「増えるn号室」
「昨日まで、そんな部屋はなかったんです。」
そう言ったのは、あるアパートの住人だった。
彼が住んでいるのは、築40年ほどの小さなアパート。
ワンルームが10室ほど並ぶ、ごく普通の建物だったはずだった。
「でも、朝起きたら……玄関の横に、知らない部屋ができてたんです。」
彼の話が事実なら、それは明らかにおかしい。
建物の構造は一夜にして変わるものではない。
なのに、昨日まで存在しなかった「部屋」が増えている。
◇
僕は、件のアパートを訪れた。
住人の男は、恐る恐る玄関を開ける。
彼の部屋のドアのすぐ横――そこに、確かに新しい部屋のドア があった。
古びたアパートの外観とは対照的に、そのドアだけが異様に新しい。
まるで、誰かが昨夜のうちにそこだけ作り直したかのように。
「管理人に聞きましたか?」
「はい。でも、“そんな部屋は最初からある” って言われたんです。」
「他の住人は?」
「みんな、“ずっとあった” って言うんです。」
住人の記憶だけが、彼と食い違っている。
いや――“彼の記憶が消されている” のではないか?
◇
僕はドアをノックしてみた。
コン、コン。
反応はない。
試しにドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
そして、ゆっくりと扉を開ける――。
その瞬間、空気が変わった。
◇
光が一切届かない、黒い空間。
部屋の形は、普通のワンルームのはずだった。
だが、なぜか奥行きが異様に深く感じられる。
空気が重い。
湿気を帯びた匂いが鼻をつく。
カビ臭さとも違う、もっと別の、生温い湿り気。
足を踏み入れると、遠くで何かが動いた気がした。
僕は思わず、スマホのライトを点けた。
すると――
目の前の壁に、「扉」があった。
◇
僕は足を止める。
このアパートの構造は知っている。
ワンルームの奥にもう一つの扉があるはずがない。
試しに、その扉に手をかける。
――カリ……。
……内側から、小さな音がした。
◇
背筋が冷たくなる。
この部屋には、誰もいないはずだ。
それなのに、扉の向こうから微かなノック音。
コツ……コツ……。
一定の間隔で、ゆっくりと。
まるで**「開けてほしい」とでも言うように**。
◇
息を殺し、耳を澄ます。
……違う。
これは、壁の向こうから聞こえる音 ではない。
音は――僕の背後から聞こえていた。
◇
慌てて振り向く。
そこには、同じ部屋があった。
僕が今いる部屋と、寸分違わぬ空間。
しかし、一つだけ違う点がある。
その部屋の奥に、誰かが座っていた。
◇
椅子に、背中を向けたまま座る人影。
動かない。
呼吸音もしない。
ただ、“そこにいる”。
いや――違う。
これは、本当に「誰か」なのか?
◇
僕はゆっくりと後ずさる。
しかし、次の瞬間、“それ” が動いた。
首だけを、ゆっくりとこちらに向ける――。
◇
――気づいたとき、僕は廊下にいた。
振り返ると、そこには何もなかった。
新しく増えたはずのドアは消えていた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
◇
住人の男は、呆然と立ち尽くしていた。
「……え? 何の話でしたっけ?」
彼は、自分が何を怖がっていたのか、忘れてしまっているようだった。
◇
僕は最後に、スマホの写真を確認した。
アパートの廊下の写真。
そこには、確かに増えたはずのドアが写っていた。
しかし、その写真を見ていると、ふと違和感を覚えた。
僕のポケットに、何かが入っている。
取り出してみると――
見覚えのない鍵が、そこにあった。
完