6 避難
亜澄海は職員室の中を駆け抜け、玄関に近い方の入り口から廊下に出た。
教員がゆっくりとふり返り、刺股を構え直すのが目の端に映った。
「急いで! 靴を履いて!」
言いながら亜澄海もパンプスの踵を指で上げた。ローヒールのものだから、これなら走りやすい。
「こっち!」
扉の方へ走ろうとする玲音の手を、亜澄海が引っ張った。
「職員室を抜けて校庭へ出るよ!」
玄関から外へ出たのでは、校内を探すにはいったん校門近くまで戻ってスライド式のゲートを乗り越えなければならない。
え? 土足・・・だけど・・・。
玲音は一瞬思ったが、「してはいけない」と言われている禁忌を犯す快感をどこかで感じながら、亜澄海について職員室を土足で駆け抜けた。
窓を開けて犬走や校庭の地面を見る。水たまりはあるが、あれはいなさそうだった。
亜澄海が、ぱっと外に飛び降りる、ふり向いて手を貸そうとする前に玲音も続いて飛び降りた。
「身軽だな。」
と亜澄海が言うと、玲音は少し笑顔を見せた。
犬走の上を教室の方に走り出してすぐ、玲音が
「見て!」
と指差した。
玲音の指差すところを見ると、校庭の泥の上に大勢の足跡がある。
大きさはバラバラだが、皆一様に小さく、子どもの足跡だとわかる。犬走の上にも泥で足跡がてんでについていた。靴裏の模様が同じだから、生徒の上履きのものだろう。
それは、教室の出入り口や階段室付近の校庭への出入り口から、みな同じ方向に向かっていた。どうやら大人に引率されたらしい、とわかる。
先生が、無事な子どもたちを避難させたのか・・・?
足跡をたどって行くと、体育館へと向かっていた。
「あそこに避難してるのか?」
亜澄海がつぶやくと、玲音が亜澄海の上着の袖口を少し掴んだ。不安なんだろう。
子どもたちは、あそこへ避難したのか?
それとも・・・・
少し用心しながら、歩いて体育館に近づく。
亜澄海は、校舎の中にも目を配りながら歩く。中にもまだオレンジ色の感染者がいるかもしれない。
「ちょっと——。」
という声がして、亜澄海と玲音は飛び上がるようにしてそちらを見た。
体育館と教室棟の間の渡り廊下に、人がいる。
「保護者の方ですか?」
その教員らしき男性の目はオレンジ色ではなかった。向こうもこちらの目を覗き込むようにして見てから、また同じ質問を繰り返した。
「迎えに来た保護者の方ですか?」
「え・・・と、厳密には違いますが、まあ、そんなような者です。この子の妹を探しています。名前は・・・」
亜澄海が一瞬言い淀むと、玲音が不安を押しのけようとするような声で言った。
「玲奈と言います。僕は平田玲音です。妹は、4年2組です。」
「私は如月亜澄海です。中学校に娘を迎えに行って、この子も車で避難させてきたんです。こちらに妹がいるというので・・・。」
「こちらへ。」
その男性教員は、辺りに目を配りながら体育館の重い引き戸を人1人分だけ開けて手招きした。
「感染していない子どもたちはこちらへ避難させて、保護者に連絡をとっています。」
亜澄海たちが中に入ると、男性教員はもう一度外を確認してから扉を閉めた。
中には全校の生徒ではなさそうだが、けっこうな数の生徒と先生も大勢いた。低学年が多いように見える。
「平田玲奈! 4年生の平田玲奈はいるか? お兄さんが迎えに来てるぞ!」
男性教員が体育館の中に向かって声を上げると、真ん中あたりで立ち上がった女の子がいた。
「お兄ちゃん!」
座っている他の生徒たちの間を、かき分けかき分けこちらにやってくる。
「玲奈!」
無事だった! と思った瞬間、不覚にも玲音の目から涙がこぼれた。玲音は気付かれないよう亜澄海の背後を回って玲奈を迎えに行くふりをし、その陰で急いで手で涙を拭った。
玲奈が玲音に、べちゃっと抱きついた。
「玲奈! 無事でよかった・・・。」
「おか・・・お母さんは?」
玲奈が涙目のままで玲音を見上げた。
LINEを送ったけど、返事はまだない・・・。しかし、それは言わないで「大丈夫だ。」と玲音は玲奈の頭を抱えてやった。
体育館の外に出ると、あの男性教員も一緒に出てきた。
「もう大丈夫です。2人連れて駐車場まで行くだけですから。お兄ちゃんはしっかりしてるし。」
「いや、私はここで、迎えに来た保護者を案内する役なんです。感染者が近づいてこないかの見張りもですが——。」
「小学校は、けっこう上手く避難させられたんですね。中学はひどいものでした。先生が先に感染してしまって・・・。生徒の破壊行動も起きてたようで——。」
「こちらも上級生ほど被害が多いんです。教員の大多数が無事だったのは幸いでした。警察には通報はしてあるんですが、今のところ動きはありません。
保護者には一斉メールで連絡を入れてありますが、反応のある人もない人も・・・。これからどうなるんでしょうね?」
男性教員は初めて不安そうな表情を見せた。子どもたちの前では、その表情は見せるわけにいかないだろう。
「あれは、何なんですかね? 感染した生徒たちは・・・どうなるんでしょう・・・?」
それは亜澄海も聞きたかった。
「わかりません。ただ、皮膚に触れるだけで感染するらしいことと、一定以上の深さのある水面にだけ現れるらしい、ということだけはわかっています。感染したらどうなるのかもわかりませんが、少なくとも普通にコミュニケーションができる状態ではなくなるようですね。」
あれの性質については、市川先生のおかげで亜澄海たちの方が多少詳しいようだった。あとは臨時ニュースの情報くらいしかない。
それは東桜蓮駅前の惨状を繰り返し伝えていたが、何しろレポーターもカメラマンも近づけないため、輪郭のあやふやな話しか伝わってこない。
それどころか、カメラマンがうっかり水たまりに足を突っ込んで感染するという事態まで起き、ニュース番組自体が混乱していた。
「私たちはこれから、緑ヶ丘公園に避難して中学の理科の先生と落ち合う予定なんですが、保護者の方と会えない子どもたちは・・・?」
「市役所にも連絡はとっているんですが、向こうもパニックのようで・・・。今はまだスマホでニュースの情報を得ているだけです。感染してしまった生徒も校内にいるはずなんですが、その子たちをどう扱うかもまだ・・・」
「今のところ感染した人は、あれの入った水をかけるとか、水たまりに突き飛ばすとかして感染者を増やそうとしているだけのようです。中学では窓ガラスを割って暴れてた子もいたようだけど・・・。
とりあえず小学生ですから、取り押さえて危険な行動をしないように保護するということは?」
亜澄海のその言葉を聞いて、男性教員は少し希望の見えたような顔になった。が、当の亜澄海は言ってから(マズったかな?)と思った。
それは、正しい対処なんだろうか?
駐車場に帰り着くと、美緒が車から飛び出してきた。
「見つかったんだ!」
「うん。ちょっとアクションシーンもあったけどね。こっちは何事もなかった?」