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オレンジ色  作者: Aju


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16 母と子

 これは快挙だった。——と言っていい。


 佑美の母親を目の届く範囲に置くことができただけでなく、感染者についてより多くのことを知るための決定的手がかりを得たということでもあるからだ。

 幸いなことに、佑美の母親の陽南ひなはテレビで見た東桜蓮駅前の暴徒や中学校の先生みたいに粗暴な振る舞いはなく、ただひどく受動的に佑美の言うことにだけ従っている。

 特に佑美が何かを言わなければ、黙って祐美を抱きかかえて座っているだけだった。


「お母さん、おなか減ってない?」

 佑美がコンビニのおにぎりを1つ陽南の前に差し出すと、彼女はゆっくりとした動きでそれをわし摑みにした。

 ビニールのかかったまま口に持っていこうとしたから、佑美が慌ててその手を掴んで止める。

「ビニールかなきゃ。」

 佑美が陽南の手からおにぎりを取り上げても、陽南はそれを見ているだけだ。佑美はビニールを剥ぎ取って、もう一度母親の手に戻す。陽南はそれをまたわし摑みして口に持っていった。

 動きはやはり緩慢で、あまり細かい指使いはできないようだった。手のひらで押し込むようにして食べる。


 おにぎりを全部、ごくん、と呑み込むと、すぐに菓子パンに手を伸ばした。おなかは減っているらしい。

「お母さん、ビニール取らないと・・・。」

 佑美が中のパンだけを取り出して陽南に渡すと、今度はそれを自分の口には持っていかず、佑美の顔の前に差し出した。

「ゆみチゃんモ食べナサい。」

「わたしは・・・さっき食べたから。」

 佑美がそう言っても陽南は反応しない。パンを佑美の前に差し出したままだ。


 佑美がちょっと困った顔をして、周りを見回した。

「半分っこしてみたら?」

 美緒がそう言うと、佑美は少し「助かった」という顔をしてそれをやってみることにした。

「半分っこしよう、お母さん。」

 そう言ってパンの上半分をちぎって自分の口に持っていく。すると陽南も同じようにして残りの半分を口に持っていき、さっきと同じように手のひらで押し込むようにして食べた。

 全般に、繊細な動作ができなくなっているように見える。


「おシっこ。」

 陽南が言って立ち上がった。

「あ、お手洗いはこちらです。」

 市川先生がそう言って案内しようとしたが、陽南はあらぬ方向に歩き出す。

「お母さん、おトイレこっち。」

 佑美が手を引いて市川先生の家のトイレの方に誘導する。陽南はおとなしく従った。

 扉が閉まると、中から佑美の声だけが聞こえてきた。

「ほら、お母さん。フタ開けたよ。ここ。ちゃんとパンツ下げて。」


 まるで・・・、幼児か、認知症の患者のような・・・。

 たぶん皆そんなふうに思っただろうが、口には出さない。口に出したら、耐え難い何かに襲われそうな気がした。


「感染すると、脳の機能が低下するんでしょうかね? 動きがゆっくりになるのも、それだと説明がつくような・・・」

 市川先生が独り言のように言ってから、ちょうどトイレから出てきた佑美と目が合ってハッと口をつぐんだ。

 佑美は、ぺこりとお辞儀をしただけだった。誰も言葉を発しない。


「何人かで交代で佑美ちゃんのお母さんを見ながら寝よう。佑美ちゃんも少し眠った方がいい。みんなも——。」

 亜澄海が空気を変えようと明るい声で言うと、泉深いずみがそれを受けて言った。

「大人は寝てください。車運転できるのは大人2人だけなんで——。寝ずの番は、わたしたちだけでやります。当番やってくれる人?」

 佑美が真っ先に手を上げた。・・・が。

「佑美ちゃんは寝て。お母さんは佑美ちゃんの言葉しか聞こえないみたいだし、いざという時は佑美ちゃんだけが頼りだから——。眠れる時には眠って、体力温存しといて。当番は、他の人でやるから。」


 いざ、というのは、泉深さんはどんな時を想定しているのだろう? と美緒は思ったが、たぶん、言葉のあやだけなんだろう。

 結局、当番は美緒と香鈴と金森姉弟で交代してやることになった。


 ところで、真っ先に眠ったのは陽南さんだった。ソファに座って佑美を片手で抱えたまま、首を前に落としてすうすうと寝息を立て始めたのだ。

 佑美は身じろぎもせず、抱えられたまま母親の寝顔を見ている。

「佑美ちゃんも寝たら? わたしたちの誰かがちゃんと見てるから。」

 泉深が声を抑えて言う。


「如月さん、ちょっと・・・。」

 市川先生が小さく言ったので、美緒は顔を上げた。

「あ、いや・・・。お母さんの方。」

 亜澄海が「?」という表情で市川先生を見ると、先生はチラチラと佑美の方を見ながら

「ちょっと・・・、あちらで聞いてほしいことが・・・。」

と言う。


「先生・・・」

 佑美が母親に抱かれたまま、市川先生を見た。

「何か・・・分かったんなら、わたしも聞きたいので・・・。」

「あ・・・ああ・・・。」

 ちょっとたじろいだようにして、先生は亜澄海の方を見た。


「いいんじゃないですか。何か分かったのでしたら、佑美ちゃんこそ聞く権利があると思いますよ。」

 亜澄海の言葉を受けて、市川先生は少し安心したような顔になった。

「あくまでも、ここまでの観さ・・・見てただけの推測でしかないんだけど・・・。あの・・・もし傷付いたらごめんね。」

 そんなふうに前置きして、先生は話し始めた。


「まず、中学校で見た感染者たちの行動や今の佑美ちゃんのお母さんの様子を見て、共通していると思えるのは、最初はまずオレンジ色の粒に触らせて感染させようとすること。これに関しては、相手は見境いないらしいこと。

次にはっきりしているのは、動作がひどくゆっくりになってしまって、しかも細かい動作が上手くできなくなるらしいこと。そして、何か1つの日常的行動にこだわって意識が固定化してしまうらしいことです。

如月さんのお母さんの話では、小学校では感染した生徒たちは、まるで授業中みたいに席に座っていたそうですね?」

「ええ、たしかにそんな感じでした。でも、わたしたちを見つけると、水槽のオレンジ色をすくってかけようとしてきましたね。」

「そして、廊下で出会った教員は刺股さすまたを持って取り押さえようとした。話しても、全くコミュニケーションが成立しない。そうでしたね?」

「はい。」


 市川先生は、少し言葉を探すように間を空けてからまた話し始めた。

「感染を拡げる——という行動の他は、身体のコントロール能力も認知能力もひどく低下してしまっています。これがどうやら、感染の症状のようです。

その結果、日常的な1つの行動や感情の1つに意識が固着してしまうのかもしれません。佑美ちゃんのお母さんの場合、それは佑美ちゃんを心配するという感情に——。」

 つまり、陽南さんは今、佑美ちゃんのことしか考えられなくなってしまっているということか——? それはつまり、陽南さんにとって佑美ちゃんのことだけが、残された最も重要な意識——ということなのか?


「う・・・・」

 佑美の目から涙があふれ出し、佑美は自分の肩に回されたままの母親の手を両手で包み込んだ。陽南は、静かに寝息をたてたまま眠っている。


「中学校や小学校に感染した生徒がいなかったのは・・・、ひょっとしたら、ただ下校しただけかもしれません。」

 意外な推論に、皆が「えっ?」という顔をした。つまりそれが、日常の1つの行動に固着した、ということ?


「明日、確かめに行ってみませんか?」

 市川先生はそこまで言うと、自信なさげにみんなを見回した。

「行ってみましょう。」

と亜澄海も同意した。

「もしまた登校してきていたら、彼らはどんな行動をとるのか、どんな反応を見せるのかも見ることができます。」


「もう1つあるぜ。」

と大樹が言った。

「なんでか、電気設備ぶっ壊すよな? 財田ンとこも、電気ついてなかったんだろ?」

「それも明日、見てみましょう。受電設備が壊されてるのか、それともただ電気を点けてなかっただけなのか——。防災袋や発電機もあった方がいいですしね。」

 先生はそう言って、佑美の顔を見て少しだけ笑って見せた。



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