「祈る人形」(後半)
祈る人形の表面は、木の感触ではなかった。
指先で撫でると、微かにざらつきがあり、わずかに沈むような感覚がある。
まるで、生き物の皮膚をなぞっているような。
僕は、ゆっくりと人形を握り直した。
「……この人形は、一体何なんです?」
老婆は、長い沈黙の後に答えた。
「この人形は、神の手そのものです」
僕は、思わず息を止めた。
「神の手……?」
「はい。この人形が手にされ続ける限り、村は保たれる」
「神は、私たちに『形』を与えてくださるのです」
形を与える。
この言葉が、妙に引っかかった。
◇
「……ということは、この人形を失ったら?」
老婆は、微かに目を伏せた。
「村は、村ではなくなるでしょう」
◇
◇
僕は、村をもう一度歩いた。
相変わらず、誰の姿も見えない。
ただ、確かに誰かの気配はある。
何度か、家の中から視線を感じた。
だが、覗き込むと、そこには誰もいない。
村人たちは、まだここにいるのだろうか?
僕は、ふと考えた。
この村の住人は、今でも本当に「人間」なのだろうか。
すると、不意に背後で気配が動いた。
僕は反射的に振り向いた。
道の向こう。
立っていたのは、一人の男だった。
無表情で、じっとこちらを見ている。
「……すみません、この村の方ですか?」
僕が声をかけると、男はゆっくりと首を傾げた。
「……村?」
低く、掠れた声だった。
「あなたは、誰です?」
男は、しばらく僕を見つめていたが、やがて――
「……わからない」
その瞬間、全身の毛が逆立つような感覚が走った。
男の背後、家の軒先、道の角――
いつの間にか、何十人もの村人が僕を取り囲んでいた。
誰も何も言わず、ただ僕を見つめている。
目の焦点は定まらず、無表情。
全員が、ゆっくりと首を傾ける。
「あなたは……誰?」
口々にそう呟く声が、耳にまとわりつく。
足が動かない。
ここにいてはいけない。
僕は、ゆっくりと後ずさった。
◇
◇
神社に戻ると、老婆が立っていた。
「……見てしまいましたか」
僕は息を整えながら頷いた。
「……あれは、一体?」
「彼らはもう、人ではありません」
老婆は淡々と言った。
「神の手を失った村人は、『人の形』を維持できなくなったのです」
「彼らが見えている間は、まだ完全には崩れていないのでしょう。」
「でも、いずれ消えます」
僕は、祈る人形を見た。
◇
もし、もう一度これが手にされれば――
村は元に戻るのか?
だが、その時、老婆が静かに言った。
「……もう、戻れません」
「神は、一度離れた手を再び差し伸べることはないのです」
◇
◇
僕は、村を出ることにした。
祈る人形は、神社の奥に安置されたままだ。
あの村は、いずれ完全に消えるのだろう。
だが、僕は気になっていた。
それは、本当に「村が消える」ことなのだろうか?
もしかすると――
村はまだ、そこにある。
ただ、誰もそれを「村」と認識できなくなるだけで。
きっと今後も、何かの拍子に僕はこの村に来るのかもしれない。
でも、その時、僕はこの村を「村」として認識できるのだろうか?
◇
◇
車を走らせ、村を出る。
ミラーの中で、村の入り口が遠ざかる。
その時、背筋に悪寒が走った。
ミラーに、何かが映っている。
村の入り口の鳥居の下。
誰かが立っていた。
――老婆?
僕は、確かめようと車を停めかけた。
だが――
その瞬間、気づいた。
老婆ではない。
僕の背筋が凍りついた。
それは、僕だった。
鳥居の下に立っていたのは、紛れもなく僕自身だった。
ただ――
ミラーの中の「僕」は、ゆっくりと、微笑んだ。
完




