3 感染者
水の量が少ないせいだろうか、それは転がり回りながら少しずつ小さくなってゆき、やがてゴマ粒ほどになると1つずつ、ぷしゅ、ぷしゅ、っと水面で消えていった。
「な・・・、なんだ? あれ・・・。」
誰かがやや震えた声で言った時、廊下の方で大勢の気配がした。話し声はない。足音だけがする。
その音が奇妙で、あたりの空気に不安が混じる。
ゆっくりで、しかもやや引きずるような感じ——。どう考えても、朝の登校の雰囲気ではなかった。
1年生の平田玲音が教室の入り口にダッシュして、引き戸をピシャリっと閉めると急いで内側から鍵をかけた。
それに弾かれたようにして、2人の男子生徒が教室の後ろの戸も閉めて、窓にも鍵をかけ始める。
美緒もすぐ反応して、教室の前の方から廊下の窓の鍵をかけていった。
いいのか? こんなことして———?
そんな言葉が、ちら、と頭をかすめたが、窓越しに廊下を歩いてくる人の群れが見えた時、その疑問はどこかに飛んで「これしかない」という確信に変わった。
先生も混じって、ゆっくりと歩いてくる生徒の群れは・・・。ただ黙って歩いてくるだけの彼らは、皆その手に自販機の紙コップを持っている。その中に何が入っているかは、容易に想像できた。
歩いてくる彼らの瞳は、例外なくオレンジ色に光っている。
鍵を閉めるとすぐ、美緒も玲音も廊下側から離れた。他の生徒も皆、そぞろに反対の窓側へとにじり下がってゆく。
廊下の方からやってくるものは、何か、ひどく禍々しいものだ——。そこにいる誰もが、それが理解できるだけの最低限の知識はすでに持っていた。
やがて、2年1組の生徒たちが窓ガラスの向こうに姿を現し、こちらを覗き込んだ。その中に香澄もいる。
そのオレンジ色の視線を受けて、美緒は総毛立った。それは「人間」を見る目ではなかったのだ。何か、ただのモノでも見ているような、感情のない目だった。
廊下の生徒たちが入り口の戸を開けようとするガタガタという音が聞こえだした。
「なんで鍵かってんのォ?」
「おい。締め出ス気かよォ。」
担任の鹿所が戸をドンドンと叩く。その叩き方が、教師のやるそれではない。
「こぉら。君たち。開けなさい。朝からこんないたずらをすルものじゃない。」
中にいる生徒たちは後退った。言っていることはおかしくはないが、言葉に心が乗っていない。中身が空っぽなのだ。あるいは、中身に何か別のものが入っているのだ。
鹿所が戸をドンドンと叩く音が激しくなった。まるで拳でそれを破ろうとしているようだ。
美緒はここにきて、ようやくとんでもない失敗に気がついた。
破られたら逃げ道がないじゃないか。ここは2階なのだ!
破られないわけがない。引き戸はともかく、窓はガラスなんだ。割れば鍵なんかすぐ外せる。
ガラスで怪我をするかもしれないが、彼らはそれを気にするだろうか?
そしてそれは現実になった。
ガシャン! という音が教室に響くと、何人かの女子の引き裂くような悲鳴が聞こえた。
ひょっとしたら、その悲鳴の中に美緒のものも混じっていたかもしれない。美緒自身、自分が悲鳴を上げたかどうかすらわかっていなかった。
血を滲ませた先生の右手が、窓のクレセントを外す。それがスローモーションのように見えた。
逃げ道が! ない!
「こっちだ!」
金森大樹が叫んで校庭側の窓を開け、そこから外へと飛び降りた。
近くにいた男子2人も続いた。
何をしている? そんなの、フツーに女子には無理に決まってるだろ!? 1年生もいるんだぞ?
窓を眺めて唖然とした美緒と沙緒里は、次の瞬間さらに唖然とした。飛び降りたはずの大樹が窓の向こうにひょいと顔を出したのだ。
「渡り廊下の屋根があるから。高さは1.5mくらいだ。下りられる。早く!」
窓際にいた子たちが、男子も女子も次々に窓の外に飛び出した。
後ろをふり向くと、開いた窓の腰壁を乗り越えて目をオレンジ色に光らせた1組の生徒が教室に入ってこようとしているところだった。春日健太だ。片手に紙コップを持っているので、動きが鈍い。
あいつは、感染しても先生のご機嫌とりは変わらないのかよ。
美緒たちは校庭側の窓に向かってダッシュした。
渡り廊下の屋根は三角に波打った鉄板でできている。「折版屋根」と言うが、そういう専門用語は中学生の美緒たちは知らない。
「降りる場所に気をつけないと、足くじくぞ。」
大樹がそう言って、1年生の玲音に手を貸す。沙緒里にも美緒にも手を差し伸べて掴んでくれた。
こいつ——。
普段は、なんとなく態度悪くて気に食わないヤツだと思ってたけど、こういう時になるとカッコいいじゃん?
「何? オレなんか変なこと言った?」
大樹が真正面から美緒の目を見たのに少し狼狽えて、美緒は自分の耳が熱くなるのを感じた。
それを誤魔化すように、美緒は教室の中をふり返る。入り口の引き戸が開けられて、先生とオレンジ色の目をした生徒が入ってくるところが見えた。
「早く!」
という玲音の声で、皆一斉に屋根の上を駆け出した。
上手い具合に、渡り廊下は体育館まで続いている。足場は悪いが、そこまではオレンジ色に感染した人たちには会わないで行けそうだった。
体育館の庇まで来ると、大樹が軽業師みたいに、ぽん、と下に飛び降りた。体全体がバネのようで、軽快な動きだ。
そういえばあいつ、パルクールやってるとか言ってたっけ。と美緒は思い出した。
金森大樹はどこの運動部にも文化部にも入っていない。いわゆる帰宅部だが、部屋にこもってゲームとかやるタイプじゃなく、街で遊んでいるらしいのだ。
香澄が以前、ガレージの屋根や商業施設の屋外階段の手すりなどをサルみたいに飛び回っていくグループの中に、大樹が混じっているのを見たと言っていた。
何人かの男子は飛び降りた(大樹ほどサマになっちゃいないが)が、美緒を含めた他の子には無理だ。
「待ってろ。」
というと大樹は姿を消し、すぐに、どこから持ってきたのか、背の高い脚立を持ってきて渡り廊下の屋根のそばに立てた。
「これで降りられるだろ。」
「サンキュ。」
美緒は、普段ちょっと態度の悪いこのサルみたいな同級生を見直し始めている自分がいることに気がついていた。
「お、素直じゃん。」
それが余分だっつの——!