7 逃げるだけではなく
「どこに乗せる?」
美緒が聞くと大樹が
「平田、オレと入れ替わって妹を抱えてやれ。」と言う。
はあ? おまえが女子3人の中に乗ってくるってか!?
そんな美緒たちの表情を感じ取ったんだろう。大樹は「けっ」と小さく吐き出してから別のことを言った。
「オレは歩きで行く。緑ヶ丘公園だろ? そんなに遠くねーし、オレならあんなトロい動きのヤツらに捕まったりはしねぇ。」
「それはダメだ。」
と亜澄海が即座に言った。
「大人が子ども1人放り出してそのまま行けると思うか? 玲音くん、金森くんの上に重なって座って。男の子同士ならいいだろ? そんな時間かかるとこじゃないから。玲奈ちゃんは後ろのお姉さんたちの間に入って。」
後部座席に玲奈を迎えて、玲音が助手席の大樹の上に遠慮がちに座ろうとした時、
「かわいいケツだな。1年生。」
と言ったから、玲音はバッと車の外に立ち上がった。
「冗談だよ。冗談——。」
大樹がけらけら笑った。亜澄海がハンドルを持ったまま呆れた顔をする。
「そういう冗談を言うセンスのまま大人になると、しょーもないセクハラオヤジになっちゃうぞ。」
言われて大樹は苦い顔をする。
「座れよ、1年生。なんもしねーって。」
「さっさと乗って、玲音くん。市川先生が痺れ切らしてるよ。」
大樹が玲音を抱えてドアを閉めると、亜澄海は慎重に車を発進させた。シートベルトが役に立つ状態ではないので、間違っても事故るわけにはいかない。
緑ヶ丘公園の駐車場では、予想通り市川先生の方が先に着いていて待っていた。
亜澄海の車が駐車場に着いた時、市川先生は自分の車の近くにしゃがみ込んで何かをやっていた。ワンボックスの開いたスライドドアから2人ほど子どもが覗いて見ている。財田佑美と木田誠だった。
「先生、お待たせしました? 平田くんの妹を東小まで拾いに行ってたものですから。」
「ああ、そちらは人数が増えたんですか。こちらは車に残っているのは5人ですから、3人はこっちに移動してもらいましょう。どこへ移動するにしても、車の方が安全でしょうし——。一応警察には連絡しましたが、混乱してるようですしね。」
市川先生は立ち上がった。手に携帯を持っている。そして・・・!
亜澄海たちが驚いたのは、先生の足元の水たまりにあのオレンジ色がいくつか走り回っていたからだった。
美緒は思わず先生の目を覗き込んだ。
市川先生はいつも通りの、少し頼りない目をしていた。オレンジ色に光ってはいない。
「ああ、これね。」
と先生は水たまりを指差す。
「他の水たまりにはいないでしょ。」
そう言われてみて、改めて見回すと、駐車場の中には水たまりはいくつもあったが、オレンジ色は先生の足元だけにしかいない。
それも、さっきより小さくなって数が減っているように見える。
「実験してみてたんですよ。思い当たることがあって——。」
そう言って、市川先生は手に持ったスマホを振って見せた。
「どうやら、このオレンジ色は近くでデータ通信の電波が飛び交うと、水面に発生するようです。通信を切ってしまえば、しばらくすると消えてしまいます。」
そう言って再び先生が足元を指差すと、その水たまりにはもうオレンジ色はいなくなっていた。
「通信が短かったんで、エネルギーが少ないようですね。何度やっても同じことが起こります。」
「水の中の何かが電磁波に反応するんですか?」
亜澄海が聞くと、市川先生はちょっと首を傾げた。
「いや・・・、電磁波にではなくデータ通信の量に対してみたいです。ネット検索を繰り返すと現れますが、電話では現れませんでしたから。
それ以上はまだわかりません。ただ東中の通学路には、近くに通信会社の基地局がありましたでしょ。職員室にはWi-Fiの設備もありましたし・・・。校庭や体育館はそういうものから離れていた。それで、もしや、と思って実験してみたんです。」
市川先生、すごい! さすが理科の先生——!
隠れファンの美緒が目を輝かせるのを、沙緒里は見逃していない。ツンと肘で美緒の脇腹をつついて笑った。
「でも・・・ただの電磁波現象じゃないですよね? 人に感染するんだから・・・。それとも、あれは感染じゃないんですか?」
亜澄海が今日初めて、ひどく不安そうな顔で言った。
「わかりませんよ。まだ、何も・・・。ただ・・・電磁波は単なるきっかけで・・・」
と市川先生は目を曇らせる。
「水の中に何かが混じっているとすると、厄介ですね。人体の7割は水でできてますからね。水を飲まないわけにはいかない。」
市川先生のその話を聞いて、美緒はこの事態のヤバさを改めて突きつけられた気がした。水が飲めないとしたら、人間は生きられないじゃないか。
いや、それ以上に・・・・
「ス・・・スマホで何か検索を続けてると、わたしたちの体の中にもあれができたりするんですか?」
美緒は怯えた。
それは・・・、スマホでニュースさえ見られなくなるってことじゃないの?
「それ、めっちゃヤベーんじゃねーの? 今どうなってるかの情報も得られなくなるってことだぜ?」
大樹が珍しくマトモなことを言ったので、美緒と沙緒里は思わず顔を見合わせた。
「なんだよ。オレがマトモなこと言ったら、そんなオカシイか?」
こいつ。意外に勘が鋭い。
「いや、それはなさそうです。」
と市川先生が言う。
「もしそうなら、水たまりにあれの発生実験をしている段階で、私も感染しているはずです。」
この人は・・・! と亜澄海は改めてこの一見頼りなげな理科の先生を見た。その可能性を知りながら、さっきの実験をやっていたのか? 自分の身のリスクも顧みず?
それとも・・・、目の前に真実があるなら、身の危険すら顧みないような危なっかしい超オタクなのか・・・?
「とりあえず、飲める水と食料を確保しないと・・・。水道の水も大丈夫なのかどうかわからない。ペットボトルに入ったやつじゃないと——。」
亜澄海が駐車場の端にある水飲み場にチラと目をやりながら言った。
「美緒ともう1人誰かついてきて。この先にコンビニがあったはず。店員がまだ無事ならいいけど・・・。」
沙緒里と香鈴が顔を見合わせると、大樹が車の方に来た。
「オレが行こう。なんかあった時に、戦闘力が要るだろ?」
美緒はちょっと引きそうになったが、すぐ思い直した。たしかにこいつなら、そういう事態の時には頼りになりそうだ。
そんな美緒の腹の中を見透かしたみたいに、大樹は後部座席のドアを開けながら、にっと笑って見せた。
「一緒に後ろに乗る?」
美緒は助手席のドアを乱暴に開けた。
「じゃあ、如月さんたちが行っている間に、私は水たまりの水と水道の水を顕微鏡で見てみましょう。何か違いや異常が見つかるかどうか——。」
「荷物みんな体育館に置いてきたんじゃないんですか?」
香鈴が聞くと、市川先生はへらっとした感じで笑った。
「顕微鏡だけは持ってきたんですよ。高いからね。水質調べる試薬は置いてきちゃったけど・・・。」
「帰りに取ってきた方がいいですか? 東中に寄って——。」
亜澄海が車のドアに手をかけたままで聞く。
「危険がなければ、でいいです。大した試薬があるわけじゃないんで・・・。」