「影を写す部屋」
写真というのは不思議なものだ。
人の目では見えないものを映し出すことがあるし、
逆に、本来あるはずのものを消し去ることもある。
光と影のバランス次第で、現実とはまるで異なる世界が写ることもある。
そして、写真の中の世界は、撮った者が意図するかしないかに関わらず、
撮影者の知らない「何か」を宿すことがある。
◇
「この部屋で撮った写真には『人が映らない』らしいですよ」
そんな話を耳にしたのは、古びた雑居ビルの怪談を調べていたときだった。
◇
とある街の廃ビルの一室に、写真から人の姿が消える部屋があるという。
そこに足を踏み入れた者は、最初は普通に写真に映る。
だが、何度も撮影を繰り返しているうちに、徐々に 影が薄れていき、最後には完全に消えてしまう という。
しかも、一度消えてしまった影は 二度と戻らない。
◇
この手の話は多い。
鏡に映らない人間、影を落とさない幽霊、姿のない怪異――
だが、「写真にだけ映らなくなる」というのは、なかなかに異質だった。
僕は、こういう話を聞くと 確かめずにはいられない。
◇
そして、今、僕は その部屋の前に立っている。
◇
ここは、長年放置された雑居ビルの最上階にある空き部屋だった。
廊下には埃が積もり、湿った空気が漂っている。
壁には黒ずんだカビの跡があり、天井の蛍光灯はちらちらと不安定に点滅していた。
扉には、かつて企業名が書かれていたらしいプレートがあるが、文字はすっかり剥げ落ちている。
◇
ドアノブに手をかける。
冷たい金属の感触が、指先にまとわりついた。
◇
少し強めに押すと、ギィ……と軋むような音を立てながら、扉は開いた。
◇
中は、驚くほど静かだった。
◇
がらんとした空間。
床には古い木材の破片が散らばり、壁紙は剥がれかけていた。
奥に一枚の窓がある。
しかし、汚れたガラス越しの外の景色はぼんやりと霞んで見えた。
◇
……妙に落ち着かない空間だった。
部屋の広さや雰囲気がそうさせているのではない。
何かが、決定的に足りていない気がする。
◇
僕は、カメラを取り出し、試しに一枚撮影してみた。
◇
――結果。
何の変哲もない部屋が、画面に映し出された。
◇
……今のところ、異常はない。
◇
僕は、部屋の中を歩きながら、さらに何枚か撮影してみた。
◇
窓際。
床の傷跡。
古びた机の残骸。
◇
そして――
◇
自分の姿を、撮ってみた。
◇
カメラをセルフモードにし、部屋の隅に立ち、シャッターを切る。
◇
画面を確認しようとした瞬間、
背中に 冷たい違和感 が走った。
◇
……なぜだ?
◇
恐る恐る、カメラの画面を覗き込む。
そこには――
僕の姿が映っていなかった。
◇
そこに立っていたはずの僕が、写真の中では 完全に消えている。
◇
じっとりとした汗が背筋を這う。
同時に呼吸が浅くなるのを感じた。
◇
カメラの設定ミスかと思い、何度か確認してみたが、問題はない。
念のため、もう一度撮影する。
◇
しかし、何度撮っても、
僕だけが映らない。
「……なるほど」
噂は、事実だった。
◇
僕は、徐々に 写真の世界から消えつつあるのかもしれない。
だが、これはまだ「異変の入り口」に過ぎなかった。
◇
次の瞬間――
◇
背後から、誰かの気配を感じた。
僕は、ゆっくりと振り返った。
◇
――そこには、誰もいなかった。
……いや。
それは「見えないだけ」なのではないか。
もし、写真の中の僕が消えたのだとしたら、
逆に、写真にしか映らない「何か」がここにいる可能性もある。
◇
僕は、慎重にもう一度、写真を撮った。
そして――
◇
その画面を見た瞬間、息が止まった。
◇
そこには、僕の姿はなく、
その代わりに――
知らない誰かが、立っていた。
◇
黒く滲んだような輪郭の、それは、確かに「人の形」をしていた。
◇
だが、その顔は……
僕の顔をしていた。
足元から、じわりと冷たい汗が滲む。
◇
――これは、まずい。
◇
僕は、急いでポケットに手を突っ込んだ。
◇
指先が、薄い紙の感触を捉える。
――写真だ。
◇
この能力を、僕はいつから持っていたのか分からない。
ある日、気づいたら使えていた。
自分が撮った写真でなくてもいい。
物理的に存在する写真ならば、僕はその中に入ることができる。
◇
ただし、長くはいられない。
写真の世界に滞在できる時間は決まっている。
時間切れになれば、強制的に写真の外へと弾き出される。
だが、その「外」が必ずしも 元の世界であるとは限らない。
そして――写真が破損すれば、その中の世界ごと壊れる。
もし僕がその中にいる間に写真が破れたり、燃えたりしたら……
◇
どうなるのか、試したことはない。
試すつもりもない。
◇
今は、とにかくここを脱出するしかない。
◇
僕は、写真を見つめた。
それは、数時間前に撮ったビルの入り口の写真だった。
薄暗い路地に、錆びたシャッターが閉ざされている光景。
この写真の中に入れば、一時的にでもこの部屋から抜け出せるはずだ。
◇
僕は、写真の表面を そっと指でなぞった。
次の瞬間――
視界が、裏返るように歪んだ。
◇
体の感覚が、一瞬だけふわりと浮き上がる。
次の瞬間、まるで 吸い込まれるような落下感 に襲われた。
◇
意識が沈み込んでいく。
◇
まるで、深い水の中に引きずり込まれるような感覚だった。
呼吸が浅くなり、鼓膜が内側から圧迫される。
皮膚が、写真の表面に溶け込んでいくような奇妙な感触が広がる。
◇
そして――
◇
目の前の光景が、一瞬で切り替わった。
◇
僕は、違う場所に立っていた。
目の前には、数時間前に通った廃ビルの入り口がある。
錆びたシャッター。
壁に貼られたボロボロのチラシ。
ここは、確かに僕が撮った写真の中の世界だった。
◇
写真の中に入るたびに思うが――
ここは、現実とほぼ変わらない。
◇
だが、違いもある。
写真の中は 静寂が深すぎる。
音がない。
風もない。
時間が止まっているかのように、すべてが静止している。
だが、僕の体だけは動く。
◇
ここは、「ただの写真」ではない。
写真の世界は、もう一つの現実 なのだ。
僕は慎重に周囲を見回した。
今のところ、この世界に 「本来いるべきではない者」 の姿はない。
しかし、それがいつまでも続くとは限らない。
この場所に長居するのは危険だ。
◇
僕は、ポケットの中の写真を握りしめた。
今度は、この写真から抜け出す。
写真に入るのと同じように、写真の表面に指を滑らせる。
息を整え、意識を集中させる。
◇
次の瞬間――
視界が再び歪み、意識がぐらりと傾いた。
――跳ぶ。
僕は、写真の世界から弾き出された。
◇
気がつくと、僕は夜の商店街に立っていた。
◇
しかし――
◇
すぐに違和感を覚えた。
ここは、僕がいた世界とは少し違う。
◇
通りを行き交う人々の服装が、微妙に違う。
色味が淡く、素材の質感が不自然に均一化されている。
耳を澄ませば、車のクラクションの音が微妙に高い。
人々の話し声はどこか遠く、かすかにフィルターがかかったように聞こえる。
◇
そして、何より――
◇
僕がいたはずの廃ビルが 消えていた。
◇
跡形もなく、そこには 真新しい白い壁が広がっている。
数時間前までそこにあったはずの 古びた雑居ビルが、完全に存在しないことになっている。
僕は、背筋を冷たいものが這い上がるのを感じた。
「このビルは、10年前に取り壊されました。」
壁には、そんな貼り紙がされていた。
息が詰まる。
僕は、無意識にポケットの中を探った。
指先が、冷たい紙に触れる。
◇
しかし――
◇
そこにあるべきはずの 「元の世界の写真」 が、消えていた。
◇
――ここは、本当に僕のいた世界なのだろうか。
◇
いや、それ以前に。
僕は、本当に ここにいるのだろうか。
背後から、ふと 誰かの視線 を感じた。
◇
だが、振り返ることはできなかった。
もしも振り返ったら――
そこには、僕の姿をした「何か」が立っている気がしたからだ。
完




