「渡してはいけない荷物」
人間は時々、「何も考えずに受け取ってしまう」ことがある。
例えば、駅で誰かに「これを持っていてくれ」と頼まれたら、つい受け取ってしまうかもしれない。
宅配便の荷物を、差出人を確認せずに受け取ることもあるだろう。
しかし――もし、それが「受け取ってはいけないもの」だったとしたら?
◇
その話を聞いたのは、ある夜のバーだった。
取材帰りに立ち寄った静かな店で、隣に座った男がぼそりと呟いた。
「……俺、たぶん、もうすぐ消えると思う」
◇
思わず男の顔を見た。
年の頃は三十代後半。
疲れ切った表情をしており、目の下には深いクマが刻まれていた。
◇
「消える、ってどういうことです?」
僕が尋ねると、男は笑った。
「いや、変な話だと思うだろうけどさ。俺、変な荷物を預かっちまったんだ」
◇
荷物?
◇
男は、四日前の出来事を話し始めた。
◇
その日、彼は仕事の帰りに、駅の構内で見知らぬ男に呼び止められたという。
「あの……すみません。ちょっと、これ、持っててくれませんか?」
そう言って差し出されたのは、小さな黒い箱だった。
◇
男は咄嗟に受け取った。
受け取ってから「何で俺が?」と思ったが、気づいた時には、もう渡した男の姿はどこにもなかった。
◇
「変な話だろ? でも、もっと変なのはさ……」
男は酒を一口飲み、低く言った。
「……俺、気づいたら、何度も『それ』を誰かに渡そうとしてるんだよ」
◇
それを聞いて、僕はぞわりとした。
◇
「渡そうとしてる?」
「……無意識に、な」
◇
男は、ポケットから小さな黒い箱を取り出してみせた。
それは、何の変哲もない、ただの四角い箱だった。
◇
「俺さ、最初は気のせいかと思ったんだ。でも、気づいたんだよ。ここ数日、駅で、職場で、俺は無意識に『これを誰かに渡そうとしてる』ってことに」
◇
僕は、ぞっとした。
◇
「でも、誰も受け取ってくれなかった?」
「……ああ。なんかさ、みんな、無意識に避けるんだよ。俺がこれを渡そうとするたびに、みんな無表情で首を振る。まるで、俺が何かとんでもないものを持ってるのが分かってるみたいに」
◇
男は震える手で煙草に火をつけた。
◇
「さっきもさ、お前に渡そうとしたんだよ。でも……」
◇
そこで、男は言葉を詰まらせた。
僕は、ただ黙って彼を見ていた。
◇
「お前も、俺の手を見ようとしなかった」
◇
男の言葉に、背筋が凍った。
◇
確かに――彼がポケットから何かを取り出した時、僕は無意識に目を逸らしていた。
◇
なぜか?
◇
――分からない。
◇
男は乾いた笑いを漏らし、黒い箱をポケットに戻した。
「多分な、これは『渡さないと消える』んだと思う」
◇
「消える?」
◇
「ああ。俺も最初は冗談かと思ったよ。でもな、最近、変なことがあるんだ」
◇
男は、ポケットの中の箱を撫でながら言った。
◇
「俺が最近会ったやつ、誰も俺のことを覚えてないんだよ」
◇
僕は言葉を失った。
◇
「会社の同僚も、友達も、親すらもさ。なんつーか……『誰も俺を認識できなくなってる』って感じだ」
◇
男は、静かに笑った。
◇
「だから、多分な……もうすぐ、俺は完全に消える」
◇
「だからって、俺はお前にこれを渡したりしねえよ」
「でも、もし次に誰かがこれを持ってくれたら――俺は助かるんだろうな」
◇
そう言って、男は席を立った。
◇
「……じゃあな」
◇
男は、黒い箱をポケットに入れたまま、バーのドアを開け、消えていった。
◇
その翌日、僕は再びそのバーに立ち寄った。
しかし、彼の姿はどこにもなかった。
◇
「昨日、ここにいた男のこと、覚えてます?」
僕がバーテンダーに尋ねると、彼は首を傾げた。
「いや……昨日、そんな客はいなかったよ」
◇
血の気が引いた。
◇
――あの男は、もう消えたのか?
◇
それとも、まだどこかで、誰かに「それ」を渡そうとしているのか?
完




