10 水
市川先生が検査キットを使って水たまりの水と水道の水を調べてみたが、pHもCODも異常な数値は見られなかった。
「水飲み場の水道水でも、出たんですよ。あれがね。」
「水道の水もですか?」
「それじゃあ、もうペットボトルの水しか飲めないってこと?」
亜澄海と美緒がちょっと悲痛な声を上げた。ここにいる12人の飲み水の確保すら危ういではないか。
いずれ他の人たちもこのことに気づけば、「安全な水」の争奪戦になるんじゃ・・・・。
「いや・・・。ちょっと、そのペットボトルいいですか?」
そう言って市川先生は今しがたコンビニから美緒たちが「略奪」してきたミネラルウオーターを受け取ると、逆さまにしてスマホをかざした。
ひっくり返されたペットボトルの底には、中の空気が溜まってわずかながら「水面」ができる。そこに・・・・
あのオレンジ色が現れた。
ほとんどその場の皆が卒倒しそうなほどの衝撃だった。
ペットボトルに封印された水まで・・・!
「それもちょっと・・・。」
市川先生だけが冷静な顔で、別のペットボトルを指さした。輸入もののミネラルウオーターだ。
同じようにひっくり返してスマホをかざす。
オレンジ色が現れた!
日本の水だけじゃないの?
「飲める・・・水が・・・ない?」
佑美が絶望的な声でつぶやいた。
「ジュースはありますか?」
市川先生はなおも冷静な声で言う。言いながら、紙コップにペットボトルの水を入れる。美緒がコンビニで獲ってきたリンゴジュースのパックを渡すと、先生はその口を開けてもう1つの紙コップの中にトポトポと注いだ。
それから、スマホを操作して2つのコップに近づける。
オレンジ色が現れたのは、水の方だけだった。
「なるほど。」
と、市川先生は納得したようにうなずく。
「もう1つ実験してみましょう。」
まるで授業でもするように言って、市川先生はさっきのペットボトルにもう片方のペットボトルの水を注ぎ込んで口までいっぱいにした。そのままキャップをきつく閉める。
中に空気がなく水で満たされたペットボトルを逆さにして、スマホを近づける。
オレンジ色は現れない。
「水面がないからか——。」
大樹が言うと市川先生はにこっと笑った。
「正解!」
まるで理科の授業だ。
さらに市川先生は、さっきオレンジ色が現れた紙コップの水にリンゴジュースを注いで混ぜた。
今度はそれには、スマホを近づけても何も現れなかった。
「ものすごく大雑把な仮説に基づくものですが、この検証もされていない実験から分かることは3つあります。」
本当に、市川先生の授業だ。美緒はこんな時だというのに、少しワクワクしている自分に気がついた。
先生は、まるで保護者の亜澄海や小学生の玲奈がいることも忘れたみたいにして説明を続けてゆく。
「1つは、これは水面にだけできるということ。2つ目は、CODがあるレベル以上になると、つまり混ざり物がある『汚れた水』だとできないということ。3つ目は、私は濡れた手でこの実験をやっていますが、特に影響が出ないこと。
ということは水そのものに何かあるのではなく、水面と深さときれいな水質という3条件にデータ通信の電磁波が関係することで起こる現象——と考えることができそうです。」
市川先生は、生徒たちが理解したか確認するみたいにちょっと間を取ってからまた続けた。
「水だけを触っても『感染』は起きませんでした。つまり、あの『感染』は活性化しているオレンジ色の粒に触れた時にだけ起こる——と推論することができます。あるいは、それを皮膚から吸収してしまった時にだけ——。」
亜澄海がスマホを手に持ったまま、固まっている。
「どうしよう・・・。白藤先生に、この情報、電話で伝えた方がいいと思うけど・・・、わたし、上手く説明できそうにない・・・」
「ああ、小学校の先生ですか。私が説明しましょう。でもその前にもう一つ実験を・・・。以上の推論から、水は飲んでも大丈夫だと思います。ちょっと飲んでみますね。」
そう言って市川先生が紙コップを手に取ったから、美緒は思わず叫んだ。
「わたしが飲みます! 先生に何かあったら、ここにいるみんなが頼れる人がいなくなる!」
「ばか言っちゃいけません。生徒にそんなことさせられるもんですか。仮説を立てた私が飲みます。大丈夫。今説明した以上に、この仮説は信じられる根拠があると私は考えています。」
先生はそう言うと、くい、と紙コップの中のリンゴジュースの混じった水を飲み干してしまった。
さっきスマホを近づけた時にオレンジ色が発生した、あの紙コップの水だ。
「ほら、大丈夫でしょ?」
固唾を呑むようにして市川先生の目を凝視しているみんなに向かって、先生はその目を細めてにこっと笑った。何も起こらない。
「発生しているオレンジ色に触れさえしなければ、水は飲めるってことです。小学校に電話してください。この情報は伝えましょう。」
沙緒里がそそっと美緒の傍にやってきて、その耳元に小さくささやいた。
「わたしも、ファンになっちゃった。」
目がちょっと潤んでいる。




