51 オレンジ色の街
スマホの電波状況のいい圏内に入っていくと、道路だけでなく、ありとあらゆる水のある場所にオレンジ色がひしめき合っていた。
街自体がオレンジ色に光っているように見える。
夜の帳が下りた中で、ビルの窓がほんのりとオレンジ色に明るんでいる。照明器具の明かりではない。
道路上の水たまりにひしめくオレンジ色に照らされて、ビルの壁面も微かにオレンジ色に浮かび上がっている。
所々にオレンジ色の目をした人影が、うずくまったり、突っ立っていたり、あるいはゆっくりと歩いている。
亜澄海は、そういう感染者を轢かないように、そして、感染拡大行動に巻き込まれないように、慎重に車を進めていった。
まずは金森姉弟の父親の会社に行く。
周辺の道路にはオレンジ色があふれていたが、ビルの入り口からはもう水は流れ出していなかった。
「誰かが水を止めたのかな?」
泉深が言うと、亜澄海が少しだけ口の端を上げた。
「好都合だ。中に入れる。」
「あの電波塔を止めれば、ここらのオレンジ色は数が減ると思う。」
泉深がビルの屋上を眺めながら言うと、亜澄海は少しほっとしたような表情を見せた。
「よかったよ。雨で濡れてるから、金森クンがあんな所まで外を登るのは危険だ。階段で登っていける。それにしてもこんな状況で誰が水を止めたんだろう? どうやって?」
ビルの中にはオレンジ色はいなかった。床は濡れた形跡はあったが、今は水があるわけではない。
受付には人はおらず、やつれた顔をしたガードマンが1人壁に背を持たせかけて座り込み、オレンジ色の目でこちらを見ていた。「警備」に固着したらしい。
妙な臭いがするのは、おそらくトイレにも行けていないのだろう。亜澄海と泉深と玲音の3人が、鼻と口元を手で覆うようにして足速に通り過ぎようとする。
日本中、いや、世界中でこんなことになっているのだろうか?
「ごめんなさい・・・」
と玲音が小さな声で言う。
「食べるもの、何も持ってきてない・・・」
亜澄海が玲音の背中を片手で押す。
「自販機くらい中にあるだろう。帰りにジュースくらいは目の前に置いていくことはできるはずだ。」
「おばさん、お金持ってる?」
「自販機はぶっ壊す。」
亜澄海がこともなげにそう言うと、大樹が我が意を得たとばかりに、にっと笑った。
階段室まで来ると、下へ降りる階段が途中まで水に浸かっていて、そこにオレンジ色がひしめいていた。
大樹が身構えてあたりを見回す。
ここで感染者に遭遇すれば、間違いなく突き落とそうとしてくるだろう。
「急いで登れ!」
「誰かが水を止めててくれてよかった。元栓とか、そういうものって、たいてい地下室にあるんだろ?」
階段を登りながら、亜澄海がつぶやく。その人はどうなったんだろう? ちゃんと脱出できたんだろうか?
そんな亜澄海の言葉を受けて、玲音が答えた。
「こういうビルは屋上のタンクに一旦水を上げて、そこから下の階に送ってるんだってお父さんに聞いたことがあります。ポンプはたぶん地下室にあるから・・・、その電源が水でショートしちゃったんじゃないかな。ポンプが止まっちゃえば、そのうち屋上のタンクは空になるはずで・・・。」
「照明の方がショートしてなくてよかったな。真っ暗だったら、懐中電灯だけで登らなきゃいけねーとこだった。」
大樹が先頭を切って登りながら言う。市川先生の家から持ってきた工具箱を下げている。
亜澄海がふと思いついたように言った。
「エレベーターって動いてないのかな? なんか当然、止まってるものだとばっかり思ってたけど・・・。」
「そっか。オレたちは平気だけど、おばさんキツいよな。8階まで登るのは。」
「は・・・8階なのか・・・? いや、行けないことはないが・・・」
年寄り扱いするな、と言いたかったが、たしかに彼らほど体力に自信はない。エレベーターが動いていれば助かる。
「試してみよう。」
3階で階段室から出て、エレベーターのボタンを押してみると反応した。
「動いてる!」
チン。
と音が鳴って、全員が身構える。
もしも、感染者が乗っていたら・・・。
しかし、扉が開くと中は空だった。
「よし行けるぞ。」
8階の事務所には6人の感染者が残っていて、全員がデスクに向かって座っていた。
デスクには電池の切れたノートパソコンが乗っている。何も映っていないその画面を、彼らは眺めてじっとしていた。
電源をコンセントで取っているパソコンは青白く光り、感染者のオレンジ色の瞳と対になるとひどく不気味だった。
嫌な臭いがしないところをみると、トイレには行けているみたいだ。
デスクの上にカラの湯呑みや紙コップがある。何かを飲んではいたようだ。しかしそれも、いつまでのことか分からない。
全員がひび割れた唇をして、憔悴した顔をしている。
自販機はエレベーターホールにあったが、おそらくお金を上手く投入できないのだろう。床にいくつもの硬貨が落ちていた。
それでも彼らは、仕事に固着してしまっているらしい。
「お父さん、いる?」
亜澄海が訊くと、泉深が無言で小さく首を振った。
「バカ親父・・・。どこに行きやがったんだ・・・。」
大樹が弱々しい声で毒づく。
「屋上へ出よう。」
亜澄海が言うと、玲音が片手を上げた。
「ちょっと待ってください。お父さんに聞いたことがあります。こういうビルには電線や配管を上の階に通す『シャフト』という区画が有るって。そこで電線を切っちゃえば、電波塔は止まるんじゃないですか?」
「その『シャフト』ってのはどこにあるの?」
「よく分かんないけど・・・、たぶん、エレベーターの近くにあると思う。そういうのがまとまってる所を、ビルの竪穴って言うんだって・・・。」
「おまえ詳しいな。」
大樹が感心したように言った。玲音はちょっと照れたような表情を見せる。
「うちで・・・お父さんがお母さんに話してるのを、なんとなく聞いてたから・・・。」
門前の小僧というやつだろう。
エレベーター室の壁に、それらしい鍵のかかった鉄の扉が付いていた。
「カギ、どこにあんだろ?」
「たぶん地下室だな・・・。」
「ハンマーでぶっ叩いたら、壊れねーかな?」
「ダメ元でやってみる価値はあるだろう。」
大樹が工具箱の中にあったハンマーで力任せに叩いてみると、扉がへこんで割と簡単に開けることができた。鉄板はそれほど厚くない。
「たぶんこれだ。パイプがいっぱい通ってる。」
「平田。どれか分かる?」
「分かりません。そこまでは・・・。」
「太いのは違うな。」
と亜澄海が言うと、意外なところから答えが返ってきた。大樹だ。
「このジャバラみたいになってるやつのどれかだ。この前屋上でちょん切ったやつも、こんなパイプの中に電線が入ってた。」
3本ある。
「水道管・・・じゃないよな?」
「分かんねーよ、そんなこと。」
亜澄海と大樹のそんなやりとりに玲音が加わった。
「大丈夫・・・だと思います。ポンプが止まってるんだから、水道管だったとしても水は噴き出してこないと・・・思います。」
少し、自信なさげだ。
「中に水が溜まってるってことは?」
「それは・・・あるかもしれません・・・。」
どれを切ればいい・・・?




