「昨日の隣人」
世界は少しずつ変化している。
だから、人は安心する。
朝起きるたび、昨日とは違う空の色があるから。
同じことが二日続くと、それは習慣になる。
けれど、三日続くと、ふと怖くなる。
——時間が進んでいるのは、自分だけなのかもしれない、と。
これは、そんな三日目に出会った“隣人”の話だ。
◇
短期滞在の取材で借りたアパートは、二階建ての古い建物だった。
廊下はやや歪んでいて、足音が木材に吸い込まれるように響く。
初日の夕方、荷物を運び込んでいると、隣の部屋のドアが開いた。
中から出てきたのは、四十代くらいの男性。
ごく普通のグレーのカーディガンにチノパン。髪は短く、眼鏡をかけている。
いかにも穏やかな「隣のおじさん」という感じだった。
「今日もいい天気ですね」
そう声をかけられ、僕も軽く会釈して返した。
「そうですね」
それだけの、短いやりとりだった。
特に気にも留めなかった。
⸻
翌朝。
部屋を出ると、ちょうど同じタイミングで隣のドアが開いた。
「今日もいい天気ですね」
服装も、声も、昨日と同じ。
偶然だろうと思って、昨日と同じように会釈して通り過ぎた。
⸻
三日目。
同じ時間、同じ音で、隣のドアが開いた。
「今日もいい天気ですね」
言葉尻まで、一字一句、初日とまったく同じだった。
僕はそこで初めて足を止めた。
廊下には僕と彼の二人だけ。
壁の時計も、足元の影も、昨日と変わらない位置にあった。
◇
その日から、僕は意識して耳を澄ますようになった。
隣室のドアが開くタイミングは、いつもぴったり同じだった。
僕がドアノブに手をかけると、一呼吸置いて、隣も開く。
まるでこちらの動作に合わせた録音テープのように。
そして、同じ言葉が繰り返される。
「今日もいい天気ですね」
声の抑揚も、笑顔の角度も、変わらない。
その後、僕がわざと廊下で立ち止まってカバンを探すふりをしても、
物音を立てた瞬間にドアがわずかに軋んで開く。
偶然で済ませるには、不自然すぎる。
⸻
さらに奇妙だったのは、夜だ。
隣室から、生活音が一切しない。
テレビも、足音も、水の流れる音もない。
耳を澄ませば澄ますほど、まるで空き部屋のような沈黙が広がっている。
だが、翌朝になると必ず同じやり取りが待っている。
⸻
四日目の朝、僕は少し早く起きて廊下を覗いた。
薄暗い廊下の突き当たり。
隣室のドアの下の隙間には、昨日と同じように薄く光が漏れていた。
時間が進んでいるのは、本当に僕だけなのか——そんな考えがよぎった。
◇
五日目の午後、僕はいつより早い時間。普通なら少し迷惑かも知れないと躊躇する時間。彼の部屋をただ寝ることにした。
インターホンを鳴らしても住人は出てこなかった。
知り合いか宅配でなければ出ない人間は一定数いる。
しばしの沈黙の後何気なくドアの取手に手をかける。
鍵はかかっていなかった。
職業柄勝手に入るなんて日常茶飯事だった。
決して褒められたことではないが他人様の家に僕は当たり前のように不法侵入した。
こういう場合、経験上大抵は問題やトラブルにならない。
存在自体が問題な場合が大半だからだ。異形。怪異。様々な言い方があるかも知れないがこういう場合はそういう類だった。
部屋の中にはいると驚くほど生活感があった。
きちんと畳まれた洗濯物、半分読みかけの新聞、机の上の湯呑み。
一見すると普通の部屋だ。普通で普遍。普通過ぎて不自然。不自然なのに正常。そんな奇妙な感覚が僕の中を駆け巡る。
しかし、一歩中に入った瞬間、空気は異様に重かった。
湿度や匂いではなく、時間だけが部屋の中で止まっているような感覚。
壁に掛かったカレンダーは、三日前の日付のまま。
置き時計は、秒針が三時二十二分で止まっている。
リビングの窓から見える風景さえ、どこか無音だった。
⸻
奥の部屋のドアが、わずかに開いていた。
恐る恐る覗くと、椅子に腰掛けたままの彼がいた。
背筋を伸ばし、正面を見据えたまま動かない。
……いや、動いていないのではなく、動く必要がないとでもいうように。
昨日と同じ服。
昨日と同じ姿勢。
昨日と同じ表情。
僕が視線を送ると、その目がゆっくりとこちらに向いた。
そして、声もなく口が動いた。
「今日もいい天気ですね」
音はなかった。
だが、昨日と同じ言葉だけが、頭の中に響いた。
◇
次の朝、廊下に出るのが怖かった。
昨日と同じタイミングで隣室のドアが開き、
またあの言葉が繰り返されるのだろう、と。
ドアノブをゆっくり回す。
……やはり、隣も同時に開いた。
「今日もいい天気ですね」
同じ声。
同じ服。
同じ表情。
だが、その後に、一瞬だけ沈黙があった。
そして、ごく小さな声で、言葉が続いた。
「……あなたは、進むんですね。」
その一言だけで、時間が止まった気がした。
目の前の彼は、昨日までと同じように見える。
でも、その瞳の奥で、かすかに水面が揺れるような動きがあった。
それは、録音のような繰り返しから初めて逸脱した瞬間だった。
僕が何か言い返そうとした時には、
彼はもうドアを閉めていた。
◇
翌朝、廊下は妙に明るかった。
いつもと同じ時間にドアを開けても、隣室のドアは開かなかった。
叩いても返事はなく、管理人に確認しても「退去届は出ていない」という。
鍵を開けて中を覗くと、前に見たままの整った部屋がそこにあった。
ただ一つ違っていたのは——
あの椅子が、空になっていたことだ。
机の上の時計は、昨日の朝の時刻を指したまま止まっている。
そこだけ時間が閉じ込められたような静けさがあった。
⸻
アパートを出る階段の途中で、ふと足を止めた。
誰もいない廊下の向こうから、かすかな声が聞こえた気がした。
「今日もいい天気ですね」
風に揺れた木々のざわめきか、残響のような声だったのか。
振り返っても、そこには誰もいなかった。
◇
人は、変わらないものに安心し、
変わらなさすぎるものに怯える。
その人は、変わらない時間の中で
何を待っていたのだろう。
そして、あの小さな一言で、
何を手放すことに決めたのだろうか。
【終】