59 愛された子ども
市川先生は紡ぐべき言葉を見出せないまま、口だけをあうあうと動かして目を泳がせている。
「泉深ちゃん・・・?」
亜澄海が声をかけてみるが、泉深は全く反応しない。
どうしよう・・・?
守るって、約束したのに・・・。
亜澄海はまた涙がこぼれ落ちそうになるのを懸命にこらえた。子どもだったら、わんわん泣いてしまいたい。
でも、そんな無責任は許されない。何としてでも、この2人をお世話できる状況に持っていかなくては——。
「陽子さん? 降りてください。泉深ちゃんを連れて・・・。」
今度は母親の方に声をかけてみる。
と、陽子が少しだけ反応を見せた。
「い、ズみ・・・」
陽子が片手を泉深の頭の上に乗せて、そっと撫でるような仕草をみせた。泉深もそれに反応するように、少しだけ頭を陽子の方に寄せる。
それだけだった・・・・。
「オフクロ。アネキを連れて降りろよ!」
大樹が少し涙声のままで呼びかけてみるが、やはり反応がない。姉の泉深が銀行で声をかけた時には陽子は反応したのに・・・。
オレには反応なしかよ・・・? 根っこのところでは、オレはいなくていい子だったのかよ——?
「2人とも!・・・」 死んじまえ! と悪態を吐きそうになって、大樹はその言葉を喉元で呑み込んだ。
それを口に出したら・・・、その言霊が呪いになって、本当に2人を大樹から奪い去ってしまいそうな気がしたのだ。
「泉深さん?」
美緒も呼びかけてみたが、やはり無駄だった。
その頃になると、異変に気づいたみんなが玄関から1人、2人、と様子を見に出てきた。
「泉深さん・・・、感染したんですか?」
誠が遠慮がちに大樹に訊ねると、大樹は無理やり笑顔を作ろうとして顔を歪めた。
「この人は・・・、お母さん?」
「ふっ・・・2人して、あっちぃ行きやがった・・・。」
「大樹が呼びかけても反応しないんだ・・・。」
美緒が誠に説明する。
「誰かが・・・、2人との間の窓口にならないと・・・。」
誠は眉間にシワを寄せて少し考えていたが、やがてふっと顔を上げて新しい呼びかけを試してみた。
「押忍! 泉深先輩!」
泉深がぴくりと反応した。
皆が、あっ、という顔をする。これは、上手くいくかも・・・。
「押忍! 先輩! お母さんを連れて、車から降りてください!」
誠が続けて話しかけてみたが、泉深はそれ以上の反応は見せなかった。そこまでだった。
無理やり降ろすか・・・?
亜澄海はそんなことを考え始めた。
みんなで担いで、家の中に連れて行って・・・。
それで、どうする?
誰にも反応しないのに・・・。どうやって食事を摂らせる? トイレは? お風呂は? 着替えだってさせなきゃ・・・。
誰が・・・・?
佑美が感染した時は、佑美が美緒の呼びかけに反応してくれたことで、わずかにコミュニケーションが取れる窓口が残された。
しかし、今回・・・。泉深さんも母親の陽子さんも、あれほど仲のいい姉弟に見えた大樹の呼びかけにさえ反応しない。コミュニケーションの窓口がない。
このまま、みすみす衰弱してゆくのを見ているしかないのか?
万策尽きたかに思えたその時、大樹の顔が大きく歪んで、真っ赤になった。
そして・・・。
大きく開かれた口から、その言葉が飛び出した———。
「ねえちゃん! かあちゃん!」
人目も構わずに、中学生の大樹が小さな子どもみたいな泣き声で叫んだ。
「こっち向いてくれよお————!」
すると・・・。
その声に、陽子と泉深が反応した。
「ヒロ・・・くん?」
「ひロく、ン。」
2人がゆっくりと車から降りてくる。
そして・・・。
それぞれ大樹の傍にやって来て、頭の上に手をそっと乗せたり肩を抱いたりした。
「ひろクん・・・泣いテルの?」
「だい、ジョうぶ。・・・ねえチャん、こコに、イるよ。」
陽子が小さい子にするように、頭の上の手をぽんぽんする。
大樹が目をぎゅっと閉じて口を大きく開け、声を出さずに泣き出した。大粒の涙が、ぼろぼろと長靴の上にこぼれ落ちた。




