61 請われて
6日目の朝が明けた。快晴とは言えない。西の空に雲が多い。
また、雨が降るのか?
玲音に元気がない。いや、全員に少し疲れが出てきているような感じがある。
「玲音、大丈夫?」
「大丈夫。ちょっと疲れただけ。」
母親の悠が問いかけるが、玲音はそう答えるだけだ。本当に、自分の胸だけに留めておくつもりらしい。
亜澄海も大樹も、そんな玲音の意志を尊重して何も言わないことにした。下手に言ったら、あの家族の絆をむしろ壊してしまうかもしれない。
悠さんは少し精神的に脆そうなところがある。玲音の判断は正しいのかもしれない。
そういう亜澄海や大樹も、かなりまいっている。
あいつは・・・、と亜澄海はふいに思った。
あいつ——別れた夫のことだ——は、今ごろどこでどうしているだろう。
何の連絡も寄越さないところを見ると、初日に感染してしまったのかもしれない。あるいは、わたしや美緒のことなどもうどうでもいいのかもしれない。どっちだってもう、この先「養育費」が振り込まれることはあるまい。
もっとも、こんな状況で「金」が何かの役に立つのかどうかも分からないが・・・。
わたしは何を考えてるんだ? ・・・・疲れてるな・・・。
美緒は、そんなみんなに気を遣いながら、中心になって朝食の準備をした。泉深さんほど手際よくはやれないけれど——。
市川先生は3台目と4台目の通信機の組み立てに取り掛かっていた。
「ホームセンターに行かないと・・・。資材が足りません。」
松村さんや竹田くんとも連絡が取れるようにしたいし、古津店長のところにも持っていきたい。できれば巫女内くんや木田くんのお父さんのところにも。
朝食を終えて市川先生が車のキーを持って玄関に向かおうとしていた時、外に車のエンジン音が聞こえた。どうやら、この家の前に停まったようだ。
しばらくしてインターホンが鳴った。
「はい?」
市川先生が親機のモニター画面を見て「あっ!」と声を出した。
「稲生です。市川先生はいらっしゃいますか?」
「イノちゃん!」
「いっちゃんか? 無事だったか!」
市川先生がすっ飛ぶようにして玄関に行き、ドアを勢いよく開けた。
ドアの外には、背は低いががっしりした体格の中年の男性が立っていた。髪は短髪で年の割に白髪が多く混じり、額は広くて眼鏡をかけている。眼鏡の奥の目は知的な感じで、きらきらとよく動いた。
地味な色だが生地のいいジャケットにスラックス姿で、スラックスの裾は長靴の中に無造作に突っ込んである。
後ろに、護衛するように2人の若い自衛官が立っている。1人はあの神農原隊員だった。先生を見て、にこっと口の端を上げる。
稲生先生はどうやら、自衛隊のジープでここまで来たらしかった。
「急に連絡がつかなくなったから、感染したのかと思ったよ。イノちゃん。」
「悪かった。防衛省の上の方に呼ばれて、省内のサーバーを診てたんだ。その間、外部との一切の連絡が禁止でね。・・・で、いっちゃんが総理と面会したことをあの発生爆発の後で知って・・・。」
「中に入らないか? あ、君たちも・・・。」
後ろの2人の自衛隊員にも声をかける。
「いや、いい。すぐ戻らないと。10時から政府の会議なんだ。」
「政府は無事なんだね?」
「ああ。それで、いっちゃんにも対策会議のメンバーに入ってもらいたくて、許可をもらって連絡を取ろうとしたら、今度は『電源が入っていないか圏外』になってるじゃないか。」
「ああ、それね。ここら一帯の基地局を壊して回ったんだよ。まあ、電源をちょん切っただけだけどね。」
市川先生が面白そうに言う。
「なるほど。それも一手か。——オレはまた、あの発生爆発で感染しちまったのかと心配したよ。無事でよかった。」
稲生渉が持ってきた話は、政府が立ち上げる「対策会議」のメンバーとして参加してほしいというものだった。
「い・・・いや・・・、僕は、ただの中学の教員だし・・・。イノちゃんみたいに、何かの専門の教授というわけでもないし・・・。」
市川先生は怯んで少し後退った。
「だからだよ。専門家ってのは往々にして、専門の穴の中に入っちゃって全体像が見えなくなるものなんだ。いっちゃんは昔から、物事を全体の中で関係づけて見る天才だったもの。『総合科学者』って言えばいいのかな。官僚機構も行政機構も壊滅状態になってる今、必要なのはそういう力なんだ。」
後ろで聞いていた美緒は、『総合科学者』という言葉に我が意を得た思いがした。
そうだよ。それこそ、市川先生に相応しい呼び名じゃないか?
「で・・・でも・・・。ここは子どもたちの連絡ステーションになってるし・・・。そのために今、アナログ通信機も作っているんだし・・・。」
「アナログ通信機? そうか! その手があったか! なんで、誰も気がつかないんだ? やっぱり、いっちゃんに来てもらわないと・・・。」
「で・・・でも・・・。」
市川先生は佑美ちゃん母子と泉深さん母子の方をちらちら見る。
「生徒さんが心配なら、通いで構わない。帰りは少し遅くなるかもしれないが、護衛を兼ねた送迎の車を寄越すように事務方に言うから。」
「そ・・・そんなふうに、ちゃんと機能してるの? 政府は・・・。」
市川先生が驚いた顔をした。あの発生爆発以来、全く連絡がつかなくなっていたのに——。
「一部だけだ。霞ヶ関の官僚の8割がたは感染してしまったし、行政機構は全く機能していない。あの大発生でパニックにはなったが、昨日中に官邸を中心とした緊急対策本部は一応立ち上がったよ。」
稲生教授は、まっすぐに市川先生の目を見た。
「あのブログは対策本部の全員が読んでる。発生からわずか4日で、荒っぽいとはいえ、あれだけの仮説を立て、しかもその仮説を否定するような現象が何一つ見つからない。それどころか、市川仮設が予想した通りのことが政府周辺でも起きているんだ。」
「ぜひ来てほしい。いっちゃんの力が必要なんだ。・・・ていうか、もう総理補佐官の意向でメンバーとして登録してある。」
稲生教授はちょっと悪戯っぽく笑った。
「拉致しないとダメか?」
「あ・・・アナログ通信機を・・・みんなの分、作らないと・・・」
市原先生はまだ辞退する言い訳を探している。
「そんなもん、自衛隊の技官に作らせればいい。実際、政府にも必要だろうし。今なんて、自衛隊のバグだらけのサーバーをどうやって復活させればいいかで、大騒ぎしてるんだぜ? 誰もアナログ通信機なんて発想すらしてないんだよ。」
稲生教授が自嘲的に笑う。
「どうやら水面に現れるあれの本体は、サーバーの中にあるようなんだ。データも見せるから、いっちゃんの意見を聞かせてほしいんだ。」
市川先生が、困惑した表情で部屋の中を振り返った。そんな華々しい場所に、この中学教員は出たことがないのだ。
ちゃんとしゃべれるかどうかだって自信がない。
「行ってきたら? 先生!」
美緒が力強い声で、背中を押した。




