周り回る
老人ホームとは核家族化が進んだ現代において、なくてはならない福祉施設だ。
共働きが政府から推奨され、なかなか介護に時間を割くことができない際には非常に助かる施設だ。
全てを管理してくれる。もちろんその分割高にはなってしまうが。
この「ホームステーションアゼリア」は有料老人ホームではあるものの、通常の老人ホームよりは値が張る。しかし、ほとんど一人に対して専門の介護士が付くこと、さらにケアのクオリティーが高いこともあって県外からも殺到するほどの人気がある。
外周はアゼリアが意味する色とりどりのツツジの花が取り囲んでいる。この街の象徴でもある。
4、5月になれば街と山をつなぐ国道沿いにあるここも花の最盛期を迎える。
来訪者も花ばかりの道を通ってここに来るわけなので、初めて歴史的建造物を見たのと同じ荘厳さに包まれる。一目見て入居を決めるものもいるくらいだ。
橘 めい子もそこの職員だ。
生まれも育ちも崎野宮。県外の専門学校を卒業してこの施設に就職した。本人もまさか地元であり、人気就職先でもある老人ホームで働くことができるとは思ってもみなかった。祖父の介護を実家で短期間行っていた際に介護の難しさに直面した。優しい大好きな祖父と一緒に生活ができるという幼い幻想は、病気の症状が進行するのと同じ速さで崩れ去っていた。両親も介護疲れか喧嘩も増えていき、仲はあまりいいとは言えないものにまで変化していった。それは世の介護を抱える世帯にとって、ごく普通のありふれた光景でもあった。
仕事を言い訳に返ってこなくなる父親。介護から一早く抜け出すため、入居施設費用を捻出しようとスナックを始めた母。幼いめい子にとって両親とは現実から目を背ける生き物でしかなかった。
病気が進行していく中でも祖父とは一日2,3時間は話すことができた。今日学校であったこと、
クラスの友達にされた嫌なこと、初めて描いた絵本、たくさんの自分の話を祖父は聞いてくれた。中には同じような話もあったが、嫌な顔もせず初めて聞いた話のように祖父は聞いてくれた。びっくりする話も一回聞いたときより驚いてくれてみせたり、めい子にとって友達と話すより楽しい時間だった。両親に祖父と一緒に寝ていたことをたびたび怒られることも日常だった。そんな日常もあっという間に過ぎ去っていった。
「めい子、今日は話があるんだ。」
祖父がもう話せなくなって数年経ち、祖父の世話もほとんどめい子がしていたころ。白髪交じりになった髪を申し訳なさそうにかきながら話しかけてきた。
隣には母はいない。最初は施設入居費用を稼ぐためにスナックに通ったが、現実から逃げこの家からも出ていったのは祖父が話せなくなったころだったか。
「改まって一体どうしたの。」
祖父の体をふいて部屋から出てきた彼女は21時になってもまだ学生服姿だった。学校から帰ると仕事の為に返ってない父の代わりに介護をしていた。小さい頃は祖父の上で寝ていためい子だったが話しかけられた時にはもうそれもできないくらいに成長していた。片手には介護した際に使った汗をかいている道具を片手に持っていた。
「おじいちゃんの世話。もうしなくていいんだ。」
曇った眼鏡に照明の光が一瞬反射し、心からの笑顔とは言えない薄汚い笑みを浮かべながら父は言った。
そのあとのことは覚えていない。思い出したくもない。
「橘さんはいつも早いよね。感心しちゃうよ。私ったらどんなに急いでもこの時間になっちゃって」
コーヒーを入れながら小倉里香が話しかける。彼女は同期だが一年たった今でもめい子のことを名字で呼んでくる。
「ん、ありがとう。それしかできないからさ。しっかりしてるように見られるけど、家はハチャメチャ汚いからね。」
肘をつきながら見ていたケータイを懐にしまい、片手でコーヒーを受け取りながら答えた。里香が席に座るのを待ち、そろいのマグカップをほぼ同じ動作で口元に近づける。
「嘘だよ絶対。こんなしっかりしているのに家は汚いってわけないじゃない。『時間を守れる人はしっかりしている』って受け持ちの安藤さんは言ってたし。」
「安藤さんが見てきた人はそうかもしれないけど私は違うよ。」
嘘をついていないのに、外見だけは良くしているため信用されないようだ。うれしいんだか悲しいんだかわからないけど。
唯一の同期だからか彼女は仲良くしてくれる。ほかの職員とも関係は良好だし一つの要因を残して。
夜勤スタッフが肩をがっくり落としながら休憩室のドアを開けて入室してきた。
「橘さん。小林さんがほら、またあれだよ」
時計の針が交代の時間を告げる前に、出勤の時間は訪れた。今日の出勤もいつもと変わらない。苦笑いしながら、自分の担当じゃなくてよかったと見送る里香。まだ熱を帯びているマグカップを空にしている。最初こそ洗ってからという考えがよぎっていたが、出勤時間を早めさせられているからと前任者にそれをお願いするようになっていった。もちろん今でも洗う気はある。それでも後回しにする大きい理由が目の前に控えている。
「いってらっしゃーい」
少し縮こまりながら今日の様子を前任者と共に話しながら見送る里香に、口角を半分だけあげて答えた。そこに言葉はない。廊下には、彼女の白い運動靴が新品の靴と同じような音を響かせていた。