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「消せない落書き」

 最初にその落書きを見つけたのは、ある地方都市の寂れた路地だった。


 かつては様々な企業が入っていた雑居ビル。

 取り壊しが決まって程なくして取り壊しが中断され、何故か取り壊されずに放置されているその壁にはこれみよがしに雑多なスプレーアートが描かれている。

 どれも派手な色彩で、名前や記号、意味不明な象徴が乱雑に重なり合っている。




 だが、その中に、妙に異質なものがあった。



 それは、誰かの顔だった。


 ざらついたレンガの表面に描かれた、シンプルな人物画。

 筆の勢いが強く、白と黒のコントラストが妙に目を引く。



 ただ――



 その顔が、やけにリアルだった。



 まるで、生きている人間をそのまま転写したような質感。

 そして、何より――



 その人物は、壁の向こうから 僕をじっと見つめている ように見えた。




「これ、消えないんですよ。この場所を再利用するって決まってるらしいんですがこいつだけは頑固でして…」


 話を聞かせてくれたのは、この街の清掃員だった。


 彼は、僕が写真を撮っているのを見て、少し迷った後、ぼそりと言った。




「最初は、ただの落書きかと思ってね。

 ペンキを上から塗ったり、高圧洗浄機をかけたり、

 いろいろ試したんですけど……何をしても消えないんです」




「消えない?」


「ええ。不思議でしょう?」




 僕は、改めて壁を見た。




 この街のどこにでもあるような、古びたレンガの壁。

 その上に、誰かの顔が浮かび上がっている。



「誰が描いたんです?」


「それが、分からないんですよ」



「いつからあるんです?」


「数年前から。でも……」


 清掃員は、言い淀んだ。


「……顔が変わるんです」



 僕は、一瞬言葉を失った。



「顔が?」


「ええ。少しずつ、変わっていくんです」



 清掃員は、スマホを取り出し、数年前に撮ったという写真を見せてくれた。


 そこには、同じ場所に描かれた人物画が映っていた。



 だが――



 今の顔とは 違う顔 だった。



「……別人ですね」


「でしょう?」



「どうして変わるんでしょう?」


「分かりません。でも……」


 清掃員は、ちらりと壁の落書きを見てから、こう言った。


「この落書きが増えると、この街から誰かがいなくなるんです。」



 僕は、彼の言葉の意味を噛み締めた。




 僕は、もう一度、壁の落書きを見つめた。


 それは、どこか見覚えのある顔だった。




 記憶を辿る。




 そして――



 思い出した。



 ……これは、かつて僕が取材で関わった人間の顔だ。



 その取材は、ある告発記事だった。

 企業の不正を暴き、表に出せば社会的なインパクトがあると踏んで、僕はその証言者に話を聞いた。


 彼は、ある企業の内部不正を知り、世間に公表することを決意した人物だった。

 勇気を振り絞って語った彼の言葉は、記事となり、大きな話題を呼んだ。



 ……だが、結末は最悪だった。



 記事が掲載された後、彼は姿を消した。

 会社からの圧力があったのか、それとも別の理由なのか。


 彼の家族は「彼はただの旅行に出た」と言い張り、

 警察も「事件性はない」として取り合わなかった。




 そして――




 今、その男の顔が この壁に浮かび上がっている。




 僕は、足元が冷えるような感覚を覚えた。



 ――この落書きは、過去の「消せない何か」なのか?



 僕は、慎重にポケットの中のポラロイドカメラを取り出し、落書きを撮影した。


 しかし――



 シャッターが切れた瞬間、世界が揺らいだ。




 視界が滲み、輪郭が崩れていく。

 足元の感覚が急に軽くなり、まるで 重力が失われたかのように ふわりと浮き上がる感覚に襲われた。



 これは――写真の中に入る 前兆 だ。




 僕は、すかさず出来てての写真を掴んだ。



 指先が、紙の質感を確かめる。



 瞬間、全身の毛穴が開くような 冷たい風が吹き抜けた。



 ――落ちる。



 視界が、ぐにゃりとねじれた。

 まるで、身体が何かに飲み込まれるように、沈み込んでいく。



 光が、遠ざかる。


 音が消え、空気が硬質に変わる。



 皮膚が、微細な砂の粒子になったような錯覚に陥る。

 輪郭が溶け、境界が曖昧になり、僕の存在が 「写真の中」へと転写されていく。



 ――この瞬間が、一番気持ち悪い。



 自分が「どこにいるのか」が一瞬だけ分からなくなる。

 そして次の瞬間――


 落下が 止まる。




 気づけば、僕は違う場所に立っていた。




 そこは、数年前に取材で訪れた、あの会社の廊下 だった。



 空気が 異様に澄んでいる。


 室内に漂う消毒液の匂いすら、妙に薄い。

 足音が響かず、時間の流れが止まったような静寂 が支配している。




 僕は、ゆっくりと呼吸を整えた。




 ――間違いない。


 ここは、僕が持っていた 写真の中の世界 だ。




 ただし――



 写真の中は、現実と寸分違わぬ世界ではない。


 例えば、電灯の光が 微妙に揺らめいている。

 壁の色が どこかくすんでいる。


 そして、何より――




 写真にしか存在しない「何か」がいることがある。




 僕は、慎重に辺りを見回した。


 だが、次の瞬間 異変に気づいた。



 ――落書きがない。




 現実では、あの落書きは 路地裏の古いレンガ壁 に描かれていた。


 しかし、今僕がいるのは かつてその場所が会社の内壁だった頃の姿。


 屋外ではなく屋内だった頃の姿。

 

 写真の中に入った時その写真を撮った瞬間とは異なる時間にいることがある。


 時間軸がズレる場合がある。


 …今回の場合ーー


 「過去か…」

 自分の五感がしっかり機能してるかを確認する様に独り言を呟いた。


 落書きが描かれる前に来たのであればここに落書きがないのは当然と言えば当然かもしれない。


 しかし――僕が抱いた違和感はそれではなかった。


 廊下の奥に、人影がある。


 僕は、思わず息を呑んだ。




 そこには、かつて僕が取材した男 が立っていた。



「……」




 彼は、じっと僕を見ていた。




 数年前、僕の取材に応じた男。

 内部告発をした後、消息を絶った男。


 彼は、ゆっくりと口を開いた。



「……僕の声を覚えているか?」



 ぞわりと、背筋が粟立つ。



 この世界の人間が 僕に話しかけたことはほとんどなかった。

 写真の中の存在は、基本的にただの「記録」でしかない。

 しかし、今、目の前の彼は 明確に意識を持ち、僕を認識している。




 ――これは、普通ではない。




 僕は、慎重に言葉を選んだ。




「……覚えている」




「なら、ひとつだけ聞かせてくれ」


 彼は、表情を変えないまま言った。


「僕のことを、記事にしてよかったと思うか?」



 鋭い問いだった。




 僕は、言葉を詰まらせた。




 記事を書いたことで、彼は社会から抹消された。

 それが、彼にとって救いになったのか、破滅だったのか――



 誰にも分からない。




 彼は、じっと僕を見つめたまま、

 少しだけ笑ったような気がした。



「まあ、どっちでもいいさ」



「……」



「ただ、お前も同じことになるんだろ?」




 僕は、反射的にポケットの中の写真を握りしめた。




 指先が、じわりと冷たい感触に包まれる。


 ――このままここにいてはいけない。



 写真の世界にいられる時間には 限りがある。


 このまま時間切れになれば、僕は ここに閉じ込められるかもしれない。



 僕は、再び写真の表面を指でなぞった。




 光が 逆流 するように視界が歪んだ。




 強い力で後ろへ引っ張られるような感覚。

 全身がバラバラに分解され、写真の外へと 弾き出される。



 次の瞬間――



 僕は、再び路地裏の壁の前に立っていた。



 だが、ひとつだけ変わっていた。



 壁の落書きが――


 僕の顔になっていた。


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