お願いがあります。[安西の視点]
晴海の病室を出た。
抱き締めた感触、唇の感触、全てが愛しくて堪らなかった。
僕の人生は、あの日から、絶望が続いていくと思っていた。
恋なんて、もう二度としないと思っていた。
また、誰かを死なせる死神。
もう、大切な誰かを失いたくなかった。
晴海から、生きていきたくない気持ちを感じとった。
それでも、生きていてなんて言えなかった。
僕は、そんな資格などない…。
さとが言った。「美矢、一緒に死んでくれない?」僕は、頷いた。
霧人が一番でしかいられない世界。
さとを愛しているのに、好きなのに、拭えない罪悪感がずっとあった。
「新しい人を好きになりなさい」そう、簡単に人は言うけれど、一番が固定された世界の住人である僕自身はとても苦しかったんだ。
さとが、僕の一番になればなんて幸せな夢をよく見た。
こんなに愛されて、こんなに幸せで、なのに…
なのに…
心のすみの方からゆっくりと広がっていく空しさに押し潰されそうになった。
一番の席を生きている人間で埋まっていない事は、こんなにも空しい事なのだと気づいた。
さとも、またそれに気づいたのだ。
死に損ないになってしまった僕は、左手の違和感に悩まされていた。
絵を描けないなら死のう…。
毎日、毎日、毎日、そればかりを考えていた。
「まだ、開店前だよ」
「正人さん、お話があります」
僕が近づくと正人さんは、椅子に座る。
「もうすぐだね。美矢君には、新しい人がちゃんと出来たんだね」
指輪がないのに気づいた正人さんが笑っている。
「今日は、お願いしたい事がありまして、……………です。無理でしょうか?」
「うーん。そうだね。美矢君の頼みなら聞くよ。」
「ありがとうございます。」
「ただし、ちゃんと仕事はしてくれよ。」
「わかっています。」
「美矢君、またこの絵が描けるかも知れないね。」
正人さんは、空市のチャペルのパンフレットを差し出してきた。
「霧人がいた時の絵ですね」
僕は、懐かしかった。
「もう二度と描けないって言ってたね。この絵」
「そうですね。」
「死んだ人間に囚われてる美矢君の絵も死んでたのかな?確かに、どこか欠けてる今の絵も好きだけれど…。このチャペルの絵のように未来が見える絵の方が素晴らしいと思うよ。」
「そうですよね。今の僕の絵には未来がないですから…。」
「じゃあ、お墓で会えるのを楽しみにしてる。」
「はい」
僕は、天の川カフェを出た。
向こうの絵を描くのは、次は来週だ。
もしかすると、次にあの壁に向き合ったら描きたくなる絵が違うのかもな…。
鞄の中から、小さなスケッチブックを探した。
忘れていた。
僕は、晴海に連絡した。
晴海の言葉に泣いていた。
電話を切って、家路に急いだ。
晴海を幸せにしたい。
ただ、それだけしかなかった。
家に帰って、部屋を片付ける。
晴海も部屋がいるのではないだろうか?
アトリエにしてる部屋を片付ける。
こっちに僕がいくべきかな…。
美樹君、霧人、さと、三人の写真をアトリエに持っていく。
「ごめんね。生きてる人間を一番にしたいんだ。」
僕は、三人の写真立てをアトリエに飾る。
「僕は、晴海と幸せになりたいんだ。美樹君、霧人、さと。ごめんね。」
写真の中の三人は、笑ってるだけで何も答えない。
晴海みたいに、泣いても、怒ってもくれない。
それが、とてもつまらないって事に、初めて気づいた。
触れられない事の空しさ、目覚めると隣にいない絶望、何の返事もこない写真。
こんなにも、空っぽを抱えていた事に気づかなかった。
晴海も同じだろうか?
囚われているうちは、何も見えなかった。
写真に語りかけるだけで、幸せだった。
晴海に出会ってから、それだけじゃ足りなくなって
触れたくなって
キスしたくなって
どんどん、どんどん
僕は、欲張りになっていった。
手を洗って冷蔵庫を開ける。
正人さんに教わった糠漬けを取り出した。
お酒を飲んで、さっさと寝てしまいたい。
だって、明日は晴海の包帯がとれる日だ。
どれだけ、痣だらけでも、腫れ上がっていても構わない。
晴海の二つの目を見れる。
それだけで、幸せなんだ。
ポリポリとキュウリを食べながら、ビールを飲む。
全身で、晴海を愛したい。




