4 逃走
体育館の前には人はいなかった。ホームルームの時間だから、みんな教室の方にいるんだろうか。それとももう、あの紙コップを持った集団に感染させられてしまったのか?
逃げ出せたのはわたしたちだけ? 他のクラスはどうなっているんだろう? 感染させられたら、おとなしく教室にいるということだろうか? 普段みたいに?
それはつまり、感染してないわたしたちの方がおかしいってこと?
そのうち校庭の方で騒ぐ声が聞こえたので、渡り廊下越しにそちらをを見ると、何人もの生徒が校舎から校庭へ逃げ出してくるのが見えた。
やっぱりパニックは起こってるんだ。校庭には水たまりはない・・・はずだけど。
「ねえ、あれって、水のあるところに湧くわけ?」
峰平香鈴が、問い詰めるような口調で美緒に聞いてきた。
「そんなこと聞かれたって、わかるわけないよ。」
美緒が最初にクラスの皆に話をしたから、詳しいとでも思ったんだろう。だが、美緒だって知っていることは皆と変わらない。
ただ、あの紙コップの中には水が入っていて、その水面には間違いなくあれが走り回っているのだろう、ということぐらいはわかる。
「ああ、きみたち。」
突然声がして体育館の陰から人が現れたので、そこにいた1組の生徒たちは皆、跳び上がらんばかりに驚いた。
声の主は理科の教諭の市川だった。
「きみたちは無事なんだな?」
用心深い表情で美緒たちの目を覗き込みながら言う。そう言う市川先生の目もオレンジ色ではない。
市川はそろそろ40代も後半で、少し痩せ型のぱっとしない教諭だったが、理科の授業はそれなりに面白かった。ややオタク系で、とにかくその分野が好きなのだ、ということは伝わってくる人だ。
生物学の知識はハンパなく、ともすれば高校レベルどころか大学レベルの話に脱線することもあった。そういうところが、けっこう生徒にはウケているのだ。
教諭間ではあまり評判がよくなかったが、生徒の中には隠れファンがいる。美緒もその1人だ。
「2年1組だね。よくここまで逃げて来れたね。」
市川先生は怯えた目で周囲を気にしながら、それでも一応「先生」として生徒を守らなければ、という使命感から逃げ出さないように懸命に自分を鼓舞しているのが傍目にもわかった。
こんな一生懸命さがいいんだよな、こいつ。 と、隠れファンの美緒は思っている。
「先生は、あれがなんだかわかりますか?」
「わかりません。あんなものは初めて見ました。理科室で今日の実験の準備をしている時に、ビーカーの水の中に突然現れたんです。計量スプーンですくってシャーレに入れてみると、すぐに小さくなって消えてしまった。あの現象には、水の深さが必要みたいですね。」
さすがに理科の先生だけあって、観察の深度が違う。
その後、職員室に行こうとして、あのオレンジ色の目をした生徒の集団が他の生徒に紙コップの水をかけている現場に出くわしたのだそうだ。
「あれは皮膚から簡単に吸収されて感染するようです。感染した者は目がオレンジ色に光りだして、あれの入った水をかけたり水たまりに引き込んだりして感染を広げようとするようだから・・・。」
市川先生は人を避けるようにして、人がいちばん居そうにないこの体育館前に避難してきたということだった。
「こ・・・ここから、どうしよう?」
自分のクラスからもはぐれてしまった1年生の玲音が、不安そうな声を上げた。
「と・・・とりあえず体育館に入れば・・・。広さはあるし、中には水もない。」
誰かが言ったが、市川先生が絶望的な声を上げた。
「鍵がかかってます。鍵は・・・、職員室にある。今、職員室に行くのはとても危険だと思います。」
「あの窓、ガラス割ったら入れるよね。中からは開けられるだろ?」
大樹が上を見上げて言った。彼が言うのは、屋根のすぐ下あたりにある明り取りの窓のことらしい。
皆が、えっ? と言う顔をしているのを放っておいて、大樹は雨樋をつたってひょいひょいと登りだした。
「うわ、映画みたい。」
と沙緒里が呟くのが、美緒の耳に聞こえた。
大樹は、怪我をしないようにだろう、制服のブレザーに覆われた肘の部分でガラスを割った。
ガシャン! と音がして窓枠の中が空洞になると、縁に残ったガラスの破片を袖口を使って払い落とす。そのまま体を滑り込ませ、あっという間に窓の内側に消えた。
「かっけーな、あいつ・・・。」
男子の誰かが、ぼそっと言った声が聞こえた。
やがて体育館の扉が1ヶ所、内側から開けられて大樹が顔を出した。
「入れよ。中に入って鍵かけちまえば、誰も入ってこれない。とりあえずこの先どうすっか、ゆっくり考えられるだろ? 2階の廊下みたいなところからは、グラウンドも見えるしな。」
みんなが中に入り始める中、美緒は立ち止まった。
「わたしは・・・、お母さんが迎えにくるから・・・車で・・・。外にいないとわからなくなっちゃう・・・。」
それを聞いた市川先生が、美緒に尋ねた。
「お母さんの車は、何人乗れる?」
「4人。・・・つ、詰めれば5人乗れるかな?」
「だったら・・・」
と市川先生が言った。
「車で逃げた方がいい。私の車はワンボックスだから、フィールドワーク用の機材を下ろせば残りの人数は乗れます。ここにいるだけの人数なら逃げられます。体育館に閉じこもっても、周りを囲まれたら逃げ道がなくなるよ。ここには食糧もない。」
「なんだよ、市川。オレがせっかく開けたのにぃ。」
大樹が毒づいたが、笑っているところをみると冗談のつもりなのかもしれない。しかし、気の弱い市川先生はそれだけでもう目を泳がせた。
「い・・・いや、私の機材をここに入れておきたいから、ちょうど良かった。」
「みんなで運ぼうよ。先生、車は?」
沙緒里がすかさずフォローを入れる。
「あ・・・、この裏の駐車場だよ。」
みんなでフィールドワーク用の機材を運んでいる時に、ガシャーン、というガラスの割れる音が聞こえた。
ふり向くと3階の教室から椅子が飛び出してくるのが見えた。2つ、3つ、立て続けに窓ガラスを割って飛び出してくる。それは、きらきらとガラスの破片を纏いながら校庭に落ちていった。
「やっぱ暴徒になってるぜ、あいつら。」
言いながら、大樹が採集用の道具の入った箱を体育館の床に下ろした。
「また鍵かけとこうか、市川?」
大樹は内側から鍵をかけて、また上の窓から出てくるつもりらしい。
「いや、いいよ、そこまでは。金目のものじゃないから。扉だけ閉めておこう。」
市川先生はそう言って重い引き戸を、よいしょ、と押して閉めた。
みんなが先生の年季もののワンボックスの方に向かおうとした時、タイヤを軋ませながら駐車場に入ってきた1台の軽自動車があった。
「美緒! 無事?」
運転席側の窓が開いて、声が聞こえた。
「お母さん!」
美緒の母親の亜澄海がシートベルトを外すのももどかしそうに下りてきて、そこに市川先生がいることに気づくと、早口で一応の挨拶をした。
「あ、先生。いつもお世話になってます!」
「ああ、如月さんのお母さんですか。ここにいる子どもたちを避難させたいんですが・・・」
「お母さん! うちの車、5人乗れるよね?」
「乗れるよ。軽だからぎゅうぎゅう詰めになるけど、後ろ4人なんとかなるんじゃない? それで、残りは乗れるだけの車出せるんですか?」
亜澄海はすぐに状況を理解して、市川先生に尋ねた。
「私の車はワンボックスなんで、11人でもなんとか——。」
「それで、先生はどこへ逃げるおつもりなんです?」
市川先生はそう言われてちょっと戸惑った表情を見せたが、すぐに意を固めて答えた。
「とりあえず、ここは感染者が多すぎますから、人の少ないところへ・・・。家に帰りたい人は送ろうか、と。」
「あれは——、感染なんですか?」
「一応、そう呼ぶしかない現象かと——。みんな、急いで分かれて車に乗って! 如月さんの車に4人、私の車には11人!」
美緒の家の軽自動車には、沙緒里と香鈴と玲音と、そして、大樹が来た。
なんで、こいつが来る?
「オレもわりと体ちっこいからな。混ぜてくれ。」
と何の遠慮もなく笑う。
たしかに・・・。でも、背は低いけど筋肉ゴリゴリで肩幅あるやんか? 第一、女子3人いるんだぞ? 1年生の玲音はまあいいとしても、おまえ、そこは別の女子に譲るとこじゃねーか?
「家に帰る人だけ送ったら、緑ヶ丘公園で落ち合いましょう。あそこなら人は少ないはずだし、駐車場も広い。」
校門を出るときに、市川先生が運転席の窓を開けて亜澄海に大きな声で言った。亜澄海は窓から右手だけを出して、親指を立てて見せた。




