「碇を飼う」
「それは、お前の罪だ。」
その声を聞いた瞬間、背中に重みを感じた。
◇
きっかけは些細なことだった。
地方のとある町で、僕は古い神社を取材していた。
この町には、代々「碇神」と呼ばれる神が祀られているという。
「船の航海安全を祈る神?」
僕がそう尋ねると、町の老人は首を横に振った。
「いや、違う。碇神は怒りの神だ。」
◇
「怒りの神?」
「人間の過ちを見逃さない神様よ。」
老人は、どこか神妙な面持ちで続けた。
「悪いことをした人間には、罰として碇を飼わせるんだ。」
「……碇を?」
「そう。見えない碇をな。罪の重さに応じて、そいつの身体に結びつけられる。重みを背負い、償うまで決して外れん。」
ふーん、と僕は頷いた。
まあ、地方に伝わる俗信としてはよくある話だ。
そのときは、ただの伝承のひとつだと思っていた。
◇
その夜、僕は神社を訪れた。
昼間に見たときよりも、鳥居が異様に大きく見える。
神社の境内は静まり返り、薄暗い石畳の先に本殿がある。
ふと、足元の感触が変わった。
まるで、急に地面が沈み込むような感覚。
その瞬間だった。
「それは、お前の罪だ。」
低く、鈍い声が響いた。
◇
その言葉とともに、僕の背中に重みがのしかかった。
まるで、大きな何かが肩に乗ったような感覚。
僕は反射的に身を震わせたが、何もいない。
◇
その場を離れて宿に戻ると、違和感が増していた。
身体が重い。
まるで、背中に何かを括りつけられているかのように。
しかし、鏡を見ても何もない。
◇
翌朝、目を覚ますと、さらに重くなっていた。
起き上がろうとすると、布団が沈み込むような感覚がある。
まるで、見えない何かが自分を押さえつけているように。
僕はゆっくりと立ち上がった。
立てないわけではない。
ただ、確実に、昨日よりも重くなっている。
◇
翌日、再び町の老人を訪れた。
僕は静かに言った。
「……何かが、くっついている気がする。」
老人は、僕をじっと見つめた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「碇を飼わされたな。」
◇
「お前が何をしたかは知らんが、碇神に背いた者には、その罪の重さに応じて碇がつけられる。」
「……どうすれば、外れる?」
「罪が消えるまで。」
老人は短く答えた。
◇
その日から、僕の身体は少しずつ重くなっていった。
日常生活はできるが、常に何かを背負っているような感覚。
エレベーターに乗ると、自分の体重が数キロ増えたように感じる。
歩くたびに、地面が沈み込むような気がする。
◇
そして気づいた。
ある行動を取るたびに、碇の重みが増している ことに。
◇
碇が重くなる瞬間は、決まっていた。
・嘘をついたとき。
・他人を見下したとき。
・何かを誤魔化そうとしたとき。
日常の中で「罪」に近しい行動をとるたびに、
身体がわずかに重くなる。
◇
やがて、歩くことさえ苦痛になり始めた。
◇
宿の部屋で横になりながら、僕は思った。
――このまま、動けなくなるんじゃないか?
◇
「碇はどうすれば外れる?」
再び町の老人を訪ねると、彼は答えた。
「碇は贖罪の証だ。お前が本当にそれを手放したいのなら、贖え。」
「……贖う?」
「お前が重いと感じているなら、それはお前の中にあるものだ。」
◇
その言葉を聞いたとき、僕はふとあることを試してみることにした。
◇
――誰かのために、何かをする。
◇
他人の荷物を運んだり、道を譲ったり、善意を意識的に行う。
すると、ほんのわずかにだけ、身体が軽くなった気がした。
◇
それは気のせいかもしれない。
だが、確かに何かが変わり始めていた。
◇
数日後、僕は宿を出た。
身体の重みは、完全には消えていなかった。
しかし、歩くことはできる。
◇
宿を出る前、町の老人が言った。
「お前が“それ”を感じたなら、お前はすでに知っているはずだ。」
「何を?」
「怒りの神が、本当に罰を与えたのかどうかを。」
◇
僕は、何も答えなかった。
◇
町を離れるとき、背中がわずかに軽くなった気がした。
それが「碇」が外れたからなのか、それともただの気のせいなのか。
僕には、もう分からなかった。
完