9 情報
「ポリタンクに売ルことはできません。」
スタンドの従業員はそう言いながら近づいてきた。言っていることは正しい。
・・・が。
亜澄海の車がガソリンスタンドに入った時、その施設の照明は消えていた。休みのような雰囲気だったが、セルフの機械の前に車が1台停まっている。
だが、ちょっと見たところでは給油している人影は見当たらなかった。セルフの機械は電源が入っておらず、全く動作しなかった。
「気がつくのが遅かったか・・・。ここも電気がやられてる。」
亜澄海が小さく舌打ちしてつぶやいた時、照明の消えた事務所の中から1人の従業員が出てきてその言葉を投げかけてきたのだった。
「ポリタンクに売ルことはできません。」
声の抑揚がおかしい。
言っていることはこの場面では正しいのだが、その手に血のついた包丁のようなものを持っているではないか。動きがひどく緩慢で、目がオレンジ色に光っている。
亜澄海は弾かれたように車に飛び乗ると、エンジンをかけた。そのまま急発進して道路に出る。
幹線道路だが、車は全くと言っていいほど走っていない。代わりに、緩慢な動きの人影が遠くに見えた。
道路の信号機はまだ普通に点灯している。だが、それを守る必要のないほどに車の通りは少ない。
少ないが、このスタンドに来るまでのわずか1kmほどの距離の中でも、何台もの事故ったまま放置された車を見かけた。歩道に乗り上げたり、中央分離帯にぶつかっていたり。
そういう車の周りにはたいてい人影は見当たらなかったが、たまに人影を見かけると例外なく目がオレンジ色に光っていた。
普段交通量の多いこの道路を走っていたはずの車は、ドライバーは・・・皆どこへ行った? いったい何が起こっているのか?
「ニュース、何か言ってる?」
「異変が起きてるのは、桜蓮市だけじゃないみたいだ。首都圏の、あっちでもこっちでも起きてるっぽい。」
亜澄海の問いに、スマホをいじっていたらしい大樹が答えた。
「放送できなくなったテレビ局もあるみたいだぜ。」
美緒もNET情報を検索してみる。SNSでは「#停電」が「#オレンジ色」と共にトレンド入りしていた。
オレンジ色に関する雑多な情報に混じって、「学校や商業施設などが停電になった。」「ガソリンスタンドの給油機械が壊されていて使えない。」「コンビニの店長がおかしくなって電線ちぎったので、とにかく逃げた。」といった類の投稿が増えていた。
美緒たちが水たまりにあれを「発見」してから、まだ3時間ほどしか経っていない。それなのに、首都圏の都市機能が急速にマヒしてきているようだった。
なぜ、感染者たちは電気設備を破壊する? 感電死のリスクまで冒して。
なぜ、ガソリンを使えなくする?
それとも、それらはやみくもな破壊行為の中の1つに過ぎないのか?
なぜ、車は事故っていた? 車の中で感染することはなさそうなのに・・・。
なぜ? なぜ? なぜ?・・・・・
謎だらけだ。圧倒的に情報が不足している。何ひとつ確かなものはなく、ただ断片的な情報だけが散乱している。
NET時代の現代日本では、スピーディな情報の入手は当たり前にできるものだと思っていたのに——。
まるで、情報の断片の紙吹雪の中で視界が遮られてしまったようだ。
NETニュースによれば、駅や中心街には感染者があふれかえって破壊や略奪行為も増え始めているということだった。
「どうやって取材してんだろうな? こういう情報・・・。」
大樹が、ぼそり、と言う。
「え?」
「映像のこっち側にはカメラがあって、それを撮影している人がいるはずなんだ。少なくとも、まだ感染していない・・・」
言われてみればその通りだ——と美緒は思った。ニュース映像ってなにげに見てるけど、必ずそれを撮影している「人」がこっち側にいるんだよね。
「自分たちがこの経験してなきゃ、オレはこういう映像、フェイクだと思っちまうだろうな。」
大樹が独り言のようにそんなことを言った。
金森って、普段バカばっかりやってるようだけど、頭いいんだな。
緑ヶ丘公園に戻ると、全員で1つのスマホを覗き込んでいた。ニュースを見ていたのだろう。亜澄海たちの顔を見ると、みんな救助隊でも来たような顔をした。
「いや、遅いんで心配してました。」
市川先生が、心底ホッとしたような表情で言う。
「すみません。東小にも食料届けてたもので。」
「そうでしたか。お金、大丈夫でしたか?」
「コンビニは無人で、ガラス割られてましたし。電線引きちぎられて冷蔵庫なんかもダメになってましたから、緊急事態ということで——。」
亜澄海がさらっと言うと、大樹がにっと笑って親指を立てて見せる。市川先生は呆気に取られた顔をした。
「オレたちが最初の略奪者。」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。」
「ポリタンクも持ってきたんですか?」
食料をワンボックスに移動しながら、市川先生が聞いた。
「ガソリンを手に入れようと思ったんですけど・・・。すでにスタンドもダメになっていました。」
「停電してて、機械動かなかったんだよ。店員も感染してたしな。」
最初、美緒の言うことを茶化していた大樹も今はすっかり状況に適応している。こいつの現実適応力って・・・。
美緒の方がまだ少し、夢の中にでもいるような感覚から抜け出せないでいる。
「どこへ行くにしても、ガソリンが切れたらこの先入手できるアテがないかもしれませんから。」
亜澄海が言うと、市川先生もハッとした顔をした。
「それは・・・、考えから抜け落ちてました。・・・・たしかに・・・」
「んなもん、放置された車から抜きゃいいだろ?」
大樹が言うとみんな唖然とした顔をしたが、すぐに亜澄海がにっと笑った。
「そうだな。キミは合理的だな。」
そう言ってまた大樹の頭をぽんぽんした。大樹は「小学生じゃねーぞ」って顔をしたが、何も言わず、されるままになっている。
お母さん・・・。すっかり金森を手懐けてる・・・?
「そうなると・・・」
と、今度は市川先生が考え込むような目をして言った。
「スマホの充電のことも考えないといけませんね。アダプターがあるから車からも充電できますが、ガソリンが簡単には手に入らないとなると・・・。情報は何より大事ですからね。どこへ逃げるにしても——。」
「うちに戻れば、手回し発電機があります。」
市川先生のワンボックスの中にいた財田佑美が話に加わった。
「ああ、それは助かる。後で寄ろう。」
「それより、市川先生。」
亜澄海が口を挟んだ。
「水に何か変わったものはありましたか?」
「いや、何も。顕微鏡で見る限りは——。あのオレンジ色の何かは捕まえて顕微鏡に乗せることはできませんしね。一応、水質検査もやってみますが、持ってきてもらった検査キットで測れるのはpHとCODくらいですからね。」