「鉢植えの果実」
植物には、光と水さえあれば生きていけるものと、そうでないものがある。
どれほど世話をしても枯れる植物もあれば、放っておいても根を張る草もある。
どこにでも生えてくる雑草がある一方で、特定の環境でしか育たない希少な品種もある。
そして、ごく稀に――
「何を与えるか」で、その性質を変える植物がある。
◇
「一ノ瀬さん、少しの間、この鉢植えを預かってもらえませんか?」
そう頼まれたのは、知人の植物学者 早瀬悠馬 からだった。
彼とは以前、ある奇妙な植物について取材をした際に知り合った。
興味深い話をいくつも持っているが、時折「実験的な依頼」を持ちかけてくることがある。
「ただし、一つだけ注意点があります」
彼は僕に小さな鉢植えを渡しながら言った。
鉢には、まだ芽を出したばかりの植物が生えている。
「毎日、餌を与えてください。でも、決して『大切なもの』は与えないでください」
◇
「餌」という言葉が気になった。
普通、植物に必要なのは水と養分だ。
なのに、早瀬は「餌を与えろ」と言った。
「……具体的には?」
「何でも構いません。パンくずでも、小石でも、紙切れでも」
「それで育つのか?」
「ええ。ただ、言った通り『大切なもの』は決して与えないでください」
◇
不可解だったが、僕はとりあえず了承し、鉢植えを部屋に持ち帰った。
◇
最初の一週間は、特に何も変化はなかった。
僕は机の上に鉢植えを置き、思いついたもので餌を与えていた。
紙の切れ端、使い捨てのスプーン、小さなボタン。
植物はそれらをゆっくりと吸収するように、翌日には跡形もなくなっていた。
ただの観察のつもりだったが、気づけば毎朝、鉢植えを覗くのが習慣になっていた。
そして、一週間が経った頃――変化が起こった。
◇
鉢植えの中央に、小さな果実が実っていた。
薄紅色をした、小さな丸い実。
サイズはサクランボほどだが、表面がわずかに発光しているように見えた。
試しに手に取ってみると、柔らかく、どこか温かみを感じる。
香りを嗅いでみると、異様なほど甘い匂いがした。
◇
試しに口に含んでみた。
果汁が舌の上に広がる。
それは、これまで食べたどんな果実よりも、強烈に美味かった。
◇
それから、僕は餌の種類を増やしてみることにした。
封を開けたばかりのボールペン。
買ったばかりのコイン。
すると、翌日には、より鮮やかで濃厚な果実が実るようになった。
そして、僕は気づく。
――餌にしたものが「より大切なもの」であるほど、実の味が美味くなる。
◇
そこから、僕は「実験」を始めた。
子供の頃に使っていたキーホルダーを入れてみた。
すると、翌日実った果実は、濃厚な甘さとほのかな酸味を併せ持ち、強烈な味わいになった。
次に、使い込んだ万年筆を与えてみた。
その果実は、まるで一滴の蜜のように、言葉にできない美味さを持っていた。
◇
やがて、僕は、次第に「もっと大切なもの」を与えたくなった。
試しに、一枚の写真を鉢植えに入れてみた。
かつて、ある取材で訪れた町の写真。
翌日、実った果実は――これまでのものとは比べ物にならないほど、芳醇な味だった。
◇
僕は気づく。
これはもう、食べたいという欲求ではない。
確かめたいのだ。
この植物の限界を。
「どこまで大切なものを与えれば、どれほど美味い実ができるのか」を。
◇
その夜、僕はあるものを手に取った。
いつもポケットに入れている、手帳。
長年取材の記録をつけてきた、大切な手帳。
これを鉢植えに与えたら、どんな実ができるのか――。
僕は手を伸ばしかけた。
その瞬間、玄関のインターホンが鳴った。
◇
「一ノ瀬さん、開けてください。早瀬です」
◇
扉を開けると、早瀬が立っていた。
彼は僕を見るなり、鉢植えに目をやり、短く息を吐いた。
「……まだ間に合いましたね」
「何が?」
「この植物は、与えられたものを成分として果実を作ります。
そして、『大切なもの』を与え続けると、最後に『自分自身』を与えたくなる」
◇
僕は背筋が冷たくなるのを感じた。
――なるほど。
なぜ、僕が「もっと大切なものを与えたい」と思い始めたのかが分かった。
それは、この植物がそうさせていたのだ。
◇
「この鉢植えは回収します」
そう言って、早瀬は鉢植えを慎重に抱えた。
それを見ながら、僕はふと思った。
これまで食べた果実の味を――今、どれほど思い出せるだろうか、と。
◇
あれほど美味かったはずの味が、もう思い出せなかった。
完




