「微笑む女の写真」
壁には無数の写真が並んでいた。
白黒の古いものから、最近のカラー写真まで、時代もテーマもバラバラだ。机の上には未整理の写真の束。すべてがランダムに置かれ、部屋全体が「記録された時間の倉庫」のようになっている。
「ずいぶん集めたね」
僕が何気なく言うと、佐々木は苦笑した。
「昔から写真が好きなんですよ。僕の仕事みたいなものですし」
「収集家って職業なの?」
「いや……仕事はカメラマンなんですけど、こっちは完全に趣味ですね」
なるほど、と僕は相槌を打つ。
「写真って、いいでしょう?」と佐々木は続けた。「記憶が曖昧になっても、写真があれば、その瞬間が確かに存在したって証明できる」
「そうだね。だから僕の仕事にもなるわけだ」
「ライターでしたっけ?」
「主に取材記事を書いてる。でも、こういう話は個人的な興味で集めてるだけ」
それで、と僕は言った。
「僕を呼んだってことは、ただのコレクション自慢じゃないんだろう?」
佐々木は一瞬言葉を飲み込むような表情を見せたあと、机の上から一枚の写真を抜き取り、僕に差し出した。
「これ……ちょっと見てもらえませんか?」
僕は写真を手に取る。
集合写真だった。十五人ほどの男女が横一列に並び、背景には洋風の建物。観光地の記念写真だろうか。昭和後期あたりの撮影に見える。
「どうですか?」
「……何が?」
「違和感、ありませんか?」
僕はもう一度写真をよく見る。顔ぶれは一見して自然だし、妙な影や写り込みもない。おかしな点は――
「ここです」
佐々木が指差したのは、最前列中央に座る白いワンピースの女性だった。
細い肩。端正な顔立ち。黒髪が静かに肩にかかり、カメラをまっすぐに見つめている。
「この人が、何か?」
「この写真を撮ったとき、彼女はいなかったんです」
僕は写真を見つめたまま、少しだけ息を吐く。
「なるほど。それは怖いね」
佐々木は真剣な顔で頷く。
「元々は、彼女が写っていない写真があったんですよ。でも、気づいたらこの写真に変わっていて……元の写真がどこにもないんです」
「それはおかしい」
「でしょう? だから、僕の記憶違いかと思ったんです。でも、当時一緒に写っていた人たちに聞いたら、誰も彼女のことを覚えていなかった」
記憶違いではない。
誰も彼女を「知らない」と言う。
なら、この写真に写る彼女は――
「で、その元の写真は、なくなってしまったわけか」
「そうです。捨てた覚えはないのに」
佐々木は苦笑いし、ポケットから煙草を取り出した。
火をつけようとして、思い直したように手を止める。
「正直、この写真……気味が悪くて仕方ないんです。だって、誰も覚えていないのに、彼女はこっちを見て微笑んでいるんですから」
僕は写真の女性を見た。
確かに、彼女は微笑んでいる。
控えめな、ほんのわずかな表情の変化。
しかし、それは「カメラに向けられた笑顔」ではなく、「写真の外の何か」に向けられたものに見えた。
それが僕の想像にすぎないのか、それとも――。
「ちょっと借りるよ」
「え?」
佐々木が怪訝そうな顔をするのを無視して、僕は写真に手を触れた。
次の瞬間、視界が暗転する。
◇
目を開けると、そこは写真の中だった。
日差しが柔らかく、風が吹いている。
人々のざわめき、地面に影を落とす光。
集合写真が撮影される直前の世界。
カメラマンが「はい、撮りますよ!」と声をかける。
人々が静かに並び、シャッターの瞬間を待っている。
そして――
白いワンピースの女は、いない。
なるほど。
つまり、この写真が撮られた時点で、彼女はここにはいなかった。
なら、彼女はどこから現れた?
僕はふと、視界の隅に違和感を覚えた。
――その瞬間、背筋が冷たくなる。
集合写真の輪の外、少し離れた木陰。
そこに、彼女は立っていた。
他の誰にも気づかれず、ただ一人、僕だけを見ている。
黒髪が風に揺れる。表情は、さっき写真で見たものと変わらない。
しかし、今の彼女の微笑みは、確かに「僕」に向けられていた。
「……また、来たの?」
冷たい汗が流れる。
「また?」
どういう意味だ。
僕は彼女に会ったことなどない。
――はずだ。
だが、頭の奥で、何かが蠢いている。
……この女性の名前は。
――……。
思考が、引きずり込まれるような感覚に襲われる。
その瞬間、意識が弾かれるように現実へ戻った。
◇
ふと、足元を見る。
――影が、もう一つ増えている気がした。
完




