「影のない女」
夜の街は、静かだった。
とはいえ、完全な無音というわけではない。
車のエンジン音、遠くの繁華街のざわめき、ビルの隙間をすり抜ける風の音。
それでも、この道を歩くときだけは、妙に世界が遠のいたように感じる。
僕はコンビニの明かりの下で足を止め、スマホを取り出した。
ライターという仕事柄、ニュースのチェックは習慣になっている。
特に、怪談めいた事件や都市伝説のような話には、自然と目が向く。
軽く画面をスクロールしながら、ふと視線を上げた。
道の向こう側から、一人の女性が歩いてくる。
黒いコートに長い髪。
顔はよく見えないが、細身のシルエットと歩調の軽やかさから若い女性だとわかる。
すれ違いざま、なんとなく視線を向けた。
その瞬間、違和感が背筋を這い上がる。
――影が、なかった。
街灯の下を歩いているのに、地面に映るべき影がない。
ありえない。
僕は振り返った。
彼女は、そのまま何事もなく歩き去っていった。
だが、どう見ても影がなかった。
「……まあ、そんなこともあるか」
ありえないことではない。
光の当たり具合や角度によって、影が見えにくくなることはある。
理屈ではそうだ。
だが、僕の中の何かが「違う」と告げていた。
◇
翌日、ニュースをチェックしていると、見覚えのある顔が目に入った。
『行方不明の女性を捜索中』
昨夜すれ違った、影のなかったあの女だった。
記事によれば、彼女は数日前に突然姿を消したという。
家族も友人も、彼女の消息を知らない。
「影がない人間が突然消えた」
それだけでは記事にするには弱いが、興味を引くには十分だった。
僕は、その足で彼女の家を訪ねることにした。
◇
住宅街の一角にある彼女の家は、ごく普通の一軒家だった。
インターホンを押すと、応対したのは母親らしき女性だった。
「すみません、ライターの一ノ瀬といいます。お嬢さんの件で少しお話を伺えればと思いまして」
母親は不安そうな顔で頷いた。
「……あの子、本当にどこに行ったのか……警察も手がかりがないって……」
「失踪されたのは、何か前兆があったのでしょうか?」
「いいえ、特には……でも、最近、ちょっと様子が変だったんです」
「様子?」
「……影が、薄くなっていたような気がして」
僕は少し息を呑んだ。
「影が……?」
「ええ、なんだか……まるで透けているみたいに」
それは見間違いではないのか――と聞きかけて、やめた。
昨日、僕自身が確かに見たのだ。影のない彼女の姿を。
さらに話を聞くと、彼女は最近、写真を撮られるのを極端に嫌がっていたらしい。
まるで自分の姿が写真に映ることを恐れているように。
僕は母親に礼を言い、その家を後にした。
◇
その夜、調査を進めていると、彼女と同じように「影が薄くなっていた」と証言される人間が何人もいたことがわかった。
そして、彼らに共通していたのは――
全員、ある日突然消えたということだった。
彼らの記録を辿ると、ほぼ例外なく「最近影が薄かった」という証言が出てくる。
だが、彼らが消えたあと、家族や友人は徐々に彼らの存在を忘れていく。
まるで初めから「いなかった」かのように。
もし、これが「何か」による法則的な現象だとしたら。
次に消えるのは――?
◇
深夜。
デスクに広げた資料を見ながら、ふと背後に気配を感じた。
視線を向けると、窓の外。
闇の中に、黒いコートの女が立っていた。
僕は息を呑む。
彼女だ。
影のなかった、あの女。
静かにこちらを見つめ、ほんのわずかに口元を動かした。
「……あなたも、そっちに行くの?」
言葉の意味を考える間もなく、彼女の姿がふっと消える。
夜風だけが、カーテンを揺らしていた。
◇
翌朝。
僕は洗面所で顔を洗い、ふと鏡を見た。
何かが、違う。
――影が、薄い。
昨日までの僕の影は、確かにもっと濃かった。
けれど、今は……光に溶けるように、薄く霞んでいる。
気のせいかもしれない。
ただの光の加減かもしれない。
「……これは、光の加減だろうな」
そう呟きながら、僕は鏡から目を逸らした。
だが、その違和感が消えることはなかった。
完




