74 市川先生!
政府の職員が持ってきてくれたアナログ無線機が、ザ……ザ……と雑音を鳴らしてから、この部屋に久しぶりの市川先生の声を届けた。
「すみません。大変な時に一緒にいられなくて……。あの……感染したのはどなたです?」
それだけを言って、無線機は「ぷつっ」と音を途切れさせた。返事待ちの状態だ。
大樹が美緒の顔を見て、美緒が亜澄海の顔を見る。
「出て。美緒。」
亜澄海のその言葉で、美緒が無線機に飛びついた。ボタンを押して声を出す。
「先生! ……」
言った途端、泣き声になった。すぐに言葉が継げないが、ボタンを押したままなので向こうから話すことはできない。
「み……美緒。如月美緒です。感染したのは杉村吉朗さん、沙緒里のお父さんです。」
それだけ言って、美緒はボタンから手を離した。
少し沈黙があった後、市川先生の弱々しい声が聞こえた。
「すみません……。私が……防衛省なんかに行かなければ……。」
「先生のせいじゃないです。……ただ、みんな……ちょっと、めげちゃってて……。」
美緒がそこまで言って声を詰まらせてしまうと、亜澄海が立ち上がって美緒の傍まで来た。無線機に顔を近づけ、それに話しかける。
「政府、もっと大変だそうじゃないですか。無線機、持ってきてくれた人が言ってました。先生はそちらに必要なのでしょう?」
しかし、そう言う亜澄海も声に力がない。
美緒がボタンから指を放してブツっという音が聞こえると、市川先生にしては意外なほど力のある声が帰ってきた。
「帰ります。そこにいるのは私の生徒たちですから。」
「なんとか、もう少し残っていただけませんか?」
柏原補佐官が市川に再度の説得を試みたが、市川はうつむいたまま目を合わせなかった。
「補佐官、彼はこういうやつなんです。」
稲生が柏原に、少し申し訳なさそうに言う。
「自分で推薦しておいて何なんですが……」
「いえ……。」
と柏原は稲生の方を見た。
「市川先生がいなければ、政府は壊滅していたかもしれません。『セル・システム』というご提案をいただいただけでも……。これは軍事の話だけじゃなく、行政を復活させるためにこそ使えます。ただ……できれば、もう少しここにいていただいてアドバイスがいただけたら……と。」
柏原補佐官はもう一度市川の方を見るが、市川はやはりうつむいたままだ。
「いいんだ、いっちゃん。生徒さんの所に帰ってやってくれ。心細い思いをしてるだろうから。」
稲生がそう言うと、市川はうつむいたまま目だけを上げて稲生を見た。
「……ごめん……。ぼ……私は……あの子たちを放っておくことができない、できません……。すみません。」
市川は少しずつ顔を上げて、叱られた生徒が先生を見るみたいな目で柏原の方を見た。柏原は笑い出した。
「あは! そんな顔されたら、ダメなんて言えないじゃない。」
それから背筋を伸ばして、市川の目をまっすぐ見る。
「いろいろありがとうございました先生。先生のご助言に従って、間もなく首都圏のデジタル通信の全てが止まります。そのように人を走らせてあります。あのオレンジ色も、首都圏では消えるでしょう。その後はアナログ通信網を整備しながら、日本全土へと広げてゆきます。」
「わ……私の仮説が、正しければ……ということになりますが……。」
市川はここまで言われて、かえって不安になったらしかった。
「大丈夫だ、いっちゃん。ここまでの現象は、全ていっちゃんの仮説どおりに進んでいる。」
「坂本クンがまだ渋い顔をしていたが……。」
と柏原補佐官が苦笑する。
「他国の攻撃を心配する前に、まず自国が全滅しないようにする方が優先だ。」
「セキュリティの考え方から言えば……」
稲生が専門家としての見解を言う。
「得られる利益よりリスクの方がはるかに大きい場合には、侵略的行為を起こす者はいません。拡大自殺を図るような精神状態の者は、他国への侵略や攻撃といったような大きなプロジェクトは起こせません。せいぜいが自分の周りを巻き込むくらいが関の山です。」
稲生は防衛や軍事の専門家ではないが、それでも柏原にはっきり言い切った。
「現時点で、オレンジ色以上の脅威は存在しません。」
「市川先生。どこにいらっしゃっても、連絡だけは取れるようにしておいてください。アドバイスがいただきたいことは、これからも発生すると思われますので——。」
柏原補佐官はそう言って、市川に握手を求めてきた。市川は、おずおずとその手を握る。
湿った、柔らかい手だった。




