「最後の客」
深夜にだけ開く喫茶店がある。
どんなに遅くまで歩き回っても、そこへ辿り着くことはできない。
なぜなら、普通の人間は、その店を見つけることができないからだ。
その店の扉を開けるのは、「帰れない人間」だけだという。
◇
僕がこの話を聞いたのは、知人の編集者からだった。
「不思議な店があるんですよ。一二三さんなら、気になるんじゃないですか?」
彼はスマホを弄りながら言った。
「どんな店?」
「深夜だけ開くんです。でも、普通の人間は見つけられない。道に迷ったり、何かに追われていたり、あるいは帰る場所がない人だけが、その店に辿り着くんです」
「……なるほど」
「もっと奇妙なのは、その店には“最後の客”がいるらしいんですよ」
◇
“最後の客”。
◇
「最後の客?」
「ええ。その店には、必ず一人、最後に入る客がいる。でも――」
編集者は、一瞬言葉を飲み込んだ。
「……その客は、二度と朝を迎えられない らしいんです」
◇
妙に生々しい話だった。
都市伝説というよりは、どこか実話めいた雰囲気がある。
◇
僕は、試しにその店を探してみることにした。
◇
夜の街を歩く。
繁華街から離れた路地を、ただひたすらに進む。
時計の針は午前二時を指していた。
◇
だが、当然ながら、それらしい店は見つからない。
普通なら、ここで諦めるだろう。
だが、僕はふと気づいた。
◇
――今の僕は、「帰る場所がない人間」なのではないか?
◇
この街に家はない。
取材のために泊まるホテルは予約してあるが、それは一時的な拠点にすぎない。
◇
夜の風が冷たい。
◇
僕は、さらに歩き続けた。
どれほど時間が経っただろう。
気づけば、商店街の端に、小さな喫茶店があった。
◇
レトロな外観の店だった。
木製の扉、温かみのある電球の光。
看板には、「珈琲 ラスト」 と書かれていた。
◇
僕は、ためらうことなく扉を開けた。
◇
そこには、静かな空間が広がっていた。
店内は、昭和の純喫茶のような雰囲気だった。
壁には古い時計がかかり、カウンターの向こうではマスターがコーヒーを淹れている。
店内には、僕以外の客はいなかった。
◇
カウンター席に座ると、マスターが静かに微笑んだ。
「いらっしゃいませ。……お疲れのようですね」
「まあ、少し歩きすぎました」
「それはよかった。お客様は、ここへ来るべくして来られたのですね」
◇
マスターの言葉が、妙に引っかかった。
◇
「ここは、どんな店なんです?」
僕が尋ねると、彼はコーヒーカップを差し出しながら言った。
「この店は、夜の終わりにだけ開く喫茶店です。帰る場所を見失った方が、最後に立ち寄る場所……そういうものですよ」
◇
僕は、コーヒーを一口飲んだ。
深く濃い苦味。だが、妙に落ち着く味だった。
◇
「この店には“最後の客”がいる、という噂を聞いたんですが」
◇
僕がそう尋ねると、マスターの手が一瞬止まった。
彼は微笑みながら言った。
「ええ……それは、ただの噂です」
「そうですか」
「……ですが、」
マスターはカウンターを拭きながら、ふとつぶやいた。
「お客様は、今夜、この店の最後の客になられるのですか?」
◇
空気が、一瞬凍った。
◇
「……最後の客になると、どうなるんです?」
僕は、静かに尋ねた。
◇
マスターは、ゆっくりと僕を見た。
◇
「この店は、朝には消えます」
◇
「……」
◇
「最後の客は、ここに留まるのです」
◇
「帰れない、ということですか?」
マスターは、答えなかった。
◇
僕は、店内を見回した。
◇
さっきまで、僕はこの店には誰もいないと思っていた。
だが――
奥の席に、誰かが座っていた。
最初から、そこにいたのか?
それとも――
その客は、ゆっくりとこちらを向いた。
◇
……いや。
「客」ではなかった。
僕は、息を飲んだ。
それは、影だった。
人の形をしているのに、実態がない。実態がないのに存在はある。そんな異形の存在がただ静かに蠢く黒いシルエットが、そこには座っていた。
この影こそが「最後の客」なのだろうか。
……
僕は、立ち上がった。
「……帰ることにします」
「そうですか」
マスターは、静かにうなずいた。
きっとここは僕がいるべき場所ではない。
僕がいたらこの「最後の客」は最後の客にならなくなってしまうだろう。
なんとなくそんな気がした。
コーヒーカップ入った少し冷めたコーヒーを飲み干し
僕はポケットに手を入れた。
指先が、紙の感触を捉える。
――写真だ。
僕は、もう会うことがないであろうマスターとの別れを惜しみながら写真をそっと指でなぞった。
それと同時に視界が裏返るように歪んだ。
◇
次の瞬間――
僕は、夜の商店街に立っていた。
クリーニング店と酒屋に挟まれた喫茶店は跡形もなく消えていた。
というよりもクリーニング店と酒屋の間には店を構えられるスペースなどはじめから存在していなかった。
営業時間がとっくに過ぎてるクリーニング店はシャッターが閉まっており、そのすぐ隣ではしっかり施錠されている酒屋が静かに佇んでいた。
しかし、僕のポケットにはコーヒーの香りが染み付いていた。
完




