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「影のない女」

 夜の街は、静かだった。

 とはいえ、完全な無音というわけではない。

 車のエンジン音、遠くの繁華街のざわめき、ビルの隙間をすり抜ける風の音。

 それでも、この道を歩くときだけは、妙に世界が遠のいたように感じる。


 僕はコンビニの明かりの下で足を止め、スマホを取り出した。

 ライターという仕事柄、ニュースのチェックは習慣になっている。

 特に、怪談めいた事件や都市伝説のような話には、自然と目が向く。


 軽く画面をスクロールしながら、ふと視線を上げた。

 道の向こう側から、一人の女性が歩いてくる。


 黒いコートに長い髪。

 顔はよく見えないが、細身のシルエットと歩調の軽やかさから若い女性だとわかる。


 すれ違いざま、なんとなく視線を向けた。

 その瞬間、違和感が背筋を這い上がる。


 ――影が、なかった。


 街灯の下を歩いているのに、地面に映るべき影がない。

 ありえない。


 僕は振り返った。

 彼女は、そのまま何事もなく歩き去っていった。

 だが、どう見ても影がなかった。


「……まあ、そんなこともあるか」


 ありえないことではない。

 光の当たり具合や角度によって、影が見えにくくなることはある。

 理屈ではそうだ。


 だが、僕の中の何かが「違う」と告げていた。



 翌日、ニュースをチェックしていると、見覚えのある顔が目に入った。


『行方不明の女性を捜索中』


 昨夜すれ違った、影のなかったあの女だった。


 記事によれば、彼女は数日前に突然姿を消したという。

 家族も友人も、彼女の消息を知らない。


 「影がない人間が突然消えた」

 それだけでは記事にするには弱いが、興味を引くには十分だった。


 僕は、その足で彼女の家を訪ねることにした。



 住宅街の一角にある彼女の家は、ごく普通の一軒家だった。

 インターホンを押すと、応対したのは母親らしき女性だった。


「すみません、ライターの一ノ瀬といいます。お嬢さんの件で少しお話を伺えればと思いまして」


 母親は不安そうな顔で頷いた。


「……あの子、本当にどこに行ったのか……警察も手がかりがないって……」


「失踪されたのは、何か前兆があったのでしょうか?」


「いいえ、特には……でも、最近、ちょっと様子が変だったんです」


「様子?」


「……影が、薄くなっていたような気がして」


 僕は少し息を呑んだ。


「影が……?」


「ええ、なんだか……まるで透けているみたいに」


 それは見間違いではないのか――と聞きかけて、やめた。

 昨日、僕自身が確かに見たのだ。影のない彼女の姿を。


 さらに話を聞くと、彼女は最近、写真を撮られるのを極端に嫌がっていたらしい。

 まるで自分の姿が写真に映ることを恐れているように。


 僕は母親に礼を言い、その家を後にした。



 その夜、調査を進めていると、彼女と同じように「影が薄くなっていた」と証言される人間が何人もいたことがわかった。

 そして、彼らに共通していたのは――


 全員、ある日突然消えたということだった。


 彼らの記録を辿ると、ほぼ例外なく「最近影が薄かった」という証言が出てくる。

 だが、彼らが消えたあと、家族や友人は徐々に彼らの存在を忘れていく。


 まるで初めから「いなかった」かのように。


 もし、これが「何か」による法則的な現象だとしたら。

 次に消えるのは――?



 深夜。


 デスクに広げた資料を見ながら、ふと背後に気配を感じた。


 視線を向けると、窓の外。

 闇の中に、黒いコートの女が立っていた。


 僕は息を呑む。


 彼女だ。


 影のなかった、あの女。


 静かにこちらを見つめ、ほんのわずかに口元を動かした。


 「……あなたも、そっちに行くの?」


 言葉の意味を考える間もなく、彼女の姿がふっと消える。


 夜風だけが、カーテンを揺らしていた。



 翌朝。


 僕は洗面所で顔を洗い、ふと鏡を見た。


 何かが、違う。


 ――影が、薄い。


 昨日までの僕の影は、確かにもっと濃かった。

 けれど、今は……光に溶けるように、薄く霞んでいる。


 気のせいかもしれない。

 ただの光の加減かもしれない。


「……これは、光の加減だろうな」


 そう呟きながら、僕は鏡から目を逸らした。


 だが、その違和感が消えることはなかった。




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