に儀式だ。
ねずみの王は、何かを選び、それを受け入れる。
それが、どういう意味なのか。
◇
次の瞬間、写真の世界が揺らいだ。
◇
身体が急に軽くなり、視界が滲む。
戻る――。
僕は、そのまま目を閉じた。
◇
次に目を開けたとき、僕は元の家の中にいた。
◇
手には、写真が握られている。
だが――写真の中の人影が、一人消えていた。
◇
これは、どういうことだ?
僕は、写真の中で「何か」に見られていた気がする。
いや、もしかすると、写真を通じて何かを連れてきたのかもしれない――。
◇
その時、背後から、カサ……という微かな音が聞こえた。
◇
振り向く。
◇
そこにいたのは――
《続く》




