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「影を写す部屋」

 写真というのは不思議なものだ。


 人の目では見えないものを映し出すことがあるし、

 逆に、本来あるはずのものを消し去ることもある。


 光と影のバランス次第で、現実とはまるで異なる世界が写ることもある。

 そして、写真の中の世界は、撮った者が意図するかしないかに関わらず、

 撮影者の知らない「何か」を宿すことがある。



 「この部屋で撮った写真には『人が映らない』らしいですよ」


 そんな話を耳にしたのは、古びた雑居ビルの怪談を調べていたときだった。



 とある街の廃ビルの一室に、写真から人の姿が消える部屋があるという。


 そこに足を踏み入れた者は、最初は普通に写真に映る。

 だが、何度も撮影を繰り返しているうちに、徐々に 影が薄れていき、最後には完全に消えてしまう という。


 しかも、一度消えてしまった影は 二度と戻らない。



 この手の話は多い。


 鏡に映らない人間、影を落とさない幽霊、姿のない怪異――

 だが、「写真にだけ映らなくなる」というのは、なかなかに異質だった。


 僕は、こういう話を聞くと 確かめずにはいられない。



 そして、今、僕は その部屋の前に立っている。



 ここは、長年放置された雑居ビルの最上階にある空き部屋だった。


 廊下には埃が積もり、湿った空気が漂っている。

 壁には黒ずんだカビの跡があり、天井の蛍光灯はちらちらと不安定に点滅していた。


 扉には、かつて企業名が書かれていたらしいプレートがあるが、文字はすっかり剥げ落ちている。



 ドアノブに手をかける。


 冷たい金属の感触が、指先にまとわりついた。



 少し強めに押すと、ギィ……と軋むような音を立てながら、扉は開いた。



 中は、驚くほど静かだった。



 がらんとした空間。

 床には古い木材の破片が散らばり、壁紙は剥がれかけていた。


 奥に一枚の窓がある。

 しかし、汚れたガラス越しの外の景色はぼんやりと霞んで見えた。



 ……妙に落ち着かない空間だった。


 部屋の広さや雰囲気がそうさせているのではない。

 何かが、決定的に足りていない気がする。



 僕は、カメラを取り出し、試しに一枚撮影してみた。



 ――結果。


 何の変哲もない部屋が、画面に映し出された。



 ……今のところ、異常はない。



 僕は、部屋の中を歩きながら、さらに何枚か撮影してみた。



 窓際。

 床の傷跡。

 古びた机の残骸。



 そして――



 自分の姿を、撮ってみた。



 カメラをセルフモードにし、部屋の隅に立ち、シャッターを切る。



 画面を確認しようとした瞬間、

 背中に 冷たい違和感 が走った。



 ……なぜだ?



 恐る恐る、カメラの画面を覗き込む。


 そこには――

 僕の姿が映っていなかった。



 そこに立っていたはずの僕が、写真の中では 完全に消えている。



 じっとりとした汗が背筋を這う。

 同時に呼吸が浅くなるのを感じた。



 カメラの設定ミスかと思い、何度か確認してみたが、問題はない。


 念のため、もう一度撮影する。



 しかし、何度撮っても、

 僕だけが映らない。


 「……なるほど」


 噂は、事実だった。



 僕は、徐々に 写真の世界から消えつつあるのかもしれない。



 だが、これはまだ「異変の入り口」に過ぎなかった。



 次の瞬間――



 背後から、誰かの気配を感じた。


 僕は、ゆっくりと振り返った。



 ――そこには、誰もいなかった。


 ……いや。


 それは「見えないだけ」なのではないか。



 もし、写真の中の僕が消えたのだとしたら、

 逆に、写真にしか映らない「何か」がここにいる可能性もある。



 僕は、慎重にもう一度、写真を撮った。


 そして――



 その画面を見た瞬間、息が止まった。



 そこには、僕の姿はなく、


 その代わりに――


 知らない誰かが、立っていた。



 黒く滲んだような輪郭の、それは、確かに「人の形」をしていた。



 だが、その顔は……




 僕の顔をしていた。




 足元から、じわりと冷たい汗が滲む。



 ――これは、まずい。



 僕は、急いでポケットに手を突っ込んだ。



 指先が、薄い紙の感触を捉える。


 ――写真だ。



 この能力を、僕はいつから持っていたのか分からない。


 ある日、気づいたら使えていた。

 自分が撮った写真でなくてもいい。

 物理的に存在する写真ならば、僕はその中に入ることができる。



 ただし、長くはいられない。


 写真の世界に滞在できる時間は決まっている。

 時間切れになれば、強制的に写真の外へと弾き出される。

 だが、その「外」が必ずしも 元の世界であるとは限らない。


 そして――写真が破損すれば、その中の世界ごと壊れる。

 もし僕がその中にいる間に写真が破れたり、燃えたりしたら……



 どうなるのか、試したことはない。


 試すつもりもない。



 今は、とにかくここを脱出するしかない。



 僕は、写真を見つめた。


 それは、数時間前に撮ったビルの入り口の写真だった。

 薄暗い路地に、錆びたシャッターが閉ざされている光景。


 この写真の中に入れば、一時的にでもこの部屋から抜け出せるはずだ。



 僕は、写真の表面を そっと指でなぞった。


 次の瞬間――



 視界が、裏返るように歪んだ。



 体の感覚が、一瞬だけふわりと浮き上がる。

 次の瞬間、まるで 吸い込まれるような落下感 に襲われた。



 意識が沈み込んでいく。



 まるで、深い水の中に引きずり込まれるような感覚だった。


 呼吸が浅くなり、鼓膜が内側から圧迫される。

 皮膚が、写真の表面に溶け込んでいくような奇妙な感触が広がる。



 そして――



 目の前の光景が、一瞬で切り替わった。



 僕は、違う場所に立っていた。



 目の前には、数時間前に通った廃ビルの入り口がある。

 錆びたシャッター。

 壁に貼られたボロボロのチラシ。


 ここは、確かに僕が撮った写真の中の世界だった。



 写真の中に入るたびに思うが――


 ここは、現実とほぼ変わらない。



 だが、違いもある。


 写真の中は 静寂が深すぎる。


 音がない。

 風もない。

 時間が止まっているかのように、すべてが静止している。


 だが、僕の体だけは動く。



 ここは、「ただの写真」ではない。




 写真の世界は、もう一つの現実 なのだ。




 僕は慎重に周囲を見回した。


 今のところ、この世界に 「本来いるべきではない者」 の姿はない。

 しかし、それがいつまでも続くとは限らない。


 この場所に長居するのは危険だ。



 僕は、ポケットの中の写真を握りしめた。

 今度は、この写真から抜け出す。


 写真に入るのと同じように、写真の表面に指を滑らせる。

 息を整え、意識を集中させる。



 次の瞬間――


 視界が再び歪み、意識がぐらりと傾いた。




 ――跳ぶ。




 僕は、写真の世界から弾き出された。



 気がつくと、僕は夜の商店街に立っていた。



 しかし――



 すぐに違和感を覚えた。


 ここは、僕がいた世界とは少し違う。



 通りを行き交う人々の服装が、微妙に違う。

 色味が淡く、素材の質感が不自然に均一化されている。


 耳を澄ませば、車のクラクションの音が微妙に高い。

 人々の話し声はどこか遠く、かすかにフィルターがかかったように聞こえる。



 そして、何より――



 僕がいたはずの廃ビルが 消えていた。



 跡形もなく、そこには 真新しい白い壁が広がっている。


 数時間前までそこにあったはずの 古びた雑居ビルが、完全に存在しないことになっている。


 僕は、背筋を冷たいものが這い上がるのを感じた。




 「このビルは、10年前に取り壊されました。」




 壁には、そんな貼り紙がされていた。


 息が詰まる。


 僕は、無意識にポケットの中を探った。

 指先が、冷たい紙に触れる。



 しかし――



 そこにあるべきはずの 「元の世界の写真」 が、消えていた。



 ――ここは、本当に僕のいた世界なのだろうか。



 いや、それ以前に。


 僕は、本当に ここにいるのだろうか。


 背後から、ふと 誰かの視線 を感じた。



 だが、振り返ることはできなかった。


 もしも振り返ったら――



 そこには、僕の姿をした「何か」が立っている気がしたからだ。


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