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「祈る人形」(前編)


 祈りとは、神に届くものなのだろうか。


 もし神が人間を見ているとすれば、それはどんな目で見ているのか。

 愛情か、無関心か、それとも――単なる気まぐれか。


 この村には、願いを叶えるとされる神像があるという。

 それは「祈る人形」と呼ばれ、代々村人に大切にされてきた。


 だが、一つだけ奇妙な言い伝えがある。



 「この人形を決して地に落としてはならない」



 僕は、その話を聞いた時、何かひどく嫌な予感がした。




 村に着いたのは、午後三時を過ぎた頃だった。


 どこにでもある田舎の風景。

 低い山々に囲まれた盆地で、木造の古い家が点在している。

 だが、その空気には異様な静けさがあった。


 人の気配がない。


 畑には作物が植えられているし、洗濯物が干された家もある。

 だが、村の入り口を歩き回っても、誰の姿も見えなかった。



 「……これは、歓迎されていないということか?」




 そんなことを考えていると、ぽつりと声がした。



 「あなたが、取材の方ですか」


 振り向くと、一人の老婆が立っていた。


 白髪の細い体を包む黒い着物。

 皺の深い顔には、どこか張り詰めた表情がある。


 「ええ、一ノ瀬一二三といいます」


 名乗ると、老婆はゆっくりと頷いた。


 「……神社にいらしてください。あなたに見せるものがあります」




 村の中心にある神社は、小さな拝殿と古びた社が並ぶだけの質素なものだった。

 だが、その雰囲気には奇妙な圧がある。


 僕は社殿の奥へと案内された。


 薄暗い木造の部屋。

 畳の上には、黒ずんだ木彫りの人形が置かれていた。




 「祈る人形」




 手を合わせた小さな童子の姿。

 長年の摩耗で表情はかすれ、まるで人の祈りを吸い取ったかのような質感をしている。




 「この人形を持つ者は、どんな願いも叶えられる」




 老婆が静かに言う。


 「……なら、どうしてこんなに傷んでいるんです?」


 「それは――」




 老婆は、一瞬ためらい、それから低い声で言った。




 「この人形が、手から離れてしまったからです」



 僕は眉をひそめた。



 「手から……?」



 老婆の語るところによれば、この村の人形は、決して手を離してはならないものだった。

 代々、村の誰かがこれを持ち続け、その間、村には豊穣がもたらされていたという。


 しかし――




 「あるとき、この人形は地に落ちました」




 それは、ほんの一瞬のことだったらしい。


 持ち主が死んだ瞬間、次の者が引き継ぐまでの間。

 そのわずか数秒の隙に、誰の手にも抱かれない時間が生まれた。



 その瞬間、村は変わった。



 神の手が離れた。



 そして、村の人々は気づいたのだ。


 ――「この村が、神の加護なしでは生きられない場所だった」 ということに。


 「神の手が離れた日から、村は少しずつ変わり始めました」



 老婆はそう言うと、細く息を吐いた。


 神社の奥の薄暗い部屋。

 畳の上に置かれた「祈る人形」は、まるで僕たちの話を聞いているかのように静かに佇んでいた。



 「……具体的に何が起こったんです?」




 僕が尋ねると、老婆はしばし言葉を選ぶように黙り込んだ。

 そして、ゆっくりと語り始めた。




 「最初は、小さな違和感でした」


 村人たちの間で、些細な不幸が相次いだという。

 農作物の枯死、家畜の病死、突然の事故。


 だが、それらは「偶然の範囲」だった。

 誰もが 『神の加護がないと、こういうこともあるだろう』 と考えた。



 しかし、次第に違和感は大きくなっていった。


 「村人の間で、妙なことが起こり始めたんです」




 村人たちが、互いの顔を忘れていく。




 それは、たった一人の物忘れから始まった。


 ある老人が、隣人の名前を思い出せなくなった。

 次に、夫が妻を見て「お前は誰だ」と言った。

 そして、次第に村人たちは互いを 「知らない人間」として認識するようになった。



 「……記憶が失われる、ということですか?」




 「いいえ、そうではありません」




 老婆は首を振る。


 「記憶はあるんです。ただ、その記憶が『この村の人間ではない誰か』のものに置き換わる」




 例えば、母親が娘を見て「あなたは誰?」と言う。

 だが、その母親の記憶の中には、確かに「娘の存在」は残っている。

 ただ、それが目の前の少女と一致しない。




 「目の前の人間と、記憶の中の人間がズレていく」




 そうして、村の中には次第に 「誰もいないはずの家」 が増えていった。

 人々は、互いを認識できなくなり、いつの間にか姿を消していった。




 「最初は、誰かが村を出ていったのだろうと思いました」


 老婆は苦笑する。


 「ですが、ある日気づいたんです。……村を出た人間が、一人もいないことに」



 つまり、村人たちは消えたわけではなかった。

 ただ、誰もが互いを『村の人間』だと認識できなくなった。



 「まるで、この村の『住人』という概念が、少しずつ消えていくようでした」




 村の中を歩いた。



 老婆の話を聞いた後、僕は実際に村を見て回ることにした。


 道は整備され、民家はきちんと手入れされている。

 それなのに、違和感がある。



 人がいないのに、人の気配だけがある。



 洗濯物が干された家。

 煮炊きの匂いが漂う台所。


 なのに、誰もいない。




 ――いや、本当にそうか?




 ある家の前を通った時、ふと視線を感じた。



 窓の奥。




 誰かが、こちらを見ている。




 ……気のせいか?


 僕は、静かに近づいた。




 窓越しに見えたのは、一人の少年だった。


 10歳くらいだろうか。

 だが、その表情には奇妙な無機質さがあった。


 「君、ここに住んでるのか?」



 少年は、しばらく僕を見つめていた。

 そして、ゆっくりと首を傾げた。




 「……わからない」




 僕は思わず言葉を失った。



 「君の名前は?」


 「……わからない」


 「両親は?」


 「わからない」


 だが、少年はしばらく沈黙した後、こう言った。




 「でも、ここにいることは間違いないと思う」


 少年はそう言うと、静かに窓の奥へと消えた。


 僕は、ぞくりとした感覚を覚えた。




 神社に戻ると、老婆が静かに言った。



 「……ご覧になりましたね」



 僕は頷いた。



 「村の人間は、まだこの村にいるんです」


 「でも、彼らは『村の住人ではない』」


 僕は、ふと視線を落とした。


 祈る人形。


 この人形は、神の加護をもたらしていた。

 だが、手から離れた瞬間に、村の概念は崩れ始めた。


 「この村は、もう村ではなくなってしまった」



 僕は、祈る人形をそっと手に取った。



 すると、指先に妙な感触が伝わる。



 木製のはずの表面が、どこか生き物の肌のように微かに脈打っていた。



《続く》

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