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「最後の客」

 深夜にだけ開く喫茶店がある。


 どんなに遅くまで歩き回っても、そこへ辿り着くことはできない。

 なぜなら、普通の人間は、その店を見つけることができないからだ。


 その店の扉を開けるのは、「帰れない人間」だけだという。



 僕がこの話を聞いたのは、知人の編集者からだった。


「不思議な店があるんですよ。一二三さんなら、気になるんじゃないですか?」


 彼はスマホを弄りながら言った。


「どんな店?」


「深夜だけ開くんです。でも、普通の人間は見つけられない。道に迷ったり、何かに追われていたり、あるいは帰る場所がない人だけが、その店に辿り着くんです」


「……なるほど」


「もっと奇妙なのは、その店には“最後の客”がいるらしいんですよ」



 “最後の客”。



「最後の客?」


「ええ。その店には、必ず一人、最後に入る客がいる。でも――」


 編集者は、一瞬言葉を飲み込んだ。


「……その客は、二度と朝を迎えられない らしいんです」



 妙に生々しい話だった。


 都市伝説というよりは、どこか実話めいた雰囲気がある。



 僕は、試しにその店を探してみることにした。



 夜の街を歩く。


 繁華街から離れた路地を、ただひたすらに進む。

 時計の針は午前二時を指していた。



 だが、当然ながら、それらしい店は見つからない。


 普通なら、ここで諦めるだろう。


 だが、僕はふと気づいた。



 ――今の僕は、「帰る場所がない人間」なのではないか?



 この街に家はない。

 取材のために泊まるホテルは予約してあるが、それは一時的な拠点にすぎない。



 夜の風が冷たい。



 僕は、さらに歩き続けた。



 どれほど時間が経っただろう。


 気づけば、商店街の端に、小さな喫茶店があった。



 レトロな外観の店だった。


 木製の扉、温かみのある電球の光。

 看板には、「珈琲 ラスト」 と書かれていた。



 僕は、ためらうことなく扉を開けた。



 そこには、静かな空間が広がっていた。


 店内は、昭和の純喫茶のような雰囲気だった。

 壁には古い時計がかかり、カウンターの向こうではマスターがコーヒーを淹れている。


 店内には、僕以外の客はいなかった。



 カウンター席に座ると、マスターが静かに微笑んだ。


「いらっしゃいませ。……お疲れのようですね」


「まあ、少し歩きすぎました」


「それはよかった。お客様は、ここへ来るべくして来られたのですね」



 マスターの言葉が、妙に引っかかった。



「ここは、どんな店なんです?」


 僕が尋ねると、彼はコーヒーカップを差し出しながら言った。


「この店は、夜の終わりにだけ開く喫茶店です。帰る場所を見失った方が、最後に立ち寄る場所……そういうものですよ」



 僕は、コーヒーを一口飲んだ。


 深く濃い苦味。だが、妙に落ち着く味だった。



「この店には“最後の客”がいる、という噂を聞いたんですが」



 僕がそう尋ねると、マスターの手が一瞬止まった。


 彼は微笑みながら言った。


「ええ……それは、ただの噂です」


「そうですか」


「……ですが、」


 マスターはカウンターを拭きながら、ふとつぶやいた。


「お客様は、今夜、この店の最後の客になられるのですか?」



 空気が、一瞬凍った。



「……最後の客になると、どうなるんです?」


 僕は、静かに尋ねた。



 マスターは、ゆっくりと僕を見た。



「この店は、朝には消えます」



「……」



「最後の客は、ここに留まるのです」



「帰れない、ということですか?」


 マスターは、答えなかった。



 僕は、店内を見回した。

 



 さっきまで、僕はこの店には誰もいないと思っていた。



 だが――



 奥の席に、誰かが座っていた。



 最初から、そこにいたのか?


 それとも――


 その客は、ゆっくりとこちらを向いた。



 ……いや。


 「客」ではなかった。


 僕は、息を飲んだ。



 それは、影だった。


 人の形をしているのに、実態がない。実態がないのに存在はある。そんな異形の存在がただ静かに蠢く黒いシルエットが、そこには座っていた。

 

 この影こそが「最後の客」なのだろうか。


 ……


 僕は、立ち上がった。


「……帰ることにします」


「そうですか」

 マスターは、静かにうなずいた。


 きっとここは僕がいるべき場所ではない。

 僕がいたらこの「最後の客」は最後の客にならなくなってしまうだろう。

 なんとなくそんな気がした。


 コーヒーカップ入った少し冷めたコーヒーを飲み干し

 僕はポケットに手を入れた。


 指先が、紙の感触を捉える。



 ――写真だ。



 僕は、もう会うことがないであろうマスターとの別れを惜しみながら写真をそっと指でなぞった。

 それと同時に視界が裏返るように歪んだ。



 次の瞬間――



 僕は、夜の商店街に立っていた。


 クリーニング店と酒屋に挟まれた喫茶店は跡形もなく消えていた。

 というよりもクリーニング店と酒屋の間には店を構えられるスペースなどはじめから存在していなかった。

 営業時間がとっくに過ぎてるクリーニング店はシャッターが閉まっており、そのすぐ隣ではしっかり施錠されている酒屋が静かに佇んでいた。


 しかし、僕のポケットにはコーヒーの香りが染み付いていた。


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