22 家族の肖像
香鈴の家に行ってみると、彼女の両親はやはり同じ場所にじっと座っているだけだった。お兄さんはいない。
「たぶん、自分の部屋だと思う・・・。」
と香鈴が言う。
「後で見にいってみる。食べるもの持って・・・」
美緒がキッチンでコップに水を入れてみたが、オレンジ色は発生しなかった。大樹がビルの外壁を登って、電波塔の電源を切ってくれたからだろう。
1階が新聞店になっている住居兼用の3階建てビルは、予想どおり鍵がかかったままで、インターホンを押しても誰も出てはこなかった。
大樹は、隣の家の軒や屋根を上手に利用してビルのベランダに飛び移り、ベランダから新聞店の看板を手がかりに、ひょいひょい、と屋上まで上がってしまったのだった。
美緒は香澄が「猿みたい」と言っていたのを思い出した。
あの子は今、どうしてるんだろう? ちゃんと食べて・・・ないよね、たぶん・・・。美緒は中学校も見に行ってみたいと思った。香澄はそこにいるのだろうか・・・。
持ってきたパンやお菓子のビニールを取って皿に乗せて目の前に置いてみると、香鈴の両親は手を伸ばしてそれをつかみ、口へ持っていった。おなかは空いているらしい。
食べ方は佑美のお母さんと同じで、あまり器用に指は動かせないようだった。レンジでチンした冷凍食品はスプーンが上手く使えないので、香鈴が口元まで運んでやった。
「はい。お父さんも、あーんして。」
両親とも香鈴の言うことに素直に反応しているようだった。
「ちゃんと香鈴の言うこと聞くじゃない。佑美のお母さんと一緒だよ。」
美緒がさっきのフォローのつもりで言う。
「情けないよね。これでも昨日まで会社の技術部長だったんだよ——。」
そう言って香鈴はちょっと寂しそうな笑いを見せた。
「こっち終わったら、アニキんとこも行ってみる。あいつ何に固着しちゃってんだろ?」
「食べ物、わたしが持って行こうか?」
美緒が言うと、香鈴はふり向いて意地悪そうににかっと笑った。
「1人エッチしてても知らねーぞ?」
「な・・・・」
「オレが見てこようか?」
と、大樹が笑う。
「男ならいいだろ。」
「わたしが行くよ。こっち終わったら——。妹だもん。金森がアニキに『あーん』させてる図は、ちょっと笑えそうだけど。」
香鈴の兄の侑さんは部屋でゲームに固着していた。
しかし、コントローラーは持っているがモニターの画面は「GAME OVER」のままだ。そもそもオンラインになっていない。電波塔の電源も切ってしまったし、室内のルーターのプラグも抜いてあるから、接続できるはずがないのだ。
それでも彼は、コントローラーを持ったまま固まっている。いや、よく見ると指がゆっくり動いているようだ。ゲームを続けているつもりなんだろうか。
彼にはこの世界がどんなふうに認識されているのだろう?
「アニキ、おなか減ってるでしょ。お昼もなんにも食べてないんでしょ?」
香鈴が皿に乗せたパンとレンジでチンした冷凍食品のピラフを、侑の膝のすぐ前に置いた。
・・・が、彼は全く反応しない。
「ほら。アニキ。おなか減ってるだろ?」
香鈴がスプーンですくったピラフを、お兄さんの口元にまで持ってゆく。が、彼はやっぱり反応しない。まるで香鈴がそこにいないみたいに、モニターの画面を見つめたまま動かない。
香鈴はしばらくそのままじっとしていたが、突然スプーンを床に叩きつけて立ち上がった。
「ばかアニキ! 餓死しちゃえ!」
侑は相変わらずコントローラーを持ったまま、「GAME OVER」の画面を見つめている。
大樹がつかつかと歩み寄って侑の頭の上から手を伸ばし、無言でそのコントローラーを奪い取った。
彼の表情が初めて変わった。
そのオレンジ色の目に「怒り」が現れ、ゆっくりと立ち上がると、大樹に襲いかかろうとした。といっても、その動きは緩慢だ。
大樹は奪いとったコントローラーで挑発しながら、侑がつかみかかろうとする手を、ひらり、ひらり、と躱しながら片手で皿の上のパンをつかんだ。
そうしてボクサーみたいにステップを踏みながら、突然踏み込んで顔面にパンチを繰り出すようにして彼の口にパンを押し付けた。
侑は一瞬、固まった。
それから少し間があって、目の中のオレンジ色の光が弱まり、表情が変わると、口を動かして押し付けられたパンを食べ始めた。
彼の意識が「食事」に向いたようである。
大樹は目立たないよう、ゆっくりとコントローラーを自分の体の後ろに持ってゆき、彼の視界から外した。
侑はもう、自分の手でパンを押さえ、口の中に押し込むようにして食べ始めている。
香鈴がコップに入った野菜ジュースを口のそばに持ってゆくと、彼はそれを片手でむんずとつかみ、口の端からこぼしながらも飲み干してしまった。
「おなか減ってるんじゃん。ばかアニキ・・・。」
侑はまた床に座り、ピラフにも手を伸ばしてそれをわしづかみにすると、ボロボロとこぼしながらも全部食べ切ってしまった。
その間に大樹が足で引っ張ってモニターのプラグを抜いてしまう。モニターの画面は真っ黒になった。
食べ終わるとしばらくぼうっとした後、侑は床をまさぐり始めた。
「コントローラー探してるのかな・・・。」
香鈴が言うと、大樹が背中側に隠していたそれを侑の見えるところにそっと置いた。侑は這ってきてそれを手に取ると、再びモニターに向き合った。無表情だ。
そのまましばらくじっと動かなかったが、やがてまた這うようにしてコンセントのところに行った。
抜けているプラグを拾って差そうとするが、手が思うように動かない。美緒は手伝うべきか迷って、大樹と香鈴の顔を交互に見る。
3人とも顔を見合わせるだけで、どっちが正解か分からない。
侑の瞳の中のオレンジ色の光が強くなり、怒りの表情が現れた。
「がァ!」
という声とともにコントローラーを壁に叩きつけ、立ち上がってモニターを持ち上げて床に叩きつける。
バキャン! モニターのガラスが割れた。
「失敗した!」
大樹が止めようと侑の腰にタックルする。その直後、振り回した侑の肘が大樹の顔面を直撃した。
「ぶっ・・・」
大樹が床に転がった。
フローリングに、ぱたぱたぱた・・・と赤い花が咲く。
「やめろ! やめろよ! ばかアニキ!」
香鈴が叫ぶが、侑は止まらない。モニターだけにとどまらず、机もひっくり返した。本やボールペンやアニメフィギアが床に散乱した。
「やめて! やめて! アニキ! 止まってよぉ!!」
香鈴の叫びと物音を聞きつけて、下で両親の世話をしていた亜澄海が階段を駆け上がってきた。
「どうした! 大丈夫か?」
亜澄海は目の前の光景に、一瞬動きが止まった。
香鈴が叫んでいる。彼女のお兄さんの侑はひっくり返った机を蹴っている。大樹は床に這いつくばって鼻血を出していた。美緒は為すすべもなく立ちすくんでいる。
「やめて! やめてよぉ!」
香鈴が叫び、大樹が再びタックルを試みようと身構える。頬に、まるで戦士の化粧のように赤い筋が引かれている。
「やめてぇ! お兄ちゃん!!」
香鈴の絶叫に、侑の動きが止まった。
「カ・・・りん?」
瞳の中のオレンジ色の光が、すうっと弱まってゆく。
表情が穏やかになった。
美緒たちが見守る中、侑はゆっくりとした動きでこわばっている香鈴に近づき、そして、彼の妹の頭をそっと両腕で包み込むように抱いた。
「お・・・にいちゃん・・・」
香鈴の目から涙がぼろぼろとこぼれ出した。




