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『喋るダンボール』

声は必ずしも、人間の口から発せられるとは限らない。

 録音機やスピーカーはもちろん、風に鳴る看板や、錆びたドアの軋みだって、耳の悪い人間からすれば「誰かの声」に聞こえることがある。

 人は音を意味あるものに変換してしまう生き物だ。たとえそれがただの空耳でも、意味を求めてしまう。


 だから、「物が喋った」という証言は、大抵は錯覚か冗談で片付けられる。

 ——だが、それが自分の名前を呼んだ場合、笑って済ませられる人間がどれだけいるだろうか。


 僕はオカルトについて普通の人よりは深く接しているが、「喋る物」についての話は滅多に耳にしない。

 幽霊や怪異は、人間の形をしていた方がわかりやすいし、怖がられやすい。

 段ボールや机や石ころが話し出しても、大半の人間は冗談だと思うか、可愛いキャラクターにしてしまう。

 だが、現実に遭遇してみれば、わかる。

 ——可愛いどころか、ひどく無遠慮で、息苦しい存在だということが。


 この話は、そんな「喋る物」の中でも、とびきり質の悪い相手との遭遇記録だ。

 いや、正確に言えば、「呼びかけてくる物」とでも言うべきか。

 なぜならそいつは、こちらが答えるまで、延々と名前を呼び続けたのだから。



取材のきっかけは、地方紙の片隅に載っていた小さな記事だった。

 「市内の空きビル、取り壊し前に見学ツアー」——観光資源にもなりそうにない、古臭い鉄筋コンクリートの建物である。

 わざわざ足を運ぶ物好きが何人いるのか疑問だったが、こういう場所には妙な噂がくっつきやすい。僕の仕事は、そういう“妙”を拾い集めることだ。


 現地は、商店街の外れにぽつんと残っていた。

 外壁はくすんだ灰色で、あちこちの窓ガラスはヒビや曇りで中を覗かせない。

 入口に立てられた立て看板には「安全のため立ち入り禁止」とあるが、鍵は掛かっておらず、見学ツアーの告知用チラシが風にひらひらと揺れていた。

 この手の“立入禁止”は、好奇心を持った人間を呼び込むための札のようなものだ。


 内部は、埃と湿気が絡みついた空気で満ちていた。

 階段の手すりはべたつき、足音はコンクリートの壁に吸い込まれてゆく。

 最上階の事務室や会議室には、もう何年も動かされていない机やパーティションが並び、天井から垂れた蛍光灯のコードが蜘蛛の糸のように揺れていた。

 人の気配はないのに、何かに見られているような、妙な温度の視線が背中に絡みつく。


 問題の段ボール箱を見つけたのは、地下倉庫だった。

 鉄扉の奥に広がるその部屋は、かつて商品の在庫や備品を詰め込んでいたらしく、棚だけが骨組みのように残されている。

 床の中央に、それはあった。

 背丈の半分ほどもある、大きな段ボール箱。

 色は日焼けしたように薄く、側面には配送業者のロゴが掠れて残っている。


 妙なのは——そこから、自分の名前が聞こえたことだ。

 最初は空耳だと思った。地下は音が反響するし、外の物音が奇妙に響くこともある。

 だが、耳を澄ますと、それは確かに低く、湿った声で「イチノセ」と呼んでいる。

 男とも女ともつかない声。吐息混じりの囁き。

 まるで、僕の返事を期待しているかのようだった。


 蓋を開けると、中は空っぽだった。

 緩衝材が数枚、しけた海苔のように底に貼りついているだけ。

 だが、蓋を閉じた瞬間、また声がした。

 ——今度は、少しだけ近くから。



 その翌日、僕は別の取材先にいた。

 県境近くの小さな集落で、廃業した駄菓子屋の持ち主に話を聞いていたのだ。

 あの段ボールのことは、頭の片隅に押し込めていた。

 廃ビルの地下で変な幻聴を聞いた——そういう曖昧な記憶は、忘れた方が身のためなことが多い。


 だが、駄菓子屋の裏手で、僕はそれを見つけた。

 店の勝手口脇、積み上げられた古新聞と空き瓶の間に、あの段ボール箱が鎮座していた。

 大きさも、日焼けの具合も、配送ロゴの掠れ方まで一致している。

 偶然の一致、とは言えないほどの一致だ。


 立ち止まった瞬間——声がした。

 「イチノセ」

 昨日よりもはっきりしている。声の質感は、地下で聞いたあの湿った囁きのままだ。

 僕は返事をせず、ただ数歩近づいて箱を覗き込む。

 中はやはり空っぽ。

 だが、蓋を少し押さえたとき、声がこう変わった。

 「僕」


 呼び方の変化は、妙に生々しい。

 まるで相手が、僕との距離感を詰めてきているようだった。

 昨日は名字、今日は一人称——明日は何と呼ばれるのか。


 三日目の夜、自宅のマンションの廊下で、再びその箱を見つけた。

 今度は他の住人の荷物に紛れて、玄関前に置かれていた。

 箱を持ち上げた瞬間、耳元で「おまえ」と囁かれる。

 声は、もはや外からではなく、耳の奥で響いているようだった。


 その夜、僕は眠れなかった。

 部屋の隅に何かが置かれている気配がして、暗闇を見つめ続けた。

 電気をつける勇気は出なかったが——

 なぜか、段ボールの蓋を開ける音だけは、はっきりと聞こえた。



翌朝、部屋の隅には何もなかった。

 だが、あの夜の「蓋を開ける音」は、耳にこびりついて離れない。

 音は、現実の音と同じ重みを持っていた。

 夢だったと片付けるには、あまりに鮮明すぎる。


 四日目の夜、ついにそれは現れた。

 僕の部屋の片隅、観葉植物の横に、あの段ボール箱が置かれていた。

 ドアを開けた瞬間から、すでにそこにあったような自然さで。

 引っ越し以来一度も見たことがないサイズの箱が、まるで家具の一部のように鎮座していた。


 蓋は完全には閉じておらず、わずかな隙間から中が覗ける。

 暗い——それ以上に、暗すぎる。

 そこだけ光を吸い込むような、色も形もない闇が溜まっている。

 普通なら、中が見えない暗がりでも目が慣れれば何かしらの輪郭を掴めるものだ。

 だがその闇は、目を凝らせば凝らすほど形が遠ざかる。

 視覚そのものを拒むような、質の悪い暗さだった。


 「……おまえ」

 囁きは、もはや耳元ではない。

 頭蓋の内側で直接響いている。

 心臓の鼓動と同じリズムで繰り返されるその声は、やがて「来い」に変わった。


 僕は腰を落とし、箱に近づいた。

 内側から視線を感じる。

 蓋の下で、誰かが顔を寄せて、僕を見上げている気配。

 そのとき、わずかに何かが動いた。


——指だった。



 内側からそっと蓋を押し上げ、外気を確かめるように伸びてくる。


 僕の指先と、その指が触れた。

 冷たくも温かくもない、不気味な“人肌”の感触。

 そのまま、箱の中に引き込まれそうになる。



 僕は反射的に手を引く。

 その瞬間、段ボールの蓋が小さく震えた。

 中に何かがいる——確信はあったが、視界にはまだ何も映らない。


 カッターを手に取り、蓋のテープ部分に刃を入れる。

 段ボールを切る、あの乾いた音は部屋に響いた。

 箱の中の“何か”は抵抗する様子もなく、ただ黙ってそこにいた。

 切り込みを入れ、勢いよく蓋を開ける。


 ——空っぽ。


 文字通り何も入ってはいなかった。

 そして底には、湿った緩衝材が数枚貼りついているだけ。

 手を突っ込んでも、指先に触れるのはざらついた段ボールの壁面だけだ。


 だが、覗き込んだ僕の耳に、再びあの声が落ちてきた。

 「——おまえは、箱の外にいるつもりか?」


 鼓膜ではなく、脳の奥に直接突き刺さるような響き。

 思わず箱をひっくり返し、床に叩きつける。

 そのとき——段ボールの影が、部屋の照明の下でわずかに“遅れて”揺れた。

 まるで、箱そのものが別の何かを映しているように。


 数秒後、影は床からすっと消えた。

 じっとりと嫌な汗をかいた僕の目の前には、ただの空の段ボールだけが残っている。

 箱の縁から滴り落ちた水滴はカーペットに暗い染みを広げていく。



 気づくとその夜のうちに段ボールは消えた。

 玄関の鍵も窓も閉めたまま、物音ひとつしなかったはずなのに——朝起きると、部屋の片隅は空っぽになっていた。

 あの大きな段ボールが消えるには、それなりの音や動きがあったはずだ。

 だが、僕の記憶には何も埋まっていない。


 代わりに、そこには小さな封筒が置かれていた。

 茶色いクラフト紙に、黒いインクで僕の名前が書かれている。

 開けると、中にはポラロイド写真が一枚だけ入っていた。

 それは——僕の部屋を、部屋の隅から撮った写真だった。


 写真の中央には、椅子に腰掛ける僕がいる。

 そして僕の背後、クローゼットの横に——

 段ボールがあった。

 蓋は半分開き、暗闇の奥から白い指が覗いている。


 写真の裏には短く、こう書かれていた。

 「まだ、外にいるつもりか?」


【終】

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