「夢を買う店」
「あなたは、夢を売ったことがありますか?」
男は、かすれた声でそう言った。
◇
取材で訪れた喫茶店。
店内は夕方の柔らかなオレンジ色の光に包まれている。
壁には古びたジャズのレコードが飾られ、スピーカーからは静かにサックスの音が流れていた。
目の前に座るのは、佐倉俊哉 という三十代半ばの男だった。
彼はフリーのイラストレーターをしているらしいが、最近仕事が減ってきて、アルバイトを転々としているという。
細身で神経質そうな顔立ちをしており、落ち着きなく指先でカップをなぞっている。
◇
「夢を売る?」
僕は、カップを持ち上げ、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
深い苦味が舌に広がる。
「どういう意味です?」
◇
佐倉は、指先で無意識にスプーンをいじりながら、小さく息をついた。
「そのままの意味ですよ」
◇
彼の話によれば、数ヶ月前、夢を売ることができる店 に行ったという。
「冗談みたいな話だってわかってるんです。でも、本当にあるんです、その店は」
◇
「その店はね、夜しか開かないんです」
◇
佐倉がその店を知ったのは、あるバーでの会話だった。
彼は仕事帰りに馴染みの小さなカウンターバーへ寄り、いつものようにウイスキーを飲んでいた。
その隣に座った客が、妙なことを言った。
「最近、夢が減ってきた気がする」
佐倉は、聞き間違いかと思った。
だが、男は真剣な顔でグラスを揺らしていた。
◇
「昔はもっと違う夢を見てたのに、最近は同じ夢ばかり見る。まるで、夢の在庫が尽きたみたいにな」
◇
「……それがどうかしたんですか?」
◇
男は、少し間を置いてから言った。
◇
「お前、知らないのか? 夢を買う店があるんだよ」
◇
佐倉は、最初は冗談だと思った。
だが、男は店の場所を妙に具体的に教えてきた。
◇
「もし興味があるなら行ってみな。お前の夢、いくらで売れるか見てこいよ」
◇
◇
佐倉がその店に行ったのは、それから数日後のことだった。
◇
場所は、都内某所の裏通り。
住所を頼りに歩いてみたが、それらしき店は見当たらなかった。
ただの住宅街。
人通りもまばらで、シャッターの閉まった店が目立つ。
しかし、深夜2時ごろ、その道を再び通ったとき――
◇
店は、そこにあった。
◇
古びたレンガ造りの建物。
扉には、錆びついた真鍮のプレートが掛かっている。
そこには、こう刻まれていた。
◇
「眠れる市場」
◇
佐倉は、不思議と怖くはなかったという。
扉を押すと、静かに開いた。
◇
◇
中に入ると、まるで古い図書館のような店だった。
◇
棚には、無数の小瓶が並んでいる。
中には何か液体が入っているものもあれば、淡く光る粉が詰められているものもある。
◇
店の奥には、一人の老人がいた。
◇
「いらっしゃいませ」
◇
店主は、品のある白髪の男だった。
顔立ちは穏やかだが、その眼差しにはどこか底知れぬ奥行きがあった。
◇
「夢を、お売りに?」
佐倉は、状況が呑み込めなかった。
「夢を売るとは、どういう意味です?」
◇
老人は静かに言った。
◇
「そのままの意味ですよ。あなたが見た夢を、こちらに譲っていただけるなら、対価をお支払いします」
◇
「……それは、つまり」
◇
「あなたの記憶の中から、その夢を完全に取り除くということです」
◇
◇
「俺は、試しに売ってみたんです」
◇
佐倉は、コーヒーを冷めたままのカップの縁を指でなぞった。
◇
「店主は、俺に夢の内容を聞いてきました。具体的に、どんな夢だったのか、とね」
◇
佐倉が売ったのは、子供の頃から何度も見ていた夢 だった。
◇
「俺は、知らない町の橋を渡って、どこかへ向かう夢を見ていました。子供の頃からずっと同じ夢で、橋の向こうには何かがある。でも、いつもそこで目が覚めるんです」
「なるほど、それは素晴らしい」
店主は言い、棚から 小さなガラス瓶 を取り出した。
「では、その夢をこちらに」
そして、店主は何かの手順を踏んだ。
◇
不思議なことに、佐倉はその方法を思い出せない。
◇
気がついたとき、彼はその夢を思い出せなくなっていた。
◇
「橋の夢を、完全に忘れたんです」
◇
◇
「それで、いくらで売れたんです?」
僕は尋ねた。
「十万円でした」
佐倉は、乾いた笑いを浮かべた。
「子供の頃から見続けてきた夢が、たった十万円ですよ。でも、不思議と後悔はしませんでした」
「むしろ、スッキリした気がしたんです」
◇
◇
だが、それから佐倉は おかしなことに気づいた。
◇
「俺、最近……夢を見なくなったんですよ」
◇
彼は、スマホを取り出し、手帳アプリを見せた。
そこには、彼が見た夢を記録するメモが残っていた。
◇
だが、数ヶ月前を境に、記録が途切れている。
◇
「それだけじゃない。周りの奴らが、俺の話をよく忘れるんです」
◇
佐倉は、苦笑いしながら言った。
◇
「俺のことを知っている人間が、少しずつ減ってる気がするんですよね」
◇
冗談か、本気かわからない口調だった。
◇
だが、彼は最後にこう言った。
◇
「――もしかしたら、俺自身が『誰かの夢』だったのかもしれません」
僕は、佐倉の言葉を反芻した。
「もしかしたら、俺自身が『誰かの夢』だったのかもしれません」
それは、突飛な発想に聞こえたが、佐倉の表情は冗談を言っているものではなかった。
彼の目はどこか虚ろで、それでも何かを訴えるように僕を見つめていた。
◇
「……それ、何か確証があるんですか?」
◇
佐倉は少し考え込み、スマホを操作しながら言った。
「最近、昔の知り合いに連絡してみたんです。学生時代の友人とか、前に働いてた会社の同僚とか。でも、誰も俺のことを覚えていなかった」
彼はスマホを見せた。
そこには、何通もの未読のままのメッセージ履歴が残っていた。
◇
「俺のアプリには、確かに連絡先が残ってるんですよ。でも、向こうには俺の記憶がないらしい。まるで俺が、最初からいなかったみたいに」
◇
僕は、彼の話を整理しようとした。
夢を売ったことで、夢を見ることができなくなった。
それだけなら、奇妙な出来事で片付けられる。
だが、それに加えて、彼自身が人々の記憶から消えている。
「……それ、思い込みじゃないんですか?」
そう言いかけたが、佐倉の表情を見て、言葉を飲み込んだ。
彼の目は、明らかに恐怖を宿していた。
◇
「いや、思い込みならいいんです。でも……」
◇
佐倉は、ポケットから小さな紙切れを取り出した。
◇
それは、一枚のレシートだった。
日付は、二ヶ月前。
そして、店名の欄には、こう記されていた。
◇
「眠れる市場」
僕は、それを受け取り、指でなぞった。
「……この店、もう一度行ってみようとは?」
◇
佐倉は、首を横に振った。
「行こうとしたんですよ。でも、どこにあったのか、もう思い出せないんです。それにそこに書いてある住所…」
「存在しないんですよ。」
僕は、レシートを眺めながら、言葉を探した。
もし、彼の言うことが本当なら、どうなる?
◇
「……あなたは、今でも佐倉俊哉ですよね?」
佐倉は、苦笑いした。
◇
「そうであってほしいですよね」
◇
彼の笑顔は、ひどく儚く見えた。
◇
◇
その後、僕は彼と別れ、帰宅した。
だが、奇妙なことがあった。
◇
数日後、もう一度佐倉に連絡を取ろうと、彼の番号を探した。
しかし――
◇
僕のスマホには、彼の連絡先が残っていなかった。
チャットアプリの履歴も、着信記録も消えている。
まるで、最初から彼と会ったことすらなかったかのように。
◇
僕は、思わずカメラロールを開いた。
だが、そこにも彼の姿はどこにもなかった。
僕は、何かに気づくべきだったのかもしれない。
それでも、考えたくなかった。
◇
だって――
僕自身も、最近、夢を見ていない。
◇
完




