「代償の多い料理店」
「あの店で食べると、戻れなくなるらしい。」
そんな噂を聞いたのは、深夜の居酒屋だった。
取材帰りに軽く飲んでいたとき、隣のテーブルで話していた男たちの会話が耳に入った。
話の中心は、ある食堂についてだった。
「安くてうまいらしいが、やめとけって話だ。」
「何か変なのか?」
「……食った奴が、全員同じ顔になるらしい。」
そこで、僕は酒を置いた。
◇
話を聞いた限り、その店に行った者は誰も「戻れなくなった」わけではなかった。
では、“同じ顔になる” とはどういう意味なのか?
都市伝説としては興味深いが、どうも曖昧な部分が多い。
ならば、直接確かめるしかない。
僕はその店の場所を尋ねたが、男たちは「どこにあるのか分からない」と言う。
何度も行ったことがあるのに、思い出せない。
「歩いてると、いつの間にか見つかるんだよ。」
「でも、次の日には場所が分からなくなる。」
まるで、「入れる者」と「入れない者」がいる店のようだった。
◇
それから数日間、僕はその店を探した。
聞き込みをしても、詳細な場所を知っている者はいなかった。
だが、共通して出てくる証言があった。
「赤い暖簾」
「店主は無口な男」
「メニューはないが、頼むと何でも出てくる」
そんな店が本当に存在するのか?
何度も裏路地を巡ったが、それらしき店は見つからなかった。
そして、半ば諦めかけた頃――ふと、細い路地を覗いたとき、そこに赤い暖簾のかかった食堂 があった。
◇
扉を開けると、そこは狭い店だった。
カウンターが数席、小さなテーブルが二つ。
壁には何の装飾もなく、メニューも貼られていない。
店主は、噂通り無口な男だった。
50代くらいだろうか。寡黙に包丁を研いでいる。
客は一人もいない。
僕はカウンターに座り、軽く咳払いをした。
「何か、食べられますか?」
店主は何も言わず、うなずいた。
その仕草は、まるで「客が来るのが当然であるかのような」自然さだった。
◇
何を出されるのか分からないまま、僕は待った。
しばらくして、店主は無言で料理を出してきた。
それは、どこにでもあるような親子丼だった。
奇をてらったものではない。
普通の丼に、普通の具材。
だが――妙に香りが強い。
腹が減っていた僕は、試しにひと口食べた。
――うまい。
いや、異様なまでに”うまい”。
それだけでなく、懐かしさすら感じる味 だった。
どこかで食べたことがある気がする。
だが、それがいつどこだったのか、思い出せない。
◇
気づけば、丼は空になっていた。
「ごちそうさま。」
僕が礼を言うと、店主は静かにうなずいた。
その表情を見て、違和感を覚えた。
どこかで見た顔のような気がする。
◇
食堂を出ると、妙に静かだった。
深夜の街だから当然かもしれないが、空気の密度が変わったような違和感 がある。
少し歩いたところで、ガラスに映る自分の顔を見た。
――いや、僕の顔ではない。
何かが、違う。
◇
翌日、僕はもう一度あの店を探した。
だが、どこを探しても見つからなかった。
店があったはずの路地は、ただの行き止まりになっていた。
それどころか――
昨夜、あの店で食事をしたこと自体が、夢だったのではないかとすら思えてきた。
◇
その後、僕はふと、街を歩く人々の顔を観察するようになった。
すると、あることに気づいた。
すれ違う人々の中に、僕と同じ顔をした男がいた。
――いや、“僕の顔” ではない。
昨夜、食堂で見た店主の顔。
◇
あの店で食事をした者は、どこかの時点で「店主」になるのではないか?
あるいは――
「店主の顔になる」のではないか?
もしそうだとすれば、次に店が現れたとき、そのカウンターの向こうには誰が立っているのだろうか。
僕はそのことを考えないようにした。
なぜなら、今でも時折、赤い暖簾が目の端に見える気がするのだから。
完