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「透明な魚」


湖には、何かがいる。


目を凝らすと、そこに「何か」が揺らめいていた。


透明な魚。


姿が見えないのに、確かにそこにいるとわかる存在。


その魚に触れた者は、皮膚から水分を奪われ干からびる。




湖の北側に位置するこの町は、かつて「水神の町」と呼ばれていた。


山々に囲まれた静かな町で、湖に面した家々はどこか古めかしく、観光地というよりは歴史がそのまま残された場所といった雰囲気だった。


町の中央には、広場のような場所があり、その一角には石造りの鳥居が立っていた。

その奥には、「河童神社」 と呼ばれる神社がある。


町の至るところに、河童の像や石碑が点在していた。


しかし、それらはどれも苔むしており、手入れがされている様子はない。

まるで、誰も信仰していない神を、ただ形式的に残しているかのようだった。





「河童を祀っている町だと聞いたんですが……」


僕は、店のカウンター越しに座る店主へと話しかけた。


店主は、ゆっくりとタバコをくゆらせながら、ちらりと僕を見た。

その視線には、わずかな警戒がにじんでいた。


「河童の町ってのは、昔の話さね」


しわがれた声とともに、煙がゆっくりと天井へと昇っていく。

店の中にはほのかに古びた木の匂いが漂い、それに混じってタバコの焦げ臭さが染み付いていた。



「今じゃ、誰も気にしちゃいないよ」


店主はそう言うと、灰皿の縁でタバコをトントンと叩き、灰を落とした。

小さな動作だったが、その仕草にはどこか 「この話はここで終わりだ」 という含みがあった。


だが、それで引き下がるつもりはなかった。


「でも、神社は残っていますよね?」


僕はあえて質問を続けた。



店主の手が、わずかに止まる。


「まぁな」


口元にくわえたタバコの端が、ゆっくりと赤く光った。


「でも、あそこに参拝する人間なんてほとんどいないさ」


店主は言葉を切り、灰皿にタバコを押しつける。

その動きは妙に慎重で、何かを振り払うかのようだった。



「なぜです?」


僕が問いかけると、店主はわずかに眉を寄せた。


「理由なんかねぇよ。ただ……」


「みんな、そういうもんなんだ」



その言葉は、答えになっていない。


言葉の裏にあるものを探ろうと、僕は店主の顔をじっと見つめた。


しかし、彼はもう僕を見ていなかった。

代わりに、タバコの箱を軽く叩いて新しい一本を取り出す。


それを口にくわえ、マッチを擦る。


シュッ――


青白い火が一瞬だけ灯り、すぐに消えた。



「神社は今でも管理されているんですか?」


僕が続けると、店主はわずかに目を細めた。


「さぁな」


短く吐き捨てるような言葉だった。


そして、くわえたタバコに火をつけると、もう何も話す気はないというように、ゆっくりと煙を吐き出した。



その沈黙が、全てを物語っていた。


この町の人々は、神社のことを 「知っている」。

だが、それについて話すつもりはない。



僕は、視線を店の外へ向けた。


ガラス戸の向こうには、寂れた街並みが広がっている。

道端には、古びた石の河童像がぽつんと立っていた。



それは単なる飾りではなく、誰かが見張るために置かれたもの のように見えた。


僕は静かに息を吐き、会釈をして店を後にした。


背後では店主が何か小さく呟いた気がしたが、扉が閉まる音にかき消されてしまった。




翌朝、湖のほとりへ向かうと、数人の漁師が網を片付けていた。


「お兄さん、観光かい?」


年配の漁師が話しかけてきた。


「いや、ちょっと湖のことを調べに来ました」


「湖のこと?」


漁師たちは一瞬、互いに顔を見合わせた。


「……あんまり深入りしないほうがいいぞ」


「どうしてです?」



漁師の一人が、湖を見つめながら言った。


「ここに住むもんは、みんな知ってるさ」


「湖には、“見えない何か” がいるってな」



「見えない何か……?」


「普通の魚とは違う。網にもかからねぇし、釣り針にもかからねぇ」


「けど、確かにそこにいるんだ」



「どういう意味ですか?」



すると、漁師の一人が袖をまくり、腕を見せた。



そこには、不自然に乾燥した皮膚 が広がっていた。

まるで、何かに水分を吸われたような痕。



「……これは?」


「数年前、俺はそいつに触っちまったのさ」



話を聞くと、彼は湖に手を入れたとき、何かが腕に絡みついた という。


そして、次の瞬間、腕が異常に冷たくなり、その部分の水分が奪われていった。



「まるで、ミイラみてぇになっちまったよ」



しかし、不思議なことに、完全に干からびる前に離れると、時間が経てば水分が戻るという。



「ただな……」


漁師は、低い声で言った。


「完全に捕まっちまったら、もう戻れねぇんだ」



「戻れない……?」


「……湖には、人が消えちまう場所があるのさ」



彼の言葉が、妙に重く感じられた。



湖の水面は、異様な静けさをまとっていた。


先ほど漁師たちが語った「透明な魚」の話が頭から離れない。

しかし、僕は実際にそれをこの目で確かめなければならなかった。


この湖には、何かがいる。




気づくと僕は湖のほとりに立っていた。


風はほとんどなく、水面はまるでガラスのように滑らかだった。

それなのに、どこか不自然な気配を感じる。


何かいる。


漁師が生計を立てているのだ、魚やその類があるに決まっている。


だがそうではないーー


いままで幾度なく出会ってきた異様な雰囲気ーー


紛れもなく水面の底からそれは漂っていた。



僕はゆっくりと水際に膝をつき、湖面を覗き込んだ。


底は見えない。

水は透明であるはずなのに、何かが奥深くで蠢いている ような錯覚を覚える。



僕はそっと、水の中に手を入れた。



瞬間、異様な冷たさが指先にまとわりついた。


水温はそこまで低くないはずなのに、指先だけが氷のように冷たくなる。



「……何だ、これ」


指を引き抜こうとした、そのとき。


何かが、僕の手に絡みついた。


「……っ」


水の中で、目に見えない何かが動いた。


それはまるで、細い糸のような感触だった。

しかし、確実に「生きている」。



見えない魚が、僕の手に巻きついたのだ。



次の瞬間――


指先の皮膚が、ひび割れた。



異様な乾燥感が手のひらに広がっていく。

まるで、水分を吸い取られているような感覚。


僕は慌てて手を引いた。


すると、それは一瞬で離れた。



「……何なんだよ、これ」



手を見ると、指先の一部がカサカサに乾燥し、まるでミイラのように皮膚が縮んでいた。



しかし、しばらくすると、その乾燥はゆっくりと元に戻っていく。


まるで、

「こちらから奪わないのであればこちらも奪わない」

とでも言わんばかりに。



「……完全に捕まったら、終わり…」


漁師が言っていた言葉が脳裏をよぎる。


「完全に捕まっちまったら、もう戻れねぇんだ」

僕はその言葉の意味を身をもって体験してしまった。



もし、あの魚が腕全体に絡みついていたら……

もし、体ごと引き込まれていたら……


一体どうなってしまっていたのだろう。

考えたくもなかった。


今回はたまたま助かっただけーー


そう自分に言い聞かせながら

漁師と話した時から胸にひっかかっていた仮説は確信に変わっていった。


この湖には、「戻れなくなった者」がいる。


透明な魚に奪われてしまったものがいるーー


その思考が頭に浮かんだ瞬間、

僕はゾクリと背筋を冷たくした。

僕はポケットから、一枚の写真を取り出した。


それは、町に着いたときに撮った湖の写真だった。


「写真に入る」信じがたいが僕にはそんな奇妙な能力が備わっていた。


いつからかわからない。どういう経緯かも覚えていない。

普段は異形の類から一時的に身を守る為に使用する能力をーー


どんな代償を支払っているか現在進行形でわかっていない能力をーー


この頃の僕は「使い慣れていた」という安易な理由で好奇心を満たす為に使い出していた。


僕は写真をじっと見つめながら、深く息を吸った。


そして、目を閉じる。



次の瞬間、視界が歪み、世界が裏返った。




僕は、写真の中の湖に立っていた。




写真の中の湖は、まるで時間が止まったように静かだった。


僕は辺りを見回した。


何かが違う。

空気が違う。



湖の水面が、黒く染まっている。



現実の湖は透き通っていた。


しかし、写真の中の湖は、まるで墨を垂らしたように黒々としていた。



そして――


その水面に、無数の影のようなものが浮かんでいた。




影は、水面に浮かぶ影ではなかった。


湖の底に、沈んでいた。



影ーーー


何十、何百という影が、湖底に揺らめいていた。



僕は息を呑んだ。



「これが……透明な魚……?」



影は、ゆっくりと動いていた。


いや、違う。


影は「こちらを見ていた」。

こちらに気づいていながら静かに漂い蠢いている。



──そのときだった。



影のひとつが、ゆっくりと水面に向かって浮かび上がってきた。




僕は、息を詰まらせた。


湖の底に沈んでいた影が、こちらに近づいてくる。




近づくにつれ、それが何かがわかってきた。




それは、魚ではなかった。





それは、人だった。





影は、水面に向かって手を伸ばした。


──僕の手を、掴もうとするように。




「──戻る」



僕は、写真を握りしめた。



次の瞬間、世界が歪み、僕は写真の外へと弾き出された。



神社は町の外れにあった。


鳥居をくぐると、参道の両脇には石の河童像が立っていた。

しかし、それらはどれも苔むし、長い間手入れされていないことが分かる。


境内にはほとんど人の気配がなかった。

本殿の前で手を合わせたあと、社務所へ向かう。


扉を叩くと、中から神主が現れた。



「来られましたか」


まるで、僕がここへ来ることを予期していたかのような口ぶりだった。


「話を聞きたいのですが」


僕がそう言うと、神主は静かに頷いた。


「こちらへ」


僕は本殿の奥へと案内された。


そこには、丁寧なに手入れされているであろう古いガラスケースがあった。



そして、その中には――




干からびた小さな遺体が、横たわっていた。




「……これは…」


「この村で古くから祀られている“河童のミイラ”です」




僕は息を呑んだ。


ガラスケースの中には、黒ずんだ皮膚を持つ小さな人型の遺体があった。

手足は細く、骨ばっている。


頭の形はやや扁平で、口元は小さく縮こまっていた。



「これが……河童?」


神主は静かに頷く。


「この村で水神として崇められてきたものです」



しかし、僕はすぐに違和感を覚えた。


「……いや、これは……」




どう見ても、 人間にしか見えない。


小さい人間ーー

大人にしては小さくーー

子どもにしては長すぎる人間ーー



「…これは、本当に…河童なんでしょうか?」


神主は一瞬だけ目を細めた。


「あなたも、そう思われますか」


「……はい」


「もし、これが河童ではないとしたら……」


神主は奥から、さらに古い文献を取り出した。


そこには、こう書かれていた。



『河童は、水の守護者なり。

 湖に住まう「見えざる魚」を守り、

 人がそれに触れぬようにしている。』



「これは……」


「この町に残る最古の記録です」


神主はさらに文献をめくった。


そして、次の記述を指差した。



『河童は、人より生まれしもの。

 選ばれし者、湖に捧げられし者は、

 やがてその姿を変え、

 水神の使いとなる。』



「湖に……捧げられる?」


神主は静かに息をついた。


「おそらく、かつてこの村では、湖の守り手が必要だったのでしょう」


「…生け贄…」

町の意には反するであろう物騒な言葉が僕の口からこぼれ落ちた。



「つまり……これは、人が変化したもの…」

「その可能性はあります」



「では……透明な魚は……?」


神主は、湖の方を静かに見つめながら答えた。


「水に沈んだ者が……変わり果てたものなのか」

「それとも…」


そう話した神主の目は穏やかで優しい目をしていた。



僕は、ぞっとした。


「湖に沈んだ者が……魚になる…」


神主は曖昧に頷いた。


「水と一体化し、その姿を失う。

 しかし、意識だけは残っている。

 だからこそ、人の水分を奪い、己の形を維持しようとする……」




では、河童はーー




「河童は、透明な魚から人を守るために生まれたものだったのではないでしょうか。私はその様に理解しております。」


神主の話では

かつて、この村では 湖に生け贄を捧げていた。

生け贄は 「河童」となり、湖の守り手となる。

しかし、時が経ち、その伝承は忘れられてしまっていた。

河童は消え、湖には誰も近づかなくなった。



そして、透明な魚は――



「いまだに、人を取り込もうとしている」



僕は神社を後にした。


湖の水面は、ただ静かに揺れていた。


しかし、その奥では。


誰かが、こちらを見ている気がした。



僕はそっと写真を取り出し、それをじっと見つめた。



湖の写真。


その水面には――



今も、何かが蠢いている。




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