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「鉢植えの果実」

 植物には、光と水さえあれば生きていけるものと、そうでないものがある。


 どれほど世話をしても枯れる植物もあれば、放っておいても根を張る草もある。

 どこにでも生えてくる雑草がある一方で、特定の環境でしか育たない希少な品種もある。


 そして、ごく稀に――

 「何を与えるか」で、その性質を変える植物がある。



「一ノ瀬さん、少しの間、この鉢植えを預かってもらえませんか?」


 そう頼まれたのは、知人の植物学者はやせ 早瀬悠馬ゆうま からだった。


 彼とは以前、ある奇妙な植物について取材をした際に知り合った。

 興味深い話をいくつも持っているが、時折「実験的な依頼」を持ちかけてくることがある。


「ただし、一つだけ注意点があります」


 彼は僕に小さな鉢植えを渡しながら言った。

 鉢には、まだ芽を出したばかりの植物が生えている。


「毎日、餌を与えてください。でも、決して『大切なもの』は与えないでください」



 「餌」という言葉が気になった。


 普通、植物に必要なのは水と養分だ。

 なのに、早瀬は「餌を与えろ」と言った。


「……具体的には?」


「何でも構いません。パンくずでも、小石でも、紙切れでも」


「それで育つのか?」


「ええ。ただ、言った通り『大切なもの』は決して与えないでください」



 不可解だったが、僕はとりあえず了承し、鉢植えを部屋に持ち帰った。



 最初の一週間は、特に何も変化はなかった。

 僕は机の上に鉢植えを置き、思いついたもので餌を与えていた。


 紙の切れ端、使い捨てのスプーン、小さなボタン。

 植物はそれらをゆっくりと吸収するように、翌日には跡形もなくなっていた。


 ただの観察のつもりだったが、気づけば毎朝、鉢植えを覗くのが習慣になっていた。

 そして、一週間が経った頃――変化が起こった。



 鉢植えの中央に、小さな果実が実っていた。


 薄紅色をした、小さな丸い実。

 サイズはサクランボほどだが、表面がわずかに発光しているように見えた。


 試しに手に取ってみると、柔らかく、どこか温かみを感じる。


 香りを嗅いでみると、異様なほど甘い匂いがした。



 試しに口に含んでみた。


 果汁が舌の上に広がる。

 それは、これまで食べたどんな果実よりも、強烈に美味かった。



 それから、僕は餌の種類を増やしてみることにした。


 封を開けたばかりのボールペン。

 買ったばかりのコイン。


 すると、翌日には、より鮮やかで濃厚な果実が実るようになった。


 そして、僕は気づく。


――餌にしたものが「より大切なもの」であるほど、実の味が美味くなる。



 そこから、僕は「実験」を始めた。


 子供の頃に使っていたキーホルダーを入れてみた。

 すると、翌日実った果実は、濃厚な甘さとほのかな酸味を併せ持ち、強烈な味わいになった。


 次に、使い込んだ万年筆を与えてみた。

 その果実は、まるで一滴の蜜のように、言葉にできない美味さを持っていた。



 やがて、僕は、次第に「もっと大切なもの」を与えたくなった。


 試しに、一枚の写真を鉢植えに入れてみた。

 かつて、ある取材で訪れた町の写真。


 翌日、実った果実は――これまでのものとは比べ物にならないほど、芳醇な味だった。



 僕は気づく。


 これはもう、食べたいという欲求ではない。

 確かめたいのだ。


 この植物の限界を。

 「どこまで大切なものを与えれば、どれほど美味い実ができるのか」を。



 その夜、僕はあるものを手に取った。


 いつもポケットに入れている、手帳。

 長年取材の記録をつけてきた、大切な手帳。


 これを鉢植えに与えたら、どんな実ができるのか――。


 僕は手を伸ばしかけた。


 その瞬間、玄関のインターホンが鳴った。



「一ノ瀬さん、開けてください。早瀬です」



 扉を開けると、早瀬が立っていた。


 彼は僕を見るなり、鉢植えに目をやり、短く息を吐いた。


「……まだ間に合いましたね」


「何が?」


「この植物は、与えられたものを成分として果実を作ります。

 そして、『大切なもの』を与え続けると、最後に『自分自身』を与えたくなる」



 僕は背筋が冷たくなるのを感じた。


 ――なるほど。


 なぜ、僕が「もっと大切なものを与えたい」と思い始めたのかが分かった。


 それは、この植物がそうさせていたのだ。



「この鉢植えは回収します」


 そう言って、早瀬は鉢植えを慎重に抱えた。


 それを見ながら、僕はふと思った。


 これまで食べた果実の味を――今、どれほど思い出せるだろうか、と。



 あれほど美味かったはずの味が、もう思い出せなかった。


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