「祈る人形」(前編)
祈りとは、神に届くものなのだろうか。
もし神が人間を見ているとすれば、それはどんな目で見ているのか。
愛情か、無関心か、それとも――単なる気まぐれか。
この村には、願いを叶えるとされる神像があるという。
それは「祈る人形」と呼ばれ、代々村人に大切にされてきた。
だが、一つだけ奇妙な言い伝えがある。
◇
「この人形を決して地に落としてはならない」
◇
僕は、その話を聞いた時、何かひどく嫌な予感がした。
◇
◇
村に着いたのは、午後三時を過ぎた頃だった。
どこにでもある田舎の風景。
低い山々に囲まれた盆地で、木造の古い家が点在している。
だが、その空気には異様な静けさがあった。
人の気配がない。
畑には作物が植えられているし、洗濯物が干された家もある。
だが、村の入り口を歩き回っても、誰の姿も見えなかった。
「……これは、歓迎されていないということか?」
そんなことを考えていると、ぽつりと声がした。
「あなたが、取材の方ですか」
振り向くと、一人の老婆が立っていた。
白髪の細い体を包む黒い着物。
皺の深い顔には、どこか張り詰めた表情がある。
「ええ、一ノ瀬一二三といいます」
名乗ると、老婆はゆっくりと頷いた。
「……神社にいらしてください。あなたに見せるものがあります」
◇
◇
村の中心にある神社は、小さな拝殿と古びた社が並ぶだけの質素なものだった。
だが、その雰囲気には奇妙な圧がある。
僕は社殿の奥へと案内された。
薄暗い木造の部屋。
畳の上には、黒ずんだ木彫りの人形が置かれていた。
「祈る人形」
手を合わせた小さな童子の姿。
長年の摩耗で表情はかすれ、まるで人の祈りを吸い取ったかのような質感をしている。
「この人形を持つ者は、どんな願いも叶えられる」
老婆が静かに言う。
「……なら、どうしてこんなに傷んでいるんです?」
「それは――」
老婆は、一瞬ためらい、それから低い声で言った。
「この人形が、手から離れてしまったからです」
僕は眉をひそめた。
「手から……?」
老婆の語るところによれば、この村の人形は、決して手を離してはならないものだった。
代々、村の誰かがこれを持ち続け、その間、村には豊穣がもたらされていたという。
しかし――
「あるとき、この人形は地に落ちました」
それは、ほんの一瞬のことだったらしい。
持ち主が死んだ瞬間、次の者が引き継ぐまでの間。
そのわずか数秒の隙に、誰の手にも抱かれない時間が生まれた。
その瞬間、村は変わった。
神の手が離れた。
そして、村の人々は気づいたのだ。
――「この村が、神の加護なしでは生きられない場所だった」 ということに。
「神の手が離れた日から、村は少しずつ変わり始めました」
◇
老婆はそう言うと、細く息を吐いた。
神社の奥の薄暗い部屋。
畳の上に置かれた「祈る人形」は、まるで僕たちの話を聞いているかのように静かに佇んでいた。
「……具体的に何が起こったんです?」
僕が尋ねると、老婆はしばし言葉を選ぶように黙り込んだ。
そして、ゆっくりと語り始めた。
「最初は、小さな違和感でした」
村人たちの間で、些細な不幸が相次いだという。
農作物の枯死、家畜の病死、突然の事故。
だが、それらは「偶然の範囲」だった。
誰もが 『神の加護がないと、こういうこともあるだろう』 と考えた。
しかし、次第に違和感は大きくなっていった。
「村人の間で、妙なことが起こり始めたんです」
村人たちが、互いの顔を忘れていく。
それは、たった一人の物忘れから始まった。
ある老人が、隣人の名前を思い出せなくなった。
次に、夫が妻を見て「お前は誰だ」と言った。
そして、次第に村人たちは互いを 「知らない人間」として認識するようになった。
◇
「……記憶が失われる、ということですか?」
「いいえ、そうではありません」
老婆は首を振る。
「記憶はあるんです。ただ、その記憶が『この村の人間ではない誰か』のものに置き換わる」
例えば、母親が娘を見て「あなたは誰?」と言う。
だが、その母親の記憶の中には、確かに「娘の存在」は残っている。
ただ、それが目の前の少女と一致しない。
「目の前の人間と、記憶の中の人間がズレていく」
そうして、村の中には次第に 「誰もいないはずの家」 が増えていった。
人々は、互いを認識できなくなり、いつの間にか姿を消していった。
「最初は、誰かが村を出ていったのだろうと思いました」
老婆は苦笑する。
「ですが、ある日気づいたんです。……村を出た人間が、一人もいないことに」
つまり、村人たちは消えたわけではなかった。
ただ、誰もが互いを『村の人間』だと認識できなくなった。
「まるで、この村の『住人』という概念が、少しずつ消えていくようでした」
◇
◇
村の中を歩いた。
◇
老婆の話を聞いた後、僕は実際に村を見て回ることにした。
道は整備され、民家はきちんと手入れされている。
それなのに、違和感がある。
◇
人がいないのに、人の気配だけがある。
◇
洗濯物が干された家。
煮炊きの匂いが漂う台所。
なのに、誰もいない。
――いや、本当にそうか?
ある家の前を通った時、ふと視線を感じた。
窓の奥。
誰かが、こちらを見ている。
……気のせいか?
僕は、静かに近づいた。
窓越しに見えたのは、一人の少年だった。
10歳くらいだろうか。
だが、その表情には奇妙な無機質さがあった。
「君、ここに住んでるのか?」
少年は、しばらく僕を見つめていた。
そして、ゆっくりと首を傾げた。
「……わからない」
僕は思わず言葉を失った。
「君の名前は?」
「……わからない」
「両親は?」
「わからない」
だが、少年はしばらく沈黙した後、こう言った。
「でも、ここにいることは間違いないと思う」
少年はそう言うと、静かに窓の奥へと消えた。
僕は、ぞくりとした感覚を覚えた。
◇
◇
神社に戻ると、老婆が静かに言った。
◇
「……ご覧になりましたね」
僕は頷いた。
「村の人間は、まだこの村にいるんです」
「でも、彼らは『村の住人ではない』」
僕は、ふと視線を落とした。
祈る人形。
この人形は、神の加護をもたらしていた。
だが、手から離れた瞬間に、村の概念は崩れ始めた。
「この村は、もう村ではなくなってしまった」
僕は、祈る人形をそっと手に取った。
すると、指先に妙な感触が伝わる。
木製のはずの表面が、どこか生き物の肌のように微かに脈打っていた。
《続く》




