1 オレンジ色
それは、ある雨上がりの朝、道端の水たまりの中にいた。
いた——という表現で、間違っていないだろう。あった、と言うには、もっと生物的な様相を示していたからだ。
=オレンジ色=
いつもと同じ朝だと思っていた。
如月美緒は、閉じたカサを持って友人の浜田香澄と並んで他愛もない話をしながら通学路を歩いていた。
もう中学校は目の前で、さっきまで降っていた雨は今はやんでいる。
「あ、虹!」
香澄が指差す西の空を見ると、うっすらと七色の円弧が見えた。
「ほんとだ。今日は朝からなんかいい日だね。」
そう言ってしばらく2人でその微かな彩りを眺めながら歩いて、視線を人の高さに戻した時、美緒の目の端に妙なものが見えた。
道端の水たまりの上で、オレンジ色の何か小さなものがいくつも走り回っているのだ。
「?」
美緒はちょっと眉根を寄せた。それに気づいた香澄も、水たまりのその変なものを見つけた。
美緒と香澄は、ほぼ同時に水たまりの前にしゃがみ込んで、その「変なもの」をよく観察しようとする。2人とも理科クラブに所属していて、好奇心だけは旺盛だ。
それは小豆粒よりも少し小さいくらいのオレンジ色の何かで、形はいまひとつ定かでない。玉になる前の線香花火の先端のように小刻みに形を変え、わずかに光っているようでもあった。
それは、なんだか水に落ちたドライアイスのかけらみたいに、はじけながら水面を転がっているように見えた。
「なんだろ?」
香澄がそれに手を伸ばす。
「やめなよ。触んない方がいいよ。」
美緒が止めようとしたが、香澄がそれを指先でつつく方が先だった。いや・・・つついた・・・ように見えただけか?
香澄の指先は水たまりの水面に触れただけで、そこにオレンジ色の何かはなかった。
「なんでモないよ。美緒も触ってみな——。」
「え?」
香澄らしくない、どこか冷たい声音に、美緒は思わず香澄の顔を見た。表情がおかしい。
それどころか、瞳孔の中が微かにオレンジ色に光っている。
背筋に悪寒が走って、美緒はほとんど反射的に立ち上がった。
「どうしタの? 美緒も触っテみナよ。なんでモないから——。」
香澄が妙な姿勢で美緒の足首を掴もうと手を伸ばした。美緒は思わず足を引く。
「なンだよォ?」
香澄が怒ったような、それでいて奇妙に抑揚のない声で言いながら、すくっと立ち上がった。表情が明らかに普段の香澄ではない。目の中のオレンジ色の光が強くなっている。
「みおォ。友だチだろ——? 触れっテ言ってんだヨ!」
普段の香澄の物言いではない。香澄が美緒の左腕を掴んだ。
「ちょっ・・・、やめてよ。 香澄! 香澄ったら!」
香澄は今は明らかに悪意を持った顔つきで、美緒を水たまりに引き込もうとしていた。水たまりにはまだ5つほどのオレンジ色が走り回っている。
美緒は足を踏ん張り、必死で抵抗した。
「香澄! 香澄! ちょっと、やめて!」
美緒はかなり本気になって香澄の手をふりほどいた。香澄はなおもまだ、美緒を掴もうとして襲いかかってくる。
そう、襲いかかってきたのだ。その表情はもはや美緒の知っている香澄ではなく、攻撃的な意志を持った何者かだった。
「やめて! やめてぇ! 香澄! 香澄! 目ぇ覚ましてぇ!!」
美緒は半泣きになりながら、友だちだったはずの香澄の名を呼び叫んだ。
友だち・・・のはずだ。 はず、だよね、香澄——?
しかし、美緒のその思いとは裏腹に、身体は1個の生命体としてその危機を察し、半ば本能的にカサを振り回しながら防戦していた。
あれは・・・・。あのオレンジ色の何かは、何かひどく禍々しいものだ。触れただけで体内に侵入する? それが香澄の身体を乗っ取ってしまった・・・?
頭ではなく、生命としての本能で美緒はそれを感じ取って抵抗していた。
まわりにいる通学中の生徒たちは好奇の目で2人を見るが、関わってこようとはしない。何人かはスマホを構えて撮影を始めた。
そのうち1人の男子生徒が、あの水たまりに近づいて不思議そうな顔で手を伸ばすのが美緒の目の端に映った。
「それ、触っちゃダメぇぇぇ!」
美緒は好奇の目で見られていると分かってはいたが、思わずその「評価」にダメ押しする金切り声を上げていた。
だが、その意味を男子生徒は理解しなかった。
男子生徒が顔を上げた時には、その瞳の奥がオレンジ色に光っている。
「おい、みんナ来てみろよぉ——。面白いもん、いるぞォ。」
「なんだ? これ・・・。」
何人かの男子が水たまりを覗き込む。すると、瞳をオレンジ色に光らせた男子生徒がいきなり彼らの腕を掴んで水たまりに突き落とすように次々に手をつかせた。
「おい、なにすん・・・」
いつもの悪ふざけのつもりだろう。笑いながら上体を起こして最初の男子生徒をふり返った男子数人は、そのふざけっこのような言葉を途中で止めて表情を失った。
彼らの瞳の奥が、例外なくオレンジ色に光りだした。。
その男子生徒らが、他の生徒も同じように水たまりに落とし込もうと腕を引っ張ったり背中を押したりし始めた。男子も女子も見境いなしだ。
「きゃっ!」
「やっ! 何すんの?」
悪ふざけ、というような域はとうに超えている。
香澄は、と見ると、もう美緒に興味を失ったみたいに別の生徒の腕を引っ張っていた。
「ちょっ、浜田さん! なに?」
水たまりに転ばされたり手をつかされたりした子は皆、表情を失って瞳をオレンジ色に光らせ始める。
何か異常なことが起きている。
そう察した何人かが、瞳をオレンジ色に光らせた者たちから身をかわして逃げ始めた。
美緒も、掴みかかろうとする男子生徒の腕をカサで払いのけて逃げようとする。カサが曲がった。
そんなつもりはなかったのに、かなり強く腕を叩いてしまったらしい。
「何スんだよォ。痛いダろォ?」
言葉と表情が合っていない。骨が飛び出たカサを捨てて、学校の方に向かって走り出す。
美緒が走りながら振り返ってみると、男子生徒は美緒を追いかけて走るでもなく、普通の速度で歩きながら別の生徒の腕を掴もうとしていた。
どうする? どうすればいい? あれは何?
とにかく、先生。 このことを先生に伝えないと! でも、どうやって? なんて言えばいい? まともに信じてもらえるとは思えない。
でも・・・。
でも・・・。
香澄やみんながおかしくなった! あのオレンジ色に・・・・、水たまりのオレンジ色に触れてから、おかしくなった!
よく見ると、あちこちの水たまりにオレンジ色の小さなものが無数に、弾けるようにして水面を転がって動いている。
前を行く生徒たちもそれに気づいたようで、不思議そうに覗き込んでいる子が何人かいる。 オレンジ色は水たまりの外にまでは出てこないようで、覗き込んでいるだけの分には、それの影響は出ないようだった。
「だめ! だめぇ———!! それに触っちゃだめ!」
水たまりを避けて走りながら叫ぶ美緒を、皆が変な人を見るような顔で見た。