「嘲笑鏡」
鏡は不思議なものだ。
人間は自分の姿を直接見ることはできない。
だから、鏡に映る自分こそが、自分にとっての「本当の姿」になる。
しかし――
もし、その鏡に映る自分が、自分の意志とは違う動きをしたら?
◇
その話を聞いたのは、とある古道具店 だった。
街の外れにある、小さな店。
看板の文字は風雨に晒されてかすれており、店内にはホコリをかぶった家具や雑貨が並んでいる。
その中で、一際異質な存在感を放つものがあった。
◇
「笑う鏡」
そう書かれた札が、ひとつの古い姿見に貼られていた。
◇
「これは……?」
僕が尋ねると、店主の老人は静かに笑った。
◇
「それはな、時々、持ち主とは違う表情をするんだ」
――違う表情?
「つまり、自分が無表情で鏡を見ても、鏡の中の自分が笑っていることがある、ってことさ」
奇妙な話だった。
鏡は、ただ光を反射するだけの物体だ。
そこに映るのは、常に現実の反映であるはず。
にもかかわらず、「勝手に笑う」とはどういうことなのか。
「試してみるかい?」
店主の言葉に、僕は鏡の前に立った。
古びた木枠に収められた、大きな鏡。
ガラスには若干のくすみがあるが、映りは鮮明だった。
◇
僕は、無表情のまま、鏡を見つめた。
◇
数秒、何も起こらなかった。
……が、次の瞬間、背筋が冷たくなる。
――鏡の中の僕が、微かに口元を動かした。
笑ったのだ。
◇
表情はごく僅かだった。
口角が、ほんの数ミリ、ゆっくりと上がる。
しかし、それは間違いなく「僕の意志ではない動き」だった。
僕は試しに眉をひそめた。
だが、鏡の中の僕は、微笑んだままだった。
◇
背筋がぞわりとした。
◇
店主は愉快そうに笑った。
「な? そういう鏡なんだよ」
僕は思わず、鏡から視線を逸らした。
もう一度見るのが、怖かった。
「ちなみに、この鏡が本当に笑うのは、持ち主が『ある感情』を抱いたときらしい」
「……ある感情?」
「そうさ。それは――」
◇
店主の言葉を聞いた時、僕は理解した。
◇
この鏡が笑うのは――
「持ち主が、本当は笑いたくないとき」 だ。
◇
嫌なことがあったとき。
怒りを感じているとき。
悲しみに沈んでいるとき。
そんな時に限って、鏡の中の自分は、嘲笑うように微笑む。
◇
「持って帰るかい?」
◇
僕は即座に首を振った。
冗談じゃない。
店を出て、深呼吸する。
だが、まだ背中が冷たい。
◇
さっきの鏡の「笑顔」が、脳裏に焼き付いて離れない。
◇
その後、しばらくしてから、僕はあの店を再び訪れた。
気になったのだ。
あの鏡を、誰かが買っていったのかどうか。
◇
しかし――
◇
あの鏡は、もうどこにもなかった。
◇
店主に尋ねると、こう答えた。
「……ああ。あの鏡なら、誰も買わないのに、ある日突然、消えちまったよ」
「消えた?」
「ああ。まるで、『自分で出て行った』みたいにな」
エピローグ
その夜、僕は自宅の洗面台の前に立っていた。
鏡を見る。
そこに映るのは、いつもの自分の顔だ。
だが――
僕は、鏡の中の自分をじっと見つめた。
しばらくすると、唇が微かに震えた。
笑った。
僕は、そんなつもりはなかった。
だが、鏡の中の僕は、ゆっくりと、確実に口角を上げていく。
そして、気づいた。
この鏡――
僕の部屋に、こんなものはなかったはずだ。
完




