『裏窓の景色』
窓は、外を見るためのものだ。
だが同時に、外からこちらを覗くための穴でもある。
そこから見えるのが、見慣れた景色なら安心できる。
だが、見えるはずのない景色が広がっていたら——
それは“外”なのか、“内”なのか。
僕はある夜、取材先の下宿でその答えを知ることになった。
◇
その下宿は、駅から歩いて二十分ほどの、古い商店街の外れにあった。
取材のため少しの間滞在することになり、案内されたのは二階の端の部屋。
窓は二つ——表通りに面したものと、もう一つは裏の蔵に向かって開いていた。
昼間に覗いた裏窓は、煤けた蔵の壁が間近に迫っており、陽の光もほとんど差し込まない。
特に興味も湧かず、カーテンを閉めて過ごした。
——一日目の夜。
何となくカーテンを開けてみると、そこにあったのは、昼間見たはずの蔵ではなかった。
広がっていたのは、月明かりに揺れる海。
波が静かに寄せては返し、遠くで白く砕ける音が、確かに聞こえる。
潮の匂いまで、部屋の奥まで運ばれてきた。
僕は呆然としながらも、しばらく見惚れていた。
その時、視界の端に黒い影が映った。
窓枠の右端——そこに、誰かの背中があった。
◇
二日目の夜も、僕は裏窓のカーテンを開けた。
そこに海はなく、代わりに雪山が聳えていた。
白い稜線は月光を反射し、空気は冷たく張り詰めている。
開け放った窓から、粉雪が一片だけ部屋に舞い込んだ。
昨日と同じ位置に、その背中があった。
分厚い冬服を着ているようで、雪を払う仕草もしない。
距離は昨日より近い気がしたが、顔は相変わらず見えない。
三日目の夜——裏窓の向こうは、朽ちかけた森だった。
風も虫の声もない。
背中の人物はさらに近づき、肩の線や髪の長さまでわかるほどになっていた。
ただ、森の木々の間から、何かがこちらを覗いている気配があった。
目ではなく、意識そのものを覗かれているような感覚。
思わず窓を閉めると、外の景色は一瞬だけ蔵に戻り、またすぐに森へと変わった。
まるで、「逃がさない」と言われたような気がした。
◇
四日目の夜、僕は決心してカメラを手に裏窓を開けた。
景色は荒れた湿原。空は鉛色で、風が低く唸っている。
その湿原の中央に、やはり背中があった。
カメラを構えてシャッターを切る。
液晶には、いつもの煤けた蔵が映っているだけだ。
現実とレンズが、違うものを見ている。
もう一歩、窓枠に足をかけて身を乗り出す。
背中の人物は、湿原の泥を踏む音もなく、ただ静かに立っていた。
その肩が、ゆっくりとこちらに向かって動き出す。
——顔が見える。
そう思った瞬間、全身に冷たい電流が走った。
直感でわかった。このまま視線を合わせれば、二度と元の部屋には戻れない。
僕は慌てて窓を閉めた。
ガラス越しに見えた背中は、動きを止め、湿原に溶けるように消えていった。
◇
翌朝、女将に昨夜のことをそれとなく話してみた。
彼女は少しの間黙り込み、やがて古い箪笥の引き出しから、一枚の写真を取り出した。
色褪せたモノクロ写真には、この下宿の裏手と、まだ新しかった蔵が写っている。
その手前に、小柄な人物の背中があった。
「……昔、この辺りで人が一人、蔵の向こうへ消えたのさ」
女将はそう言った。
「探しに行った者は、みんな帰ってこなかった。
姿を見たって言う人はいるけど、みんな“背中しか見えなかった”って言うんだよ」
女将の指が写真の背中をなぞった。
僕は息を呑む。昨夜まで裏窓で見ていた背中と、形も大きさもまるで同じだった。
「……あんた、窓から身を乗り出したりはしなかっただろうね?」
その問いかけは、半分は冗談のように聞こえたが、目は笑っていなかった。
◇
最終夜、カーテンを開ける手が震えていた。
裏窓の向こうには、現実の蔵が立っている——はずだった。
だが、その蔵の前に、背中があった。
今度は確かに、この世界の蔵の前に。
月明かりに照らされ、その背中がこちらに向かってゆっくりと手招きしている。
喉がひゅっと縮まり、全身の筋肉が硬直する。
窓を閉めようとしたが、動けない。
背中が一歩、また一歩と近づくたび、部屋の空気が海や雪や森の匂いに変わっていく。
それは今まで見てきた、あらゆる景色の匂いが混ざり合ったものだった。
僕は目を閉じ、全力でカーテンを引いた。
何も聞こえない。
ただ、心臓の鼓動だけが耳の奥で響いていた。
——翌朝、裏窓の外の蔵の壁に、黒い染みができていた。
それは、両腕を広げた人影の形をしていた。
肩幅も、姿勢も、僕と同じだった。