「笑わない男」
僕がこの話を聞いたのは、ある取材の帰りだった。
馴染みの編集者と食事をしていた時、何気ない会話の中で彼は言った。
「そういえば、一ノ瀬さん。『笑わない男』の話、知ってます?」
◇
――笑わない男?
それだけなら、珍しくもない。
世の中には無表情な人間もいれば、感情を表に出さない人間もいる。
だが、編集者の語る「笑わない男」は、そういう話ではなかった。
「彼は、笑うのをやめたんです。ある日を境に、完全に」
その言葉には、どこか引っかかるものがあった。
僕は興味を抱き、詳しく話を聞くことにした。
◇
「笑わない男」――その名は 柏木 直人。
とある企業に勤める、ごく普通の会社員だった。
彼の同僚や友人に話を聞くと、彼は昔は普通に笑っていたという。
だが、三年前のある日を境に、彼は一切笑わなくなった。
◇
それだけなら、ただの気分の変化かもしれない。
しかし、奇妙なのは彼の周囲の人間たちだった。
「彼と長く一緒にいると、表情が消えていくんです」
そう話すのは、彼の部下の女性だった。
最初は気のせいかと思ったが、気づくと会社の同僚たちも、次第に感情を表に出さなくなっていたという。
◇
僕は彼に直接会うことにした。
オフィスビルのロビーで待ち合わせをすると、定時を過ぎた頃、柏木は現れた。
スーツ姿の彼は、一見すると普通の会社員だった。
ただ、印象として――「薄い」 という感覚があった。
それは外見の問題ではなく、存在感そのものが薄い。
まるで、空気に紛れてしまうような、ぼやけた印象だった。
◇
「柏木さんですね。お時間いただきありがとうございます」
「……ええ」
無表情なまま、彼は短く答えた。
「僕のことを取材して何か面白いことがあるんですか?」
声にも抑揚がない。
感情がないわけではないが、それを表に出すことが極端に少ない。
◇
僕はストレートに聞いた。
「三年前から笑わなくなったと聞きました。何か理由が?」
「……笑うのをやめただけですよ」
「きっかけは?」
「……特にありません」
◇
嘘だった。
質問のたびに彼はわずかに視線をそらし、答えを濁していた。
「ただ、笑わないでいると……楽なんです」
彼はそう呟いた。
楽、というのはどういう意味なのか。
彼は答えず、ただ淡々と言った。
「人間は、笑わなくても生きていけますから」
◇
柏木が笑わなくなった日を調べると、その日に彼の親しい友人が亡くなっていたことが分かった。
その友人は、ある事故に巻き込まれたらしい。
しかし、その時の目撃証言に、僕はひっかかった。
「彼は、笑いながら死んでいたんですよ」
友人の死に顔は、満面の笑みだったという。
――それ以来、柏木は笑わなくなった。
◇
柏木の部下だった女性が、僕にこんなことを言った。
「先輩と一緒にいると……自分も笑えなくなるんです」
会社の同僚たちも、柏木と接しているうちに笑わなくなったという。
やがて、冗談を聞いても、面白いことがあっても、「笑おう」という気が起きなくなる。
それだけではない。
「表情がなくなっていくんです」
最初は小さな違和感だったが、徐々に顔の筋肉が動かなくなり、気づけば 「何も感じなくなる」。
◇
取材の終わりに、僕は再び柏木と会った。
「僕のことを記事にするんですか?」
「……いや、どうしようかと迷っている」
僕は、彼と話していて、ひとつの違和感を抱いていた。
それは――
「彼の顔が、もともと『描かれていなかった』ように見える」 ことだ。
◇
もちろん、彼にはちゃんと顔がある。
だが、どこか「輪郭が薄い」というか、記憶に残りにくい。
まるで――
「彼の顔が、存在しなかったかのように消えていく」
◇
取材を終えて数週間後、僕は編集者と再び話していた。
「そういえば、柏木さんの件、記事にするんですか?」
「いや……もう少し考える」
僕はあの日以来、何度か彼のことを思い出していた。
しかし、不思議なことに――
柏木の顔が、思い出せない。
◇
声は覚えている。
話した内容も思い出せる。
けれど、顔だけが、まるでぼやけるように思い出せなかった。
◇
数週間後、彼の部下だった女性と再び会った。
彼女は疲れた表情で言った。
「…私も笑い方を忘れてしまいました」
彼女の顔は、どこか無表情になっていた。
◇
「ねえ、一ノ瀬さん……」
「柏木先輩って、どんな顔をしてましたっけ?」
その瞬間、僕の背筋が凍った。
僕も、彼の顔を、思い出せなかったからだ。
完