2 感染
校門に駆け込んだのは7〜8人ほどいた。美緒はいったんそこで立ち止まり、後ろをふり返った。
水たまりを見ている子。
引き倒されて水たまりに手をつく子。
走ってきたのは一緒に駆け込んだ8人だけで、あとは歩いている。遠目にはパニックになっているような感じはしない。水たまりに手をついた子たちは、立ち上がると何事もなかったように歩き出すからだ。
普通に歩いている生徒たちは、美緒たちを見て「なんだろう?」という顔をしている。友だち同士でふざけながら走ってきたのでないことは、その血相を変えた表情でわかるのだが・・・。
では何があったのか、といえば、この8人が走ってきた方向には特に血相を変えなければならないような何かがあるようには見えないのだ。
「ど・・・どうしよう?」
1人が泣きそうな声で言い、1人がまた走り出した。
「しょ・・・、職員室!」
美緒も一緒に走り出した。
校庭は? と見ると、校庭の水たまりにはあのオレンジ色はいないようだった。
美緒たちの学校の校庭はほぼ全部舗装されていて、しかもグラウンド部分は透水舗装なので水たまりはそこにはできない。透水舗装ではない周辺部分に少しできるだけだ。それらの水たまりの中には、とりあえずオレンジ色は見えなかった。
美緒は少しホッとしながらも、逆に、学校内にはないあれを先生にどう説明すればいいのだろう、と戸惑いながら玄関で上履きに履き替えた。
一緒に走ってきた男子生徒も同じことを考えていたらしく、すがるような目で美緒の方を見る。
制服のバッジは1年生のものだ。
「とりあえず、行こう。2人で話をすれば・・・。それに、目撃者はわたしたちだけじゃないんだ。」
上級生である美緒は、そう言って励ました。
「失礼します。」
職員室に入り、いちばん近くにいた国語の先生に話をしようとして美緒は立ちすくんだ。
顔を上げた先生の目が、オレンジ色に光っている。
「どうかしたカ? 如月。」
机の上に置かれた湯呑みの中で、オレンジ色が1つ、くるくる回るように水面を転がっていた。
声が出ないまま後退ろうとする美緒たちに向かって、先生はいきなりその湯呑みの湯をかけてきた。
「!」
美緒は間一髪、身をよじってかわしたが、よけ損なった1年生の男子のズボンにそれはかかった。
ただラッキーだったのは、オレンジ色はその子の足に吸収されることなく、撥水加工のズボンに弾かれた湯とともに床に落ちて、その小さな水たまりの中を転げ回ったのだ。
職員室にいた十数人の先生が、みんな一斉に立ち上がった。全員の瞳がオレンジ色に光っている。
「逃げろ!」
美緒が叫んで、男子生徒と2人で職員室から飛び出した。
どこへ? どこへ逃げれば?
「に・・・2階に行きましょう、先輩!」
男子生徒が言う。
「水たまりからは、少しは遠い・・・。」
少し泣きそうな声になっている。無理もない。ほんの数ヶ月前までは、まだ小学生だったのだ。
美緒は階段を駆け上がりながらスマホを取り出し、母親の電話番号をタップした。
録音されたメッセージが流れてきた。
『ただいま運転中です。後ほど掛け直しますので、お名前とメッセージをどうぞ。』
美緒は踊り場でスマホに向かって叫んだ。
「助けて、お母さん! 学校がおかしい! このスマホに電話ちょうだい!」
通話を切ってから、初めて美緒は男子生徒の足のことに気が回った。
「足、火傷してない?」
「いえ、大丈夫です先輩。あれ、お湯じゃなくて水でした。」
水?
それは、つまり・・・。職員室の先生方に、あれの入ったただの水の湯呑みを配った人がいるってこと?
先生方は、それを怪しみもせずに口にした——ってこと?
どうなってるの? いったい・・・・。
美緒は2階にある自分の教室、2年1組の教室まで行ってみた。15人ほどがもう登校していた。全員、目は普通だ。
それを見た瞬間、美緒の顔が歪み目から涙があふれ出した。止めることができなかった。
「ひっ・・・・え・・・っぶ・・・」無事だった! ここにいるみんなは———。
そう思った瞬間、安堵が感情を堰き止めていた何かを決壊させ、美緒の外にあふれ出させたのだった。
「美緒! なに? 何があったの?」
仲のいい杉村沙緒里が、ただならぬ美緒の様子を見て真っ先に声をかけてきた。
一緒にきた1年生の男の子がおろおろしている。
しっかりしなきゃ! わたしの方が先輩なんだ——。美緒は自分を叱咤するが、すぐには声が出ない。
「この子は? 1年生?」
「ぼ、僕は、平田玲音といいます。1年2組です。」
沙緒里の問いかけに男子生徒の方が答えた。
「水たまりにオレンジ色の何かが泳いで・・・じゃなくて走り回ってて、それ触った人がみんな目がオレンジ色になっちゃってそれで他の人にもオレンジ色を触らせようとして・・・逃げてきたんです! 職員室でも先生がみんな・・・それで湯呑みのオレンジ色かけられて・・・!」
「え? ちょっと、何? 何言ってっか、わかんないんだけど——?」
ぱん!
と音がして、沙緒里がふり向くと、美緒が自分の両頬を手で挟むように叩いたところだった。
他のみんなも、何が起こったのか、という顔で美緒たちの方を見ている。
「ごめん。無事なみんなを見たらっ、・・・力抜けちゃって。整理して話すね。みんなも聞いて——。」
美緒はその頬に涙の跡を残したままで、そこにいた生徒たちに向かって状況の説明を始めた。
通学の途中で水たまりの中にいたオレンジ色の小さな何かのこと。香澄がそれに触って感染したらしいこと。そのあと瞳がオレンジ色に光って、美緒や他の生徒を水たまりに引き込んで感染させようとしたこと。
職員室に先生を呼びに行ったら、先生方も全員感染してて目がオレンジ色に光ってたこと。ここにいる平田クンが先生から湯呑みに入ったオレンジ色をかけられたけど、ズボンが撥水加工だったので感染せずに済んだこと——。
「如月、おまえこそ頭大丈夫か? なんなん、そのバイオハザードみたいな話? 湯呑みにオレンジジュース入ってたって?」
窓際の机に腰掛けて椅子に足を乗せていた金森大樹が、ちょっとバカにしたような顔で茶化すような響きを持った言葉を投げてきた。
「妄想じゃねーよ! 湯呑みに入ってたのはただの水で、そこに1個オレンジ色の粒が水面を走り回ってたんだ。そいつをわたしたちに感染させようとして、国語の小田切のやつが湯呑みの水ごとかけてきたんだよ!」
美緒も言葉がきつい。
「美緒。美緒って——。」
沙緒里が美緒をなだめようとするが、美緒は止まらない。美緒自身が信じられない体験を今しがたくぐり抜けてきたばかりで、感情のコントロールができていない。
「この1年生と一緒におんなじ妄想見たってか!? 嘘だと思うんなら、職員室に行ってみろよ!」
金森が足を椅子から下ろして景色ばんだ。
「あ? なんだよ、如月! おまえ、その言い方・・・」
その時、スマホの着信音が鳴った。
「あ、わたしのだ!」
美緒が電話に出る。
「おい! 無視すんのかよ?」
「もしもし。あ、お母さん!」
美緒の母親からの電話だと知って、金森が黙る。向こうに聞こえたら、後で厄介なことになるかもしれない——とわからないほど金森もバカではない。
「な、何って、上手く説明できないけど、オレンジ色した小さな何かが水たまりにいて、それに触ると感染してみんなおかしくなるの! 信じてくれる? え? ニュース?」
美緒のそのやりとりを聞いて何人かがスマホを触り出した。
「あっ、やってるぞ、臨時ニュース。東桜蓮駅前でパニックになってるって・・・。」
「オレンジ色の粒? 如月がさっき言ってたやつ?」
それを聞いて、金森もスマホを触り出した。
「オレンジ色に目を光らせた暴徒・・・だって?」
「うん、わかった。体育館前の駐車場だね。うん、そこで待ってる。大丈夫、それには近づかない。お母さんも気をつけて。」
美緒が電話を切るのと、誰かが「わっ!」と叫んで、ガコン、と何かが床に落ちる音が聞こえるのが同時だった。
床に転がった水筒から流れ出たお茶が小さな水たまりを作り、その上をオレンジ色の小さな何かが3つ、はじけるようにして転がり回っている。
「それに触っちゃダメぇ——!」
美緒が言うまでもなく、ニュースを見たみんなは遠巻きにそれを見るだけで、誰も近づこうとはしない。
「な・・・何なんだ、あれ? なんでオレの水筒に・・・?」