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「笑わない男」

僕がこの話を聞いたのは、ある取材の帰りだった。


 馴染みの編集者と食事をしていた時、何気ない会話の中で彼は言った。


 「そういえば、一ノ瀬さん。『笑わない男』の話、知ってます?」



 ――笑わない男?


 それだけなら、珍しくもない。

 世の中には無表情な人間もいれば、感情を表に出さない人間もいる。


 だが、編集者の語る「笑わない男」は、そういう話ではなかった。


「彼は、笑うのをやめたんです。ある日を境に、完全に」


 その言葉には、どこか引っかかるものがあった。

 僕は興味を抱き、詳しく話を聞くことにした。



 「笑わない男」――その名は 柏木かしわぎ 直人なおと

 とある企業に勤める、ごく普通の会社員だった。


 彼の同僚や友人に話を聞くと、彼は昔は普通に笑っていたという。

 だが、三年前のある日を境に、彼は一切笑わなくなった。



 それだけなら、ただの気分の変化かもしれない。

 しかし、奇妙なのは彼の周囲の人間たちだった。


「彼と長く一緒にいると、表情が消えていくんです」


 そう話すのは、彼の部下の女性だった。

 最初は気のせいかと思ったが、気づくと会社の同僚たちも、次第に感情を表に出さなくなっていたという。



 僕は彼に直接会うことにした。

 オフィスビルのロビーで待ち合わせをすると、定時を過ぎた頃、柏木は現れた。


 スーツ姿の彼は、一見すると普通の会社員だった。

 ただ、印象として――「薄い」 という感覚があった。


 それは外見の問題ではなく、存在感そのものが薄い。

 まるで、空気に紛れてしまうような、ぼやけた印象だった。



「柏木さんですね。お時間いただきありがとうございます」


「……ええ」


 無表情なまま、彼は短く答えた。


「僕のことを取材して何か面白いことがあるんですか?」


 声にも抑揚がない。

 感情がないわけではないが、それを表に出すことが極端に少ない。



 僕はストレートに聞いた。


「三年前から笑わなくなったと聞きました。何か理由が?」


「……笑うのをやめただけですよ」


「きっかけは?」


「……特にありません」



 嘘だった。

 質問のたびに彼はわずかに視線をそらし、答えを濁していた。


「ただ、笑わないでいると……楽なんです」


 彼はそう呟いた。

 楽、というのはどういう意味なのか。

 彼は答えず、ただ淡々と言った。


「人間は、笑わなくても生きていけますから」



 柏木が笑わなくなった日を調べると、その日に彼の親しい友人が亡くなっていたことが分かった。

 その友人は、ある事故に巻き込まれたらしい。


 しかし、その時の目撃証言に、僕はひっかかった。


「彼は、笑いながら死んでいたんですよ」


 友人の死に顔は、満面の笑みだったという。


 ――それ以来、柏木は笑わなくなった。



 柏木の部下だった女性が、僕にこんなことを言った。


「先輩と一緒にいると……自分も笑えなくなるんです」


 会社の同僚たちも、柏木と接しているうちに笑わなくなったという。

 やがて、冗談を聞いても、面白いことがあっても、「笑おう」という気が起きなくなる。


 それだけではない。


「表情がなくなっていくんです」


 最初は小さな違和感だったが、徐々に顔の筋肉が動かなくなり、気づけば 「何も感じなくなる」。



 取材の終わりに、僕は再び柏木と会った。


「僕のことを記事にするんですか?」


「……いや、どうしようかと迷っている」


 僕は、彼と話していて、ひとつの違和感を抱いていた。


 それは――


「彼の顔が、もともと『描かれていなかった』ように見える」 ことだ。



 もちろん、彼にはちゃんと顔がある。

 だが、どこか「輪郭が薄い」というか、記憶に残りにくい。


 まるで――


「彼の顔が、存在しなかったかのように消えていく」



 取材を終えて数週間後、僕は編集者と再び話していた。


「そういえば、柏木さんの件、記事にするんですか?」


「いや……もう少し考える」


 僕はあの日以来、何度か彼のことを思い出していた。


 しかし、不思議なことに――


 柏木の顔が、思い出せない。



 声は覚えている。

 話した内容も思い出せる。


 けれど、顔だけが、まるでぼやけるように思い出せなかった。



 数週間後、彼の部下だった女性と再び会った。


 彼女は疲れた表情で言った。


「…私も笑い方を忘れてしまいました」


 彼女の顔は、どこか無表情になっていた。



「ねえ、一ノ瀬さん……」


「柏木先輩って、どんな顔をしてましたっけ?」


 その瞬間、僕の背筋が凍った。


 僕も、彼の顔を、思い出せなかったからだ。


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