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「嘲笑鏡」

 鏡は不思議なものだ。


 人間は自分の姿を直接見ることはできない。

 だから、鏡に映る自分こそが、自分にとっての「本当の姿」になる。


 しかし――


 もし、その鏡に映る自分が、自分の意志とは違う動きをしたら?



 その話を聞いたのは、とある古道具店 だった。


 街の外れにある、小さな店。

 看板の文字は風雨に晒されてかすれており、店内にはホコリをかぶった家具や雑貨が並んでいる。


 その中で、一際異質な存在感を放つものがあった。



 「笑う鏡」


 そう書かれた札が、ひとつの古い姿見に貼られていた。



 「これは……?」


 僕が尋ねると、店主の老人は静かに笑った。



 「それはな、時々、持ち主とは違う表情をするんだ」


 ――違う表情?


 「つまり、自分が無表情で鏡を見ても、鏡の中の自分が笑っていることがある、ってことさ」


 奇妙な話だった。


 鏡は、ただ光を反射するだけの物体だ。

 そこに映るのは、常に現実の反映であるはず。


 にもかかわらず、「勝手に笑う」とはどういうことなのか。




 「試してみるかい?」



 店主の言葉に、僕は鏡の前に立った。


 古びた木枠に収められた、大きな鏡。

 ガラスには若干のくすみがあるが、映りは鮮明だった。



 僕は、無表情のまま、鏡を見つめた。



 数秒、何も起こらなかった。

 ……が、次の瞬間、背筋が冷たくなる。



 ――鏡の中の僕が、微かに口元を動かした。




 笑ったのだ。



 表情はごく僅かだった。

 口角が、ほんの数ミリ、ゆっくりと上がる。


 しかし、それは間違いなく「僕の意志ではない動き」だった。


 僕は試しに眉をひそめた。


 だが、鏡の中の僕は、微笑んだままだった。



 背筋がぞわりとした。



 店主は愉快そうに笑った。


 「な? そういう鏡なんだよ」



 僕は思わず、鏡から視線を逸らした。


 もう一度見るのが、怖かった。


 「ちなみに、この鏡が本当に笑うのは、持ち主が『ある感情』を抱いたときらしい」


 「……ある感情?」


 「そうさ。それは――」



 店主の言葉を聞いた時、僕は理解した。



 この鏡が笑うのは――


 「持ち主が、本当は笑いたくないとき」 だ。



 嫌なことがあったとき。

 怒りを感じているとき。

 悲しみに沈んでいるとき。


 そんな時に限って、鏡の中の自分は、嘲笑うように微笑む。



 「持って帰るかい?」



 僕は即座に首を振った。


 冗談じゃない。


 店を出て、深呼吸する。


 だが、まだ背中が冷たい。



 さっきの鏡の「笑顔」が、脳裏に焼き付いて離れない。



 その後、しばらくしてから、僕はあの店を再び訪れた。


 気になったのだ。


 あの鏡を、誰かが買っていったのかどうか。



 しかし――



 あの鏡は、もうどこにもなかった。



 店主に尋ねると、こう答えた。


 「……ああ。あの鏡なら、誰も買わないのに、ある日突然、消えちまったよ」


 「消えた?」


 「ああ。まるで、『自分で出て行った』みたいにな」


エピローグ



 その夜、僕は自宅の洗面台の前に立っていた。

 鏡を見る。


 そこに映るのは、いつもの自分の顔だ。


 だが――


 僕は、鏡の中の自分をじっと見つめた。


 しばらくすると、唇が微かに震えた。




 笑った。


 僕は、そんなつもりはなかった。


 だが、鏡の中の僕は、ゆっくりと、確実に口角を上げていく。




 そして、気づいた。




 この鏡――


 僕の部屋に、こんなものはなかったはずだ。



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