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「夢を買う店」

「あなたは、夢を売ったことがありますか?」


 男は、かすれた声でそう言った。



 取材で訪れた喫茶店。

 店内は夕方の柔らかなオレンジ色の光に包まれている。

 壁には古びたジャズのレコードが飾られ、スピーカーからは静かにサックスの音が流れていた。


 目の前に座るのは、佐倉俊哉さくら・しゅんや という三十代半ばの男だった。


 彼はフリーのイラストレーターをしているらしいが、最近仕事が減ってきて、アルバイトを転々としているという。

 細身で神経質そうな顔立ちをしており、落ち着きなく指先でカップをなぞっている。



 「夢を売る?」


 僕は、カップを持ち上げ、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。

 深い苦味が舌に広がる。


 「どういう意味です?」



 佐倉は、指先で無意識にスプーンをいじりながら、小さく息をついた。


 「そのままの意味ですよ」



 彼の話によれば、数ヶ月前、夢を売ることができる店 に行ったという。


 「冗談みたいな話だってわかってるんです。でも、本当にあるんです、その店は」




「その店はね、夜しか開かないんです」



 佐倉がその店を知ったのは、あるバーでの会話だった。

 彼は仕事帰りに馴染みの小さなカウンターバーへ寄り、いつものようにウイスキーを飲んでいた。


 その隣に座った客が、妙なことを言った。



「最近、夢が減ってきた気がする」



 佐倉は、聞き間違いかと思った。

 だが、男は真剣な顔でグラスを揺らしていた。



「昔はもっと違う夢を見てたのに、最近は同じ夢ばかり見る。まるで、夢の在庫が尽きたみたいにな」



「……それがどうかしたんですか?」



 男は、少し間を置いてから言った。



「お前、知らないのか? 夢を買う店があるんだよ」



 佐倉は、最初は冗談だと思った。


 だが、男は店の場所を妙に具体的に教えてきた。



「もし興味があるなら行ってみな。お前の夢、いくらで売れるか見てこいよ」




 佐倉がその店に行ったのは、それから数日後のことだった。



 場所は、都内某所の裏通り。

 住所を頼りに歩いてみたが、それらしき店は見当たらなかった。


 ただの住宅街。

 人通りもまばらで、シャッターの閉まった店が目立つ。


 しかし、深夜2時ごろ、その道を再び通ったとき――



 店は、そこにあった。



 古びたレンガ造りの建物。

 扉には、錆びついた真鍮のプレートが掛かっている。


 そこには、こう刻まれていた。



「眠れる市場」



 佐倉は、不思議と怖くはなかったという。


 扉を押すと、静かに開いた。




 中に入ると、まるで古い図書館のような店だった。



 棚には、無数の小瓶が並んでいる。

 中には何か液体が入っているものもあれば、淡く光る粉が詰められているものもある。



 店の奥には、一人の老人がいた。



「いらっしゃいませ」



 店主は、品のある白髪の男だった。

 顔立ちは穏やかだが、その眼差しにはどこか底知れぬ奥行きがあった。



「夢を、お売りに?」


 佐倉は、状況が呑み込めなかった。


「夢を売るとは、どういう意味です?」



 老人は静かに言った。


「そのままの意味ですよ。あなたが見た夢を、こちらに譲っていただけるなら、対価をお支払いします」



「……それは、つまり」



「あなたの記憶の中から、その夢を完全に取り除くということです」




「俺は、試しに売ってみたんです」



 佐倉は、コーヒーを冷めたままのカップの縁を指でなぞった。



「店主は、俺に夢の内容を聞いてきました。具体的に、どんな夢だったのか、とね」



 佐倉が売ったのは、子供の頃から何度も見ていた夢 だった。



 「俺は、知らない町の橋を渡って、どこかへ向かう夢を見ていました。子供の頃からずっと同じ夢で、橋の向こうには何かがある。でも、いつもそこで目が覚めるんです」


「なるほど、それは素晴らしい」


 店主は言い、棚から 小さなガラス瓶 を取り出した。


「では、その夢をこちらに」



 そして、店主は何かの手順を踏んだ。



 不思議なことに、佐倉はその方法を思い出せない。



 気がついたとき、彼はその夢を思い出せなくなっていた。



 「橋の夢を、完全に忘れたんです」




「それで、いくらで売れたんです?」



 僕は尋ねた。



「十万円でした」




 佐倉は、乾いた笑いを浮かべた。


「子供の頃から見続けてきた夢が、たった十万円ですよ。でも、不思議と後悔はしませんでした」




 「むしろ、スッキリした気がしたんです」




 だが、それから佐倉は おかしなことに気づいた。



「俺、最近……夢を見なくなったんですよ」



 彼は、スマホを取り出し、手帳アプリを見せた。

 そこには、彼が見た夢を記録するメモが残っていた。



 だが、数ヶ月前を境に、記録が途切れている。



「それだけじゃない。周りの奴らが、俺の話をよく忘れるんです」



 佐倉は、苦笑いしながら言った。



「俺のことを知っている人間が、少しずつ減ってる気がするんですよね」



 冗談か、本気かわからない口調だった。



 だが、彼は最後にこう言った。



「――もしかしたら、俺自身が『誰かの夢』だったのかもしれません」




 僕は、佐倉の言葉を反芻した。


 「もしかしたら、俺自身が『誰かの夢』だったのかもしれません」


 それは、突飛な発想に聞こえたが、佐倉の表情は冗談を言っているものではなかった。

 彼の目はどこか虚ろで、それでも何かを訴えるように僕を見つめていた。



「……それ、何か確証があるんですか?」



 佐倉は少し考え込み、スマホを操作しながら言った。




「最近、昔の知り合いに連絡してみたんです。学生時代の友人とか、前に働いてた会社の同僚とか。でも、誰も俺のことを覚えていなかった」




 彼はスマホを見せた。

 そこには、何通もの未読のままのメッセージ履歴が残っていた。



「俺のアプリには、確かに連絡先が残ってるんですよ。でも、向こうには俺の記憶がないらしい。まるで俺が、最初からいなかったみたいに」



 僕は、彼の話を整理しようとした。


 夢を売ったことで、夢を見ることができなくなった。

 それだけなら、奇妙な出来事で片付けられる。


 だが、それに加えて、彼自身が人々の記憶から消えている。


「……それ、思い込みじゃないんですか?」



 そう言いかけたが、佐倉の表情を見て、言葉を飲み込んだ。

 彼の目は、明らかに恐怖を宿していた。



「いや、思い込みならいいんです。でも……」



 佐倉は、ポケットから小さな紙切れを取り出した。



 それは、一枚のレシートだった。


 日付は、二ヶ月前。

 そして、店名の欄には、こう記されていた。



「眠れる市場」




 僕は、それを受け取り、指でなぞった。


 「……この店、もう一度行ってみようとは?」



 佐倉は、首を横に振った。



「行こうとしたんですよ。でも、どこにあったのか、もう思い出せないんです。それにそこに書いてある住所…」


「存在しないんですよ。」


 僕は、レシートを眺めながら、言葉を探した。


 もし、彼の言うことが本当なら、どうなる?



「……あなたは、今でも佐倉俊哉ですよね?」



 佐倉は、苦笑いした。



「そうであってほしいですよね」



 彼の笑顔は、ひどく儚く見えた。




 その後、僕は彼と別れ、帰宅した。



 だが、奇妙なことがあった。



 数日後、もう一度佐倉に連絡を取ろうと、彼の番号を探した。

 しかし――



 僕のスマホには、彼の連絡先が残っていなかった。


 チャットアプリの履歴も、着信記録も消えている。


 まるで、最初から彼と会ったことすらなかったかのように。



 僕は、思わずカメラロールを開いた。


 だが、そこにも彼の姿はどこにもなかった。


 僕は、何かに気づくべきだったのかもしれない。



 それでも、考えたくなかった。



 だって――


 僕自身も、最近、夢を見ていない。




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